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第二十二夜   しらしらし(下)

 みことは跳ね起きた。長距離走の後みたいに浅く短い呼吸しかできない。まだ熱帯夜というほどでもないのに、ひどい汗でシャツが背に貼り付いている。


 今見たのは夢だった。だが、最近よく見る、延々と暗い道を歩いている夢とは別のものだった。

 

 みことはベッドから降り、「母さん」と言おうとしたが、物音がしないことに気づいた。壁の時計を見ると今は午前一時で、いつもなら母が帰宅している時間だ。帰ってこなかったのか。

 

 起き出して二、三歩歩いた時、不意にベッドのシーツにあれが埋もれているような気がして、みことは咄嗟に振り向いてしまった。いたのはベッドの下であった。暗渠から覗く、血色に染まった両眼と視線がかち合う。


 かつてない激烈な嫌悪感が心臓の辺りから広がって、胸腔を気持ち悪く満たすのを感じた。その灼けつく感覚に内側から押されるようにしてみことは、手を伸ばしたところにあったブレザーを掴み、思い切りベッドへと投げつけた。拍子にラックが服とハンガーをまき散らして倒れ、深夜の部屋に大きな音を立てる。


 だがみことはそれにも気づかぬかのように、手当たり次第、何かをベッドの下の白い顔に向けて、狂ったように投じ続ける。クソ。クソクソクソ。何で自分の人生にはこんなのがいるんだ。


 ケースごと投げつけた国語辞典がフローリングをへこませた時、もうそこに白い顔はいないことに気づいた。途端に、床一面に散乱した服たちの下に、あれが逃げ込んでいるような気がしてきた。あそこの袖口の暗がりから、血走った目でこちらを見ている。


 みことは机上のカッターナイフを取ると、倒れ込むようにして、床に放り出されたパーカーを思い切り突き刺した。この間やっていたみたく、潰してしまえばいいのだ。死ね。死ね。


 荒い息をしながら、床を這いずるように服を掴んでは、半ばまで出たカッターナイフの刃を次々と振り下ろす。響くのは布の裂ける音だけ。まだ潰せない。どこにいる。


 何十度目かに薄手のジャケットを刺した時、鈍い音がして、その下から何かが流れ出してきた。やった、と思った。だが、それは黒いヘドロのような物質ではなく、赤黒くて生温かい液体であった。ゆっくりと床に広がっていく。


 見ると、カッターナイフが左手の甲に突き立っていた。無軌道に刃を振り回し続けたせいで、掴んだジャケットのしわに潜り込んだ、自分の左手を失念していたのだ。


「あ……」


 血が流れ出る感覚と共に、周囲の光景が理解されていく。春休みに買ってもらったばかりの服も、着慣れた黒いダウンも、全部ズタズタになっていた。向こうにあるのは、確か野々宮が可愛いと言ってくれたTシャツだ。でも、あの様子ではもう着れない。どうしよう。


 刃が折れたカッターナイフが床に転がる。みことは両手に顔をうずめた。手の平が、頬が濡れていく。肩が震え、寝癖のついた髪が揺れる。音を出すのを恐れるかのように、唇は固く結ばれている。


 先程までの憑かれたような嫌悪や憎悪はもう無くて、ただ冷たい現実のみが、感覚器を通して体内に流し込まれ続けていた。自分がやってしまったことの帰結だけが、心の中をグルグルと巡っていた。


 どれくらい泣いていたか分からないが、しばらくしてみことは右手で顔を拭った。顔に少し血がついた。


 左手を見ると、折れたカッターナイフの刃が、人差し指と中指の根元の間あたりに刺さっている。右手でつまんで引っ張ってみるが、痛いだけで抜けない。仕方なく刃の向きを確認しながら口元に持っていき、噛みついて思い切り引き抜いた。肉のずるりという音がして血が溢れ、床を転々と彩る。


 少し痺れた脚で立ち上がり、自室を出た。やはり廊下にはあれがいる。今日も多分ひどい日だ。


 血と涙と鼻水で汚れた顔を洗い、右手だけ使って寝癖も直す。あれだけ泣いたのに何もすっきりしない。手足は非現実的なほど重みが無く、心だけが鉛のようだった。


 痛みに耐えながら傷口を洗った後、みことは洗面所からキッチン脇の戸棚に向かい、救急箱を取り出した。もしかしたらこれは縫うほどの怪我なのかもと思いつつ、箱で一番大きい絆創膏を貼り付けた。瞬く間に絆創膏に血が滲み、赤黒く変色する。まあ一旦はこれでいいだろう。


 自室に戻ってスマホを見ると、母からのメッセージも来ていて、仕事で会社に泊まることになったとのことだった。後で立て替えるから、今日の昼食は食堂で買うように、ともある。


 それくらい小遣いから出すのに。そもそも、朝になったら学校に行くのだろうか。


 床に散乱した服を拾い上げる。これら全て捨ててしまうわけにはいかぬ。何とかして修理せねば、着るものが無くなる。カッターシャツとスカート、リボンタイは、幸か不幸か無事であった。


 倒れたラックを持ち上げ、壁を走る大きな傷が隠れるように立てる。娘の部屋のラックの位置が変わったことに、母は気づいているのだろうか。さすがに分からないか。


 この傷をつけた時もあれだけ後悔したのに、結局何も変わっていない。後悔した瞬間と同じくらいの熱量で変わり続けることができない。そのうちもっとひどいことをしそうな気さえする。やはり自分は頭がおかしいのかもしれぬ。


 みことはダイニングまで歩いていき、カーテンをめくった。引違窓の向こうは暗く、時々聞こえる暴走族のエンジン音も聞こえない。


 もう死んでしまおうか。死んだなら、部屋を傷つけたり服を破ったりしたことを、母は許してくれそうな気がする。下の階の人も、深夜の騒音を許してくれるだろう。放送部の連中も、みことが犯人などとはさすがに言わなくなるだろうか。


 明烏幻は、どんな反応を示すだろう。彼はみことに何か協力して欲しかったはずだから、みことが死んだらさぞ困るのだろう。傑作だ。


 みことはカーテンを閉めた。何一つ愉快ではない妄想をして、何一つ問題は解決されていないのに、それでも生きていられる自分は一体何なのだろう。


 玄関に出てサンダルを履く。とりあえず十六階まで上がったら屋上には行けるか、と思いながら、みことはドアを開けた。

ご読了ありがとうございます。楽しんでいただけたなら、ブクマ、評価、感想などいただけると嬉しいです。

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