第二十六夜 夏の夜の臥すかとすればほととぎす
「……見えますよ。霊ですから」
彼はみことの質問の意図が掴めないのか、やや首を傾げて答えた。そんなこと訊かなくても分かるだろ、と言わんばかりの態度である。
「そうなんだ……」
だが、みことにとってはそうではなかった。霊。あの白い顔が霊。
「あの……大丈夫ですか?」
怪訝な明烏幻の声に、みことは慌てて目を背けた。ハーゲンダッツだった月が、今は作りかけのホットケーキのように崩れた形になっている。
「……よかった……」
何だか身体が軽くなったような気分になって、みことは声を漏らした。「……どうしたんですか?」と、ますます不審げな問いが聞こえる。
「いや、すいません……何でもないです」
「何でもなくはないでしょ」
今度は明烏幻が混乱している様子に、みことの脳にやや冷静さが戻ってきた。何とか表情を整えて顔を向ける。辛うじて、得体の知れない男の前で泣くのは避けられた。
「……霊に関することなら、僕でよければ相談に乗りますよ」
「……えらく優しいですね」
「仕事ですから」
にべもない。だが、目が少し泳いでいたようにも見えた。
「……あの白い顔、ずっと霊じゃないと思ってたんです。私にしか見えない幻覚だと」
「どうして?」
「母が全く見えていなかったので……」
「神子上さんのお母さんも、霊感があるんですか」
あれ、とみことは思った。母のことを把握していないとは意外であった。
「私みたいにはっきり見えるわけではないみたいですけど。……私が見えている霊のことなんかを話したら、理解しているようでした」
だが、みことの記憶の限りでは、母が霊について、具体的に説明してくれたことは無かった。他人にこの話はしないよう言いつけられたことはあるが、「あれは幽霊だ」などと教えてもらった経験は無い。では、いつからみことは、霊を霊だと認識できるようになったのだろう。
何か思い出しかけた時、明烏幻が口を挟んできた。
「……神子上さんのお母さんが、あの顔を感知できないのは、強い霊ではないからだと思います。そもそもそこまで霊感が強くないことに加えて、『図』と『地』の要領で、五類にすら入らないような雑魚の霊は認識から除外されていたのでしょう」
よく分からない語句が登場したが、母に白い顔が見えていないのは、あれが幻覚だからではないということは理解できた。
「私、頭がおかしくなったんだって、ずっと思ってました。あんなものが見えるなんて……」
霊は、母と共有できるものだった。幼い頃、周囲の子供や幼稚園の先生に霊がいると訴え、変な目で見られても、家にいる母だけは必ず理解してくれた。幼少期の母も、同じ体験をしてきたのかもしれない。
いつからか、白い顔が見えるようになった。怒り、悲しみ、不安といった負の感情を抱いた時に現れるそれは、特に危害を加えてくるわけでもないのに、そこにいると思うだけで、心胆をねじられるような嫌悪、不快が込み上げてくる。そして怒り、悲しみ、不安が増幅される。抑えられなくなる。
白い顔は、母には見えなかった。離婚後、働くようになった母は家にいない時間が多くなり、みことは自分一人で対峙するしかなかった。
頭の奥で、服を切り裂いた時の音が反響する。次いで、椅子を投げつけて壁に疵をつけた時の音。母に言えないこと、誰にも言えないことが、どんどん増えていく。
顔を上げる。柔らかな月光に照らされた明烏幻の髪が、銀色の風になって揺れる。その隙間から見えた瞳に、誰にも分かり得ないような暗がりが一瞬、垣間見えた気がした。次の瞬間には、元の霞がかったセピアの瞳に戻っていたが、みことにはなぜか、彼が何かを思い出していたような気がした。
「……神子上さんは、頭がおかしい人ではないと思います。霊感は強いですが……。そう、気に病むことで
はないと思います」
一つ一つ、言葉を選んでいるのが分かる。
「……そうですね。透視してまで監視してたなら、何でも分かりますもんね」
「それを言われると弱い……」
明烏幻が長髪をかく。みことは目元を擦りながら、この夜で初めて、微笑を浮かべた。
「時に神子上さん。その白い顔が憑いている原因について、何か心当たりはありませんか」
「心当たり?」
「見たところ、特に神子上さんを呪っているわけでもなくて、ただその場にいるだけのようなんですけど」
呪っていないとは信じられなかった。あの顔が、みことに害を為しているのは明らかだ。
「……もしかしたら、この霊が〈神戸の一類〉のヒントになるのではないか、と思ったんですが」
「どういうことですか?」
「〈神戸の一類〉が、神子上さんとの接触を図っていることは確かです。しかし、どのようにして神子上さんを結界内に招き入れるつもりなのかは、まだ分かっていません。結界内へと続くゲートになるものが、神子上さんの周囲にあるはずです」
明烏幻がみことを監視していた目的には、そのゲートを探すことも含まれていたらしい。だが、みことには全く心当たりが無い。
「白い顔が見え始めたのは、もっとずっと前からなので……違うと思います」
「そうですか。……夢で見た通り分かると思いますが、僕は神子上さんの風呂、トイレは監視していません。もしかしたら、その辺りにゲートが……」
「いや、無い、無いですよ」
みことは慌てて首を横に振る。明烏幻は「冗談です」と言うが、半分くらいは本気だったのではないか。
「……その辺りはこれから詰めていきましょう。何はともあれ、神子上さんが僕の提案を受け入れてくれて良かった」
同じセリフを繰り返す。そのくらい、彼には満足のいく結果らしい。
「僕、コミュニケーション能力が低いので、この仕事が上手くいくか、かなり不安だったんです」
「ああ、コミュ障ですよね」
夢で、明烏幻がみことに話しかけた際の思考を垣間見たが、延々と逡巡や懊悩を繰り返していて、今になって思い返すと少し滑稽であった。明烏幻は「ひどい言い方……」と、ややバツの悪そうな顔をする。
「……まあ、これから、よろしくお願いします」
明烏幻が、今しがた、白い顔の皮膚を剥いだ繊手を差し出した。既に黒いヘドロは付着していない、きれいな手であった。
「……こちらこそ」
手を握り返すと、明烏幻は顔をほころばせる。月光が小さな粒になって踊り、彼の微笑を彩っているように、みことは見えた。
「……では、僕はこれで。また明日、学校で」
「あ、はい」
どうやって帰るんだ、と思った瞬間、明烏幻が屋上を蹴った。
呆然とするみことが視線を上げると、明烏幻は月面に映る影となっていた。何なんだ、あいつ。どうなってるんだ。
「おやすみなさあい」
明烏幻の叫び声が降ってくる。高々と夜空に跳び上がった彼は、そのまま急速に降下し、三十メートルほど先にあるビルの屋上に降り立った。そしてまた跳躍。まさか、移動手段、これなのか。
「お、おやすみなさい!」
夜空の点になっていく明烏幻の背に、みことは叫んだ。
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