第二十四夜 極楽は遙けきほどと聞きしかど
「……霊ってことですか」
「ええ、そう」
明烏幻はいとも簡単に肯定した。
「昼間の老婆は、自転車に轢かれて死んだ霊です。自転車に乗っている学生をマークし、驚かせて怪我をさせたり、場合によっては死に追いやったりしていました」
死、と聞いて、みことは今更ながら慄然とした。確かにあの時、打ちどころが悪ければ死んでいたかもしれぬ。
「最近、阿倍野近辺に出没するようになったそうで、ついでに探すように言われてたんです。神子上さんに怪我が無くてよかった」
「……助けてくれて、ありがとうございます」
みことがぎこちなく礼を言うと、明烏幻はいつも伏し目がちな目を一瞬、見開いた後、更にぎこちない会釈を返した。みことに死なれては利用できなくなるという都合が動機だったとしても、感謝の意は表明しておくべきであった。
「……あの霊は、どうなったんですか。その……死んだんですか」
「端的に言えばそうです」
明烏幻は迷いなく答える。しかし、自転車事故で死んだ老婆をもう一度殺すとはどういうことか、という疑問が、当然湧いてくる。
「神子上さん。人間、というか生物には全て、霊力というものがあることをご存じですか」
「……いえ」
「霊力とは、霊魂由来のエネルギーのことです。あらゆる生命活動の根本を支えています。そして、この霊力が肉体を支え得る量でなくなった状態が、世にいう『死』です」
話がどんどん、オカルティックでスピリチュアルな方向に流れていく。信じていいのか疑問に思いつつも、みこと自身、そういった世界に片足を突っ込んで生きてきた身には違いないのだった。
「霊力がほぼゼロになった霊魂は、普通は肉体を離れ、一定の移行期間、いわゆる四十九日を経て幽世に行きます。でも中には、霊力が大いに余っているのに肉体が壊れてしまったり、何らかの理由で現世に留まりたがったりする者がいます。彼らが『霊』になります」
どうやら生者というのは、肉体、霊魂、霊力の三要素が揃った状態を指すらしい。そして、みことや明烏幻が目にしている霊は、これらのうち霊魂と霊力しか持たない状態にあるという。
「ただ、霊になったとしても、別に霊力が増えるわけではないです。残りカスをただ食い潰すしかなく、そうして霊力が本当にゼロになったら、その霊魂は幽世にすら行けず消滅します。幽世に移動するにも多少の霊力は必要なので」
みことは「はあ……」と言うほかない。今まで目にしてきた霊がそんな仕組みの中に存在しているとは初耳だったが、どのような反応を示すべきなのか分からなかった。
「つまり、この霊魂が消滅した状態が、霊としての『死』になります。肉体のみならず、霊魂も含めた『完全な死』ともいえますね。消滅した霊魂は現世にも幽世にも、どこにも存在しなくなりますから」
「完全な死……」
「だから、僕があの老婆の霊を殺したというのは、老婆の霊魂を破壊したということです」
一体どうしたら霊魂を破壊するなんてことができるのか、という疑問も湧いてきたが、それは教えてくれぬようで、明烏幻は話題を霊力に戻した。
「ところで普通の人間は、そんな豊富に霊力を持っているわけではありません。個人差はありますが、凡そ七十年から九十年、生きる分しか持っていない」
「はあ」
「あの老婆が死んだのは十七年前で、享年は八十六歳だったそうです。もうとっくに消滅していてもおかしくない。なのに、なぜまだ存在していたのか、分かりますか?」
「いや……」
「他人の霊力を奪ったからです」
にこりともせず言う。
「自分以外の霊を襲う、または生者を襲って殺し、その霊力を自分のものにすることで、あの老婆は現世に留まり続けていたんです。そういう霊を悪霊と呼びます。神子上さんを襲ったのも、自転車を漕ぐ学生への復讐という意味合いもあったでしょうが、霊力を奪うことが目的です」
「私の霊力ですか……」
「はい。神子上さんは霊が見える、つまり霊感が強いので、普通の人より霊力が多いと思いますよ。僕には正確に測定する技術は無いんですが、例えば三百年分とか」
「えっ、私、三百歳まで生きるんですか」
