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第二十七夜   蹔く崎嶇を借れども石を戴けるにあらず

 山と積まれたマシュマロがどろどろに溶け合ったような入道雲が、紫ぐんだ陰をたたえながら空に伸びていく。稜線の辺りは太陽に照らされて、その輪郭を幽霊のように曖昧にさせていた。


 昨日より一段と熱を孕んだ景色を見上げながら、みことは自転車を漕いでいく。まだ七月にもなっていないのにこの暑さは異常だと思うが、毎年同じ感想を抱いている気もする。


 昨夜は疲れていたからか、夢を見た記憶は無い。しかし、起きた時から視界の端々に白い顔が見えていた。正体が霊だと分かってもなお、言い知れぬ不快感は拭えないままである。


 目下の不安要素は、学校でどれだけ噂が広がっているかであった。刑事から、昨日話したことは他言しないように指示が出ているが、学校生活において、秘密というものが守られる可能性は皆無に等しい。


 ほどなく学校の裏門に到着すると、ちょうど明烏幻も生徒の群れに混ざって登校してくるところであった。一昨日、みことの帰りを尾行していたから、今日もずっと背後にいたのかもしれぬ。「……キショ」と思ったみことは、彼をすっかり無視して、駐輪場へ自転車を引っ張っていった。明烏幻の方でも、屋上での会談などまるで無かったかのように、みことへの反応を示さなかった。


 若干以上の怖れを孕んだ足取りで、南館の外階段を上がる。一年一組の前まで来ると、不意に背後から肩をつつかれたので、みことは飛び上がった。


「わっ」

「あ、お、おはようございます」


 振り向くと明烏幻である。肩を触る前に声をかけろよ、コミュ障。


「……おはよう」


 急に触られたことと、尾行されていた疑惑で、みことはやや険悪な口調で応じた。実際には、今日の明烏幻は尾行もせず千里眼も使っていなかったのだが、みことが知る由も無い。


 みことが教室に入り、明烏幻もそれに続く。入ってみると、一部の生徒ではあるが、やはりみことに怪訝な眼差しを向けている者がいるように感じられる。考え過ぎだ、事実だとしても気にしなければいいと思うが、教卓の陰から血走った目がこちらを見つめている。あー、無理だ、やっぱり。


 そう思った刹那、御簾を下ろすような滑らかさで、真っ黒な靴が白い顔を踏み潰した。ヘドロが床と教卓に飛散するが、砂利をなする要領で靴が動くと、すぐに消えてしまった。


 教卓上の座席表を覗き込むふりをして、白い顔を踏み潰した明烏幻は、唖然とするみことをよそに恬然と自席へ歩いていく。みことは慌ててその後を追い、背中に向かって「……ありがとう」と呟いた。明烏幻は振り向きもしない。


 それぞれ席につくと、隣の田沢、斜め後ろの水原がみことに視線を走らせたが、露骨によそよそしかった。やはり、噂は確実に回っているのだろう。




 昼休み、みことが食堂で昼食を買って教室に戻ると、自席は水原や田沢とよくつるんでいる男子たちに占領されていた。明烏幻もどこかに消えている。


 水筒だけ回収して、中庭の藤棚か食堂に行くことも考えたが、六、七限目は体育であった。昼食を食べて、また教室へ体操服を取りに戻るのは何とも二度手間である。だからといって、食堂で買ったポテトなどの容器を持ったまま更衣室に向かうのも何となく嫌だ。知らない男子に「どいて」と話しかけるのは論外。今日は野々宮が欠席しているので、彼女の席に避難することもできない。


 クソ、あの男子どもがいなければ、こんなことは考えずに済んだのだ。勝手に他人(ひと)の席に座るなや、ボケ。


「みことちゃん?」


 教室の戸口に立ったままでいると、不意に背後から声がかかった。今度は急に肩をつつかれなかったので、そう驚かずに振り向くと、蓬髪の友人が、どこか物憂げな表情でみことの顔を覗き込んでいる。


「あ、純ちゃん、どうしたの?」

「昨日、放送部が大変だったって聞いて……みことちゃん、大丈夫ですか?」


 口調から、純が本気で案じてくれているのが伝わった。それが、みことの心を痛く満たした。


 心配してほしいとか、構ってほしいとか、そんな願望でいっぱいだったわけではない。他の生徒も大変な目に遭ったことは承知している。だが、あのような大事に至近距離で巻き込まれた帰結が、周囲からの疑念の眼差しだけというのは耐え難かった。


