第二十一夜 しらしらし(上)
家路の途上で、自転車のハンドルが少し歪んでいることに気づいた。異形の老婆によって転倒させられたからであろう。修理しておかないと危ない。
少しずつ空を焼いていくオレンジ色を横目に自転車を走らせる。みことの心境は、複雑という言葉では言い表せないものであった。
鷲谷直人を騙ってみことに接近してきた謎の男は、明烏幻という想像を絶する珍妙な名前を名乗り、更には陰陽師を自称した。果てしなく呆然とするみことの手を引いて立たせながら、彼はこんなことを言った。
「……驚かせてごめんなさい。少しお話したいことがあって」
話しながらハンカチをみことに渡し、顔を拭くよう促す。しかし使う気になれず、自分のもので顔を拭うと、薄いブルーのハンカチが黒く染まった。明烏幻が「遠慮しなくていいのに」と真顔で言う。
通行の邪魔にならないよう、自転車と共に道の端に移動してから、明烏幻があらためて話し始めた。
「話というのは他でもない、今日の昼休みの放送の件です」
明烏幻が、みことの自転車の荷台にちらりと視線をやる。ブレザーの下から、また白い顔が覗いている。
「神子上さん。お分かりだと思いますが、このままだとあなたが絶叫CDの犯人ということにされてしまいます」
明烏幻が淡々と告げる。やや緊張した面持ちに見えるのは気のせいであろうか。
余計なお世話だ、とも思ったが、変なことを口走って老婆のように燃やされてはかなわないので、黙然と彼の言うことを聞き続ける。
「神子上さんがこの件について無実であることは、僕も承知しています。濡れ衣を着せられるのは嫌です
よね?」
答えは当然、イエスなのだが、言質をとらせていいのかどうか、みことには判断がつきかねた。陰陽師云々というのも全く信用できないし。
「……でも、僕なら神子上さんの嫌疑を晴らすことができます。CDを投函した本当の人物を明らかにし、そのトリックも全て解明してみせます」
にこりともせず言い切る。多分、ある程度は用意してきた台詞を喋っているのだろうが、今朝の無茶な釈明をした時とは違い、明確な自信が覗く口調である。
「勿論、僕は慈善家ではないのでただでとはいいません。条件があります」
条件、と言われて、みことの脳裏に、夢で見聞きした単語が蒼然と浮かび上がった。神戸。〈神戸の一類〉。
明烏幻は、みことの反応を確認するかのような間を少し置いた後、一段と声を潜めて口を開いた。
「……ここでは詳しく話せません。もし、この話に興味があるなら、今夜二時、神子上さんの自宅のマンションの屋上に来てください」
喋りたいことを一方的に喋り終えると、明烏幻は「では」と言って背を向け、みことの帰路とは反対の方向へ歩いていった。夢の記憶が正しければ、彼は谷町線で帰るのだ。帰るといっても居候らしいが。
結局、種々の疑問が解消されないまま立ち尽くしていると、今更ながら、尻もちをついた時の痛みがこみ上げてきた。
カチャ、と物音がして、みことは弾かれたように振り向いた。背後には誰もいない。いつも通り、自分以外は無人の家である。
あの明烏幻の夢のせいで、家の中に変なものが入り込んでいないか、気が気でない。また気色の悪い老爺なんかが侵入してきたらどうしよう。もしかして、昔からあんな連中が出入りしていたのだろうか。
帰宅してからもなお、みことの煩悶は続いていた。六限と七限は流れたからウィークリーは受けずに済んだが、最大の難敵である中間考査が迫っている。だから勉強しなければならないと机に向かっているのだが、それどころではないというのが現状であった。
明日から学校でどうふるまえばいいのか、彼の鼓膜は破れたのではなかったのか、なぜ彼は白い顔が見えるのかなど、懸案、疑問は腐るほどあったが、目下の課題は午前二時、屋上に行くかどうかということである。本当にあんな男の言葉に従っていいものか。だが、もし断った場合、何をされるか分からない、とも思う。
みことは、先程からほぼ意味ある動きをしていないシャープペンシルを、圧迫するように強く握りしめた。手が震えた。何をどうしたらいいのか、全く分からない。発狂しそうだ。発狂してしまいたい。
思考から逃れるようにして、みことはベッドに身を投げた。頭が重い。考えないといけないことは、一旦起きてから考えよう。
頭の中は散らかっていたが、やはり疲労が濃かったようで、みことは程なく眠りに落ちていった。
そこはあまりに明るかった。限界まで光量を上げたサーチライトが、そこかしこに並べられているかのようだった。おかげで視界は明瞭なのに、辺りの様子は殆ど分からない。ただ距離感のつかめない白色が自分を取り囲んでいるとしか、この光景を認識できなかった。
耳を澄ますと、どこからか音がする。それが人の声だと分かると、目に映るものが徐々に具体性を帯びてきた。
ここはどうやら廊下であった。モノクロ映画の白と黒の配色を逆転させたような光景の中、少し向こうに何かが立っている。それと向かい合うように、別の何かも立っている。それらは人型に見え、先程から耳に響いてくる音も、それらが発しているもののようだった。
近い方にいる人型が、不意に折れ曲がった。崩れて、床に溜まった。土下座をしているようにも見えた。
その瞬間、全く突然に、その人型が具体的な人間になって、男なのだと分かった。恐ろしいほど血の気の失せた顔に、焦点の合わない虚ろな目が乗っていた。チーズケーキに埋め込まれたレーズンのようだった。
その目を見たくなくて、咄嗟に視線を逸らす。すると、傍らに大きなガラス窓が浮かんでいるのに気づいた。その向こうにはベッドみたいなものがあって、上に人型が横たわっているようだった。
ガラスの向こうの人型はひどく静かで、微動だにせぬ。それを思うと、向こう側の人型たちが立てる音が騒々しく思えてきた。
その時、不意に別の音が聞こえた。それが自分の発した言葉だとはすぐに気づけなかった。
「あれ、誰……?」
それは誰に向けた問いかけだったのか。刹那、ベッドの上の人型が急速に具体的になった。顕微鏡のピントが一挙に合った時のようだった。ベッドに横たわる頭は、大半が痛いほど真新しい包帯に包まれていた。わずかな隙間から見える皮膚も、ババロアのような色をしていた。ひどく白いのだった。
突然、手首を握られた。覚えのある感触の手だった。見るとその手は白かった。
抗わんとするかのように、先程のうずくまる男に目を向けた。その相貌は哀れなほど白い。
全部白いのだった。
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