今まで殊更に低い声で話していたのに、思わず驚きが露骨に表れた声を出してしまう。直後、みことは変な気まずさを覚えたが、明烏幻は特に気に留めぬようであった。
「まさか、人間の肉体の限界が百年ちょっとですから、どれだけ寿命を引き延ばせてもその程度ですよ」
微笑を浮かべて言う。何か、ちょっと馬鹿にしている笑みではないか、これ。
「だから霊力が余るので、神子上さんは死後も長く、現世に留まることができると思います。それこそ数百年単位で」
それはあまり心楽しい未来には思えなかったが、一応みことは「へえ、すごいですね……」とだけ返した。
「昼間のCDの件ですが、あれも、神子上さんの豊富な霊力が関係しています」
「どういうことですか?」
「あのCDには、悪霊が憑いています。叫び声は、聴いた者の霊力を奪う悪霊の呪いです。神子上さんも感じませんでしたか、何かが体内に侵入してくるような感覚」
忘れるはずがなかった。今週に入ってから、あまりにも多事多難な日々が続いていたが、放送室で感じた、生物としての本能による死の恐怖は、みことの肌にこびりついているといってよかった。
「あれは非常に広域的な呪いで、同時に何十人もの人間に対して干渉するものでしたが、速効性でなかったのが幸いでした。もし速効性の呪いだったら、何十人も犠牲者が出ていたかも」
恐ろしいことを言うが、これが決して大袈裟な表現ではないことは、実際に呪いを受けたみことにはよく理解できた。夢で見た記憶によれば、明烏幻もあの時、凄まじい苦痛に耐えながら動いていたはずだ。
「神子上さんでないとあのCDを再生できなかったのは、悪霊がより多くの霊力を求めるからです。つまり、神子上さんの豊富な霊力に感応して、CDの悪霊は呪いを発動した、ということですね」
だから僕がボタンを押したら再生できたはずです、と明烏幻は言う。刑事ではCDを再生できなかったのは、刑事が大した霊力の持ち主ではなかったから、ということか。
「あれ、でも……」
「どうかしましたか」
「CDのトリックを明かすって言ってましたよね」
「ええ」
「……霊力がどうこうっていう話を、皆にするんですか?」
明烏幻が微笑した。「いい質問ですね」ともったいぶってみせる。
「勿論、霊力なんて話は絶対にできません。陰陽寮の存在だって秘匿ですし。だから現実的な……現代の科学信仰において現実的なトリックを捏造します」
「捏造?」
「はい。嘘の論理で説明するということです。その上で、神子上さんは無実であると論証します」
「……そんなことできるんですか?」
「霊が生者の世界に影響を及ぼしてしまった時、それを現世の論理を以て収拾する。現世と幽世の境界線上にいる霊たちを管理し、境界線の秩序を守ることは、陰陽寮の重要な仕事の一つです。できる、できないではなく、やってみせます」
明烏幻は断言したが、みことの不安感は拭えなかった。CDの件には、なぜみことだけが再生できて他の人にはできないのか、ということ以外にも、なぜ放送前日と当日で流れる音声が変わったのか、という論点もある。これら全てを論理的に説明した上で、みことは無関係だとする主張が、果たして成立するだろうか。誰があのCDを投函したかすら分かっていないのに。
しかし一方で、彼の提案を呑む以外の方策は無いようにも思われる。あのCDに悪霊が憑いていて、みことに嫌疑がかかった原因も悪霊絡みなら、警察が真相を明らかにし、みことの無実が証明される可能性は限りなく低い。
というか、あの刑事は明らかにみことを疑っていたし、もしかしたら結論ありきでみことを犯人にしてしまうのではないか。そうなったら、もう取り返しがつかない。
そこでみことは、明烏幻の「他に選択肢は無いと思いますよ」という発言を思い出した。彼は全てを見越した上で言っていたのであろう。クソ。
明烏幻は、反応を確かめるようにこちらを見ている。みことを術中にはめて余裕なのか、薄く笑みを浮かべているように見えるが、一方で、目の奥には張り詰めた色が浮かんでいるようにも思える。
みことは浅く息を吸った。そこで意を決した。
「分かりました。あなたに乗ります」
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