「……うん、大丈夫。ありがとう」


 感謝の言葉がこれしか出ないのが情けない。純は少し安堵したように相好を崩した。


「……純ちゃんこそ、昨日大丈夫だった?」

「私は外にいたので特に何も……。教室にいた人は大変だったそうですけど」


 校舎の外で放送が殆ど聞こえなかった橘も、呪いの被害は受けなかったと述べていた。彼女の証言は嘘ではなかったようである。


「あれ、みことちゃん、お昼まだですか」


 みことの手の中のポテトと唐揚げを見て、純が問う。


「あ、うん。席がとられてて」

「じゃあ、三組で一緒に食べませんか?」


 三組の教室ならそう遠くない。渡りに船というべきであった。




 純の席でプラスチックの容器を開けながら、みことは少し声をひそめて訊いた。


「……昨日のこと、先生から何て説明された?」

「調査中みたいなことしか言われなかったですよ。みんな色々質問してましたけど……。放送部の人は呼び出されたんですよね?」

「うん。色々訊かれて大変だった」


 つとめて明るく答える。一応、具体的な話の内容は語らぬようにする。


「機械の故障とかなんでしょうか」

「いや、全然、原因とかは分かってないって……」

「私のクラスには、テロって言ってる人もいました」


 教頭の言っていたことではないか。昨日の会議室でのやり取りは、かなり流出しているのか。


「……でも、こんなところ攻撃しても何にもならないんじゃない?」

「ですよね。私も、テロは無いと思いました」


 みことは「だよね」と応じて、からびた笑い声を少し漏らす。それにつられてか、純も微笑する。純と出会ってまだ二か月足らずとはいえ、みことはこの少女が声をあげて笑うのを見たことが無かったし、想像もできなかった。純にとってのみことも、もしかしたらそうなのかもしれないが。


「……そういえば、一組に髪の真っ白な転校生が来たって聞いたんですけど」

「ああ、あけ……鷲谷君ね。転校生じゃなくて、登校してなかった人が来るようになったみたい」


 明烏幻の名前を言い直した時、前髪に隠れていない純の左目が半瞬、怪訝な反応を示したような気がした。


「あ、そうなんですね……。白い髪って、地毛なんですか?」

「らしいね」

「へえ……。何だか、エルフみたいですね」

「あ、それ友達も言ってた」

「本当ですか」


 二人は互いに、気を緩ませて笑った。それまでは、何か張り詰めたものがあった。少なくとも、みことの中には。


「みことちゃん、今日の放課後って空いてますか?」

「放課後? 空いているよ、部活も無いし……」

「ちょっと、一緒に来てほしいところがあるんです」




 七限のチャイムが響いた。体育の木戸先生の号令で、グラウンドに散らばっていた男子生徒たちは続々と集合し、授業終わりの挨拶をする。その中に明烏幻も混じっていた。体操服には青い刺繡で「鷲谷」とある。


 一人で更衣室へと歩きながら、彼は周りの男子たちを見回した。体育の授業は一年九組と合同なので、半数は見知らぬ顔である。一組の生徒も、三船から顔や名前のデータをもらっているが、何となく見覚えがある程度にしか認識していない。明確に記憶しているのは、隣席の水原祐嗣(みずはらゆうじ)くらいである。


 その水原は、幻の斜め前の席の男子と小声で話し合いながら、一・二メートルほど先を歩いている。男子高校生が小声でやる話など、十中八九は猥談であろうと思い、幻は会話を盗み聞きしようとはしなかった。


 六限目の途中までの彼であれば、何とか二人の会話の内容を把握すべく努力したであろう。朝から彼は、例のCDを投函した人物を捜すべく、生徒の会話に耳をそばだて、挙動の怪しい者がいないか、常に注意を払っていたのであった。昼休みはトイレにこもり、千里眼を使って放送室周辺の監視もした。


 そんな彼の集中力が途切れたのは、放課後が迫ってきたからであった。発端は昨夜のことである。


 屋上での会合を終えた後、ビルからビルへ跳躍を繰り返していた幻は、メッセージアプリの通知音を聞いて、横着にも上空で携帯電話を取り出し、画面をチェックした。内容は、明日の放課後に会えるかというもの。そして送信者の名前を目にした瞬間、彼はそのまま墜死しそうになった。


 更衣室の汗臭さに閉口しながら、腕時計を見る。まだこれから終礼があるのがもどかしい。心臓が踊っているのか、震えているのかは判然としないが、鼓動が速くなっているのが分かる。


 いや、ここは冷静であるべきだ。でないと失言などしかねない。


 黒外套に袖を通しながら、なぜ今になって連絡が来たのか考えてみる。三船から、彼が天高にいると聞いたのだろうか。しかし三船は「嫌がりそうでしょ、あの子は」と、彼女を〈神戸の一類〉の件に関わらせることに否定的だったはずだ。だから、この高校には既に陰陽生が一人いるにもかかわらず、幻をわざわざ送り込んだのだ。

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