第二十夜 竹風葉を鳴らす月の明らかなる前
「停めて!」
刑事が言った瞬間、女の泣き声は脳をも揺さぶる絶叫に変わった。室内の棚や椅子が不穏な音をたてて震える。誰もが耳を抑える。恐怖に慌てて部屋を出ようとする者もいる。
「どいて!」
おかしい、絶叫になるのはこんなすぐじゃなかった。どうして。
狼狽するみことの前に突然、黒衣の腕が飛び込んできた。その先に見えている細く白い指が、停止ボタンを押す。渾身の力を込めて押下したようで、手の甲に節が何本か立ち上がる。それで叫び声は止まった。
ボタンを押した偽鷲谷は、安堵したように一息ついた。他の者はまだ安心し切れぬ様子で、耳栓を詰めなおす者もいたが、ミキサーからは何の音も出なくなっていた。
「あ、すみません、その、ぶつかってないですか、肘とか……」
みこととミキサーの間に上半身を乗り出していた偽鷲谷は、とびのくようにしてその場を離れた。別にぶつかりはしていないが、みことは「あ、はい……」と剣呑に返すにとどまった。
「……今のって、昼に流れたのと同じやつですよね」
知らない男の先輩が言った。他の生徒や教員も頷く。
「じゃあ、こいつが犯人なんじゃ……」
「は?」
男の先輩が、みことの方を見ていた。あまりに予想外の言葉に半瞬、思考が追いつかぬ。だが確かに、状況を見ればみことが怪しいのか。
「ちょっと、神子上ちゃんに何言うてるんですか!」
津川が怒気を露わにした。だが、知らない男の先輩も、河内も橘も、抑えられない疑念が染み出した顔でみことを見ている。
「……そうなの、神子上さん?」
市村が、明らかに描いていると分かる眉をひそめて言う。その隣の教頭も岡田も、困惑と疑念の入り混じった表情をしている。まるで「残念だけど、信じざるを得ない」とでも言いたげな顔だ。
「待ってください。皆さん、落ち着いて」
そう言う刑事も難しい顔をして、横目でみことを見ている。「まだ断定はできませんから」。まだ?
「いや、でも……」
先程の先輩が、言いかけて口をつぐんだ。でも、何だよ。言えよ。
「神子上ちゃん、ちゃうでしょ?」
津川が振り向く。縋るような思いでそちらを見たみことは、「はい」と返すことができなかった。
目に映った津川の顔は、みことのことを信じていなかった。ただ、副部長という立場への責任感と、まだ確証が無いという状況判断から、みことの糾弾に加わっていないに過ぎなかった。
棚の中、津川の肩越しに白い顔がのぞく。
「……神子上さん、どうして黙っているの?」
耐えられずに津川の視線から逃れたみことに、市原がやたらと優しい声で言う。過ちを犯した生徒を穏やかに諭す、みたいな。厚化粧の白い顔。
このままでは本当に犯人にされる、と思いながらも、みことは言葉が出ない。喉を何かに塞がれたようであった。違う、自分は何も知らないと言ったところで、誰が信じるだろう。
「……神子上」
岡田が見かねたように口を開く。
「このCD、本当に神子上が持ってきたんか」
「……違います……。私、何も知らない」
「じゃあ、何でお前が再生したら音がおかしくなるねん」
間髪入れずに河内が、微塵の遠慮も無い声で言ってくる。何だこいつ。正義漢でも気取ってんのか。放送室にもろくに来ないくせに。
「私じゃない」
「お前やろ、どう考えても」
「私じゃないって言ってるじゃん!」
椅子から立ち上がったら、不意に大声が出た。違う。もっと論理的に、冷静に反駁しないと。これでは追い詰められて暴発した犯人だ。
分かっているのに、棚に、椅子の下に、足元にいる白い顔の存在ばかりが流れ込んできて、脳が溺れていく。
「……落ち着いて。今日は一旦解散しましょう。このCDは署に持ち帰って、こちらで詳しく調べます」
刑事の一言が無ければ、みことは更なる醜態を晒すところだったかもしれぬ。河内もさすがに矛を収めた。
室内の人間のことごとくにわだかまりを残して、その日は散会となった。
校舎を一歩出ると、暑熱をはらんだ大気が身にまとわった。鉛玉でも引きずるようにして歩きながら、みことは鈍い頭で考えた。
犯人の最有力候補は自分だ。刑事ですらそう思っているであろう。当然ながらみことには何の覚えも無いことだが、このままだと罪を着せられてしまう。
