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第二十三夜   五月やみおぼつかなきに

 十六階でエレベーターを降り、暗い階段を上って屋上へと出る。階段の四段目あたりに白い顔がいたような気がするが、見なかったことにする。


 深夜なので施錠されていないか心配だったが、屋上へと続く扉は問題なく開けることができた。サンダルをペタペタ鳴らしながら何年かぶりに屋上へ出ると、仄かに夏を孕んだ夜風が、まだ熱の残る目元を冷やす。


 やや水が多めの墨汁のような空には、同じく墨汁の雲が流れていた。流れていく雲の間からは、ほんの少し欠けた丸い月が姿を見せている。バニラ味のハーゲンダッツに似ている、とみことは思った。


「こんばんは」


 唯一の先客が、長髪をなびかせこちらへ歩いてきた。みことが来るまで月を眺めていたらしい明烏幻の相貌が、青白く浮かび上がる。


「……こんばんは」

「遅くに呼び出して申し訳ないです」


 月光を白い髪の輪郭に纏ったような明烏幻は、日中よりも一段と浮世離れした雰囲気で、人間ではなく精霊か何かのように感じられた。実際、人間かどうか疑わしいとみことは思う。そういえば、この男は屋上にどうやって上がってきたのだろう。


「……あれ、どうしたんですか、その手」


 明烏幻がみことの左手に目をやる。絆創膏は血と滲出液でグロテスクに膨れ上がっていて、かなり人目を引く様態になっていた。


「……別に、何でもありません。ていうか、あの変なコンタクトレンズで監視してるんじゃないんですか」

「千里眼のことですか。あれなら、昨日から使ってないですよ」


 ほら、と明烏幻が左の瞳を指す。確かに、ザラメをまぶしたような白い睫毛の下に、五色の光は見えなかった。しかし当然のことながら、信用はできぬ。


「……夢の内容、結構よく覚えているんですね」


 明烏幻が微笑した。何が面白いのだ。


「……何だったんですか、あの変な夢」

「もうお気づきだと思いますけど、ここ半月くらいの僕の記憶のダイジェストです。いちいち説明するのも手間なので……。神子上さんの夢に介入して、僕が何者なのか理解してもらおうかと」


 全く理解できないどころか、説明を求めたいことが増えただけの夢だったが、一旦言わないでおく。みことが黙然としているのを見て、明烏幻が問わず語りに再び口を開く。


「……ここに来てくれたということは、僕の提案を受け入れてくれた、ということでよろしいですか」

「……まだ、受け入れるとは言ってません」

「でも、神子上さんに他の選択肢は無いと思いますよ。……まあ、まずは、あらためて自己紹介をしますね」


 明烏幻が、夜空に同化しそうな黒外套から、短冊状の紙を取り出した。よく見ると放送部のリクエストシートであった。そういえば、放送室の扉を破る時に使っていたような。


「これで、明烏幻(あけがらすげん)と読みます」


 リクエストシートの裏に書きつけた文字を見せてくる。仮に自分に子供ができても、この名前は絶対につけないであろう。本人も「変わった名前でしょう」とのたまう。


「それと、僕は昼間、陰陽師だと名乗ったと思うんですけど、あれ、本当は違うんです。僕は陰陽生(おんみょうせい)で、陰陽師の候補生みたいな身分です」


 まず、陰陽師の存在が前提にされていることがみことには甚だ疑問だったのだが、取り敢えずは黙って明烏幻の話に耳を傾ける。


「正確な読みは陰陽生(おんみょうせい)じゃなくて、陰陽生(おんみょうしょう)なんですけど……。そして、僕の属している組織はもうお分かりでしょうが、陰陽寮(おんみょうりょう)です。神子上さんに接触したのは、陰陽寮での仕事の一環です」

「……はあ」

「何か、質問ありませんか」


 質問も何も、先程からみことが理解できる内容が一つも無い。陰陽師。陰陽生。陰陽座。そういえば、ジグザグのメンバーに陰陽師がいたな、などと、脈絡の無いことを考える。


「……その顔は、『陰陽師って現代にいるんか?』という顔ですね」


 なぜ関西弁。


「確かに歴史的には、国家の官僚としての陰陽師の制度は、明治に廃止されました。でも、実際には影の組織として存続していて……」

「あの」


 みことが話を遮ると、明烏幻が少し意外そうな表情を見せた。みことに自分から口を開く意思が無いと思っていたのだろうか。


「……えっと、ふざけてるわけじゃないんですよね」


 明烏幻は半瞬、硬直した後、「勿論」と力を込めて頷いた。その後で「……まあ、なかなか信じる気になれないのも分かります」と付け加える。


「では……神子上さんは、その、自分が見ているかものが何か、理解してますか?」

「は?」


 突然、哲学的なことを訊いてくる。怪しい宗教の勧誘でも始まるのか。


「……どういう意味ですか?」

「例えば、学校の裏門に立っているスポーツウェアの先生だとか、昼間に神子上さんを襲った老婆だとかは、何者なのかということです」

「ああ……」


 何となくは分かっている。だが、口にしたことは一度も無かった。母にすら、記憶の限りでは言ったことが無い。自分の認識に自信が欠けていたことと、言っても信じてもらえるとは思えなかったからであった。


「……幻覚とは違いますよね」

「僕にも見えますから」

「……霊、ってことですか」

「ええ、そう」


 明烏幻はいとも簡単に肯定した。

ご読了ありがとうございます。面白いと思っていただけたら、ブクマ、評価、感想などいただけたら嬉しいです。

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