第二十五夜 空に知られぬ雪ぞ降りける
「……分かりました。あなたに乗ります」
夜の雲が流れていくような微妙な変化が、明烏幻の表情を横切っていった。それはもしかしたら安堵の発露だったのかもしれないが、みことには判断がつきかねた。みことが明烏幻を警戒し続けているように、彼もまたみことを警戒しているのだろう、とは思った。
「……良かったです。神子上さんが、僕の提案を容れてくれて」
そりゃ、こいつからすれば都合のいいことであろう。
「……でも、その前に、いくつか質問させてください」
「〈神戸の一類〉のことですか」
「……まあ、それも含めて、色々」
一体、明烏幻の話していた「条件」とは何なのか。昨日、彼の記憶を夢で見せられたはずだが、みことを巻き込むという計画の中身は、ぼかしでもかかっているかのようで、明瞭に思い出すことができなかった。ダイジェストと言っていたから、都合の悪い部分は隠すこともできるのかもしれぬ。
「……先程、悪霊の定義についてお話ししましたが、悪霊にはその呪力によって定められる等級があります」
「等級?」
「五類が最弱。そこから四類、三類、二類、準一類、一類の計六階級です。今日の老婆はせいぜい五類。大した呪力は持っていません」
「じゃあ、一類っていうのは……」
「最高位の悪霊ということです。〈神戸の一類〉は、今年の五月に出現しました」
五月というと、先月である。死んでからまだ日が浅いのだろうか。四十九日も過ぎていないのではないか。
「神子上さん。強大な呪力を持つ悪霊には、どのような場合があると思いますか?」
「え、さあ……」
「強力な呪いを使うには、多くの霊力が必要です。つまり、元から多くの霊力を持つ場合、あるいは、より多くの霊力を奪って自分の霊魂に取り込んだ場合、強大な呪力を持つ悪霊となります」
あの老婆の霊は五類だというから、大して多くの犠牲者を出していたわけではないということか。では、件の〈神戸の一類〉は、出現から間もないのに、どうして一類になるほどの霊力を手にしているのだろう。みことのように、霊感の強い人の霊なのだろうか。
「まだ調査中ですが、〈神戸の一類〉は、実際には数年前からいた霊だそうです。ただ、当時は取るに足らない弱霊だった。つまり〈神戸の一類〉は、五月になって突然、一類に達するほどの強大な霊力を手にしたことになります」
ちなみに、「一類」は、日本国内の全悪霊の上位一パーセント前後に入るほどの強さらしい。
「……なぜですか、それは」
「悪霊が強大な呪力を持つ場合は、もう一つあります。『呪器』を使うことです」
「ジュキ?」
漢字変換ができない。明烏幻が、先程のリクエストシートに「呪器」と書いて見せてくる。随分とおどろおどろしい字面である。
「呪器とは、霊力の宿った物体のことです。何らかの霊が封印されていたり、因縁により霊力が宿っていたりと様々ですが……。〈神戸の一類〉は、ある強力な呪器を手にしたことで、最上位の悪霊になりました。そして、その〈神戸の一類〉が奪った呪器を取り戻すため、神子上さんの協力を仰ぎたいのです」
「……何なんですか、その呪器って」
霊は物心ついた頃から見てきたが、呪器というものを目にしたことは一度も無かった。神戸に住んでいた頃も然りである。
「神子上さんは、安倍晴明って知ってますか?」
「まあ、名前くらいは」
昔、ドラマで見た記憶がある。狩衣を着た渋い俳優が演じていた。
「僕たちが探している呪器は、その安倍晴明の左腕です」
「はあ……?」
みことは露骨に困惑を示した。
「左腕って、腕ですか?」
「他に何なんですか?」
こいつ、定期的にこっちを馬鹿にした物言いになるな。
「……安倍晴明って、何百年も前の人ですよね。そんな人の腕なんて、私知りませんよ」
「確かに、腕そのものを見たことはないと思います。しかし、腕がある場所への行き方は、神子上さんが知っているはずです」
「……いや、知りませんよ、そんなの」
「いいえ、知っているはずです。というか、神子上さん以外、そこには行けないんです」
話せば話すほどよく分からない。陰陽師とやらは、神戸に足を踏み入れることができないのか。
みことは少しいらついてきた。それと共に、また白い顔の輪郭が見え隠れする。
「〈神戸の一類〉は、手に入れた〈腕〉の呪力を借りて強力な結界を構築し、あらゆる霊魂との接触を拒否して閉じこもっています。陰陽寮は強行突破を試みたのですが、不可能でした。ところが、〈神戸の一類〉が唯一、結界内への進入を許可し、接触を欲している霊魂がいるのです」
「……それが私なんですか」
「はい」
はい、じゃない。どうしてそんな得体の知れない存在が、自分に会いたがるのだ。そもそも、神戸に住んでいた頃の知り合いで、死んだ人間なんているわけ。
刹那、白い顔の血走った目が、みことを見上げた。がくり、と足の力が抜け、それと共に、立っているコンクリートの屋上が無くなったかのような感覚がせり上ってくる。沈んでいく。脳内が文字通り漂白される。
白い顔。
土下座。
チーズケーキ。
病院。
ババロア。
包帯。
白い顔。
「ああ、これ」
その声で、みことは急速に現実へと引き上げられた。明烏幻が、みことを見上げる白い顔の耳を掴む。そのまま力任せに引っ張ると、ゴムを裂くような音を立てて、白い皮膚が引き剝がされた。
「うっ」
突然に展開されたグロテスクな光景に、みことは花の女子高生にあるまじき声でえずいた。引き剥がされた皮膚のあった辺りからは、夜闇とは明らかに異なる質感の黒色が流れ出て、コンクリートを汚している。サンダルについたら困ると、みことは後ずさりした。
「すみません、ちょっと驚かせてしまいましたか」
明烏幻が足を払うように動かすと、黒いヘドロのような物質は一瞬にして消えた。
「……しかし大丈夫ですか、今、青いを通り越して顔が白くなっていましたけど……」
「……見えるんですか、それ」
「え?」
「その、白い顔」
みことは少しの怖れと共に問うた。本当は、〈神戸の一類〉とやらは大した関心事ではなかった。どうしてもこれが訊きたかった。だから今夜、屋上に上がってきた。
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