実際に犯人だと認定されたらどうなるだろう。逮捕なんてことにはなるまいが、退学とか、損害賠償とかいった事態にはなるかもしれぬ。
仮にそこまでの大事には至らなかったとしても、明日には噂が広まって、みことは学校中で疑念の眼差しに晒されることであろう。あの橘という女子など、今頃あちこちで今日のことを触れ回っていそうだ。
みことはすっかり肩を落として駐輪場に赴き、自身の自転車に手をかけた。またあれがいる、と思っても、嫌悪する気力すら湧いてこない。
その時、覚えのある声が飛んできた。
「神子上さん」
背後から、偽鷲谷が歩いてくる。だが、みことは振り向きもしない。
「……何」
朝方の出来事、夢で見た内容、それに自身の置かれている状況もあって、みことは意思疎通への意欲を感じさせない低い声で応じた。しかし、この男は全く意に介さず、みことの隣まで歩いてきて視界に入り込んだ。妙に決心したような面持ちである。
「……お話ししたいことがあるんですけど、お時間、ありますか」
「……無い」
みことが自転車のロックを解除する。
「別に用事があるわけじゃないでしょう」
いやに確証がある口調で言う。みことの予定まで把握しているのだろう。きっしょ。
無視して駐輪場から出ようとすると、偽鷲谷が片手で自転車のハンドルを掴んできた。凄まじい膂力である。栄養不良のもやしみたいな身体に、こんな力があるのか。
「神子上さん、これ、見えてるんですよね」
彼はそう言って、黒い靴で車輪の下に横たわる顔を蹴った。白い顔が傾いで目が合ってしまい、みことは少しのけぞる。
「やっぱり」
霞がかったセピアの瞳の奥に、燃える黒曜石のような激烈な色が見える。それがみことの反応を確かめている。
「……何言ってるか分かんない」
「そんな芸人みたいなこと言わないで」
「離して」
みことが手を振り払おうとすると、偽鷲谷はあっさりハンドルを離した。みことは速足で自転車を引いて進み始めるが、偽鷲谷は諦めたようではなく追いかけてくる。背後から話しかけてくる。
「じゃあ、あれは。あの裏門にずっといる先生、何て名前なんです」
「うるさい」
「他の生徒に訊いても、そんな人いないって言うんですよ」
「うるさい」
「神子上さんには見えてますよね」
裏門の周りで練習しているテニス部員たちが、変な目で二人を見ている。みことはますます速く歩き、裏門に立っているスポーツウェアの先生の脇を通り過ぎた。どこを見ているか分からぬ虚ろな目で、「さようなら」と言ってくる。
「神子上さん」
「うるさい」
「知ってると思いますけど、僕、実は鷲谷直人じゃないんです」
「うるさい!」
裏門を出たところで、みことは呪縛から解放されたように自転車に飛び乗り、猛然と走り出した。そのまま左折し、校舎脇の小径に入る。偽鷲谷が何か叫んでいるが知らぬ。本当に何なんだあの男。クソが。
「神子上さん、危ない!」
刹那、あり得ないほどに開いた老婆の口内が、みことの視界を埋めた。
え、何これ。
半瞬前、昨日轢きそうになった灰色の髪の老婆が、小径に立っているのが見えた。そこから何がどうして、こうなった。
意味が分からないまま、みことは迫りくる異形を前に、咄嗟にハンドルから手を離した。バランスを失い、自転車から身体が遊離する。
火花が散る。頭を打った、と思ったがそうではない。視界の右端から赤く燃える線がのびて、身長の二倍近くまで口を開いた老婆の化物を貫いていた。老婆の眼球が苦痛に飛び出し、口からどす黒いヘドロのような物質が吐き出される。
自転車が横転して、コンクリートに音を響かせた。尻もちをついたみことの顔に、ヘドロが降り注ぐ。老婆の姿は既に跡形もなく、道路には黒いシミが広がるばかりであった。
呆然とするみことの前に、白い手が差し出される。炎を放ったのは、白髪と黒衣をなびかせる異相の少年。
「……あなた、何なの……?」
「僕の名前は明烏幻。陰陽師です」
明烏幻が、みことの手をとった。
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