第十八夜 漢に叫んでは遙かに孤枕の夢を驚かす
くぐもったチャイムの音が聞こえる。授業が始まったのだ。やばい、ウィークリーの勉強やらないと……。
はっとなって、みことは起き上がった。やけに白っぽい空間だと思ったら、保健室のベッドの上であった。淡いクリーム色のカーテンに隔てられていて視認はできないが、両隣のベッドにも人の気配がする。
再びウィークリーのことが脳裏によぎり、次いで、あのおぞましい絶叫が耳孔に反響した。そうだ、ウィークリーどころではないのだ。昼休み、放送室で意識を失って、それから、鷲谷直人のふりをして天高に行って……。
待った。今、脳内で再生されかけたのは何だ。鷲谷のふりをするとは?
髄液にばらばらに浮かぶ断片が徐々に整理されるにしたがって、強烈な違和感がせり上がってきた。みことは鷲谷を騙ったことなどない。三船なんて上司もいなければ妹もいない。そもそも教卓の脇に立ちながら、席に座っている自分を観察することなんてできない。
みことは覚醒し切らない頭で状況の理解を試みた。夢にしては異常に鮮明だった。まるで現実に体験したかのように、三船という人の声も、トイレでの脚の痺れも、ありありと思い出せる。
この夢は、鷲谷直人、ではなく、その名前を騙る謎の男の記憶ではないのか。彼の記憶を、みことは夢で見たのではないか。なぜかそんな気がする。
頭の奥に残るしこりのような重さに耐えながら、みことは考え、考えるほど混乱した。意味が分からない。そもそも、他人の記憶を夢で見るとはどういうことだ。常識的にあり得ない。
しかしあの男は、みことにしか見えないはずの白い顔に触り、潰すことまでできる。みことの常識など通用しないのかもしれない。
では、仮にこの夢が全て事実だったとするとどうなるか。正体不明の男が身分を偽って自分に接近し、身長や学業成績、交友関係まで調べ上げ、あまつさえ意味不明の能力で家の中まで監視していたということになる。みことは慄然とした。ベッドの下で白い顔が蠢いた。
突如、カーテンが鋭利な音を立ててめくられ、みことは文字通り飛び上がった。そこにいたのが、白い長髪に黒衣の少年だったので、再び飛び上がった。
彼はみことを一瞥すると、カーテンの外に向かって「先生、神子上さんが目を覚ましました」と言い、そのまま姿を消した。入れ替わるように保健室の先生が、不摂生の具現のような巨躯をゆすって現れる。
「えーと、神子上さん? 大丈夫?」
「え、あ、はい」
衝撃の冷めやらぬみことは、若干噛みながら答えた。「そうですか、そうですか」と保健室の先生が応じると、ハムの厚切りのような頬肉がぶるぶると揺れる。医者の不養生にもほどがあるのではないか。
その後、熱が測られるなどしたが、特に異常は無く、みことは保健室から出ても大丈夫だと言われた。
「まだしんどいようだったら、ここで寝ていてくれても大丈夫です。ただ、市村先生が、来れそうだったら会議室に来てほしいと言っててね。どうしますか?」
市村というと放送部の主顧問である。昼休みの件について事情聴取でもするのだろうか。
「……分かりました。行きます」
「そう? じゃあ、鷲谷君、ちょっと」
先生が読んだ名前に、みことは嫌な予感がした。保健室を立ち去ろうとしていた偽鷲谷が、方向転換して戻ってくる。
「神子上さんを、会議室まで送ってくれる?」
「分かりました。僕もちょうど呼ばれてたので、一緒に行きます」
みことは行くと返事したことを心から後悔したが、偽鷲谷はそんなみことの心中など慮らず「歩けますか?」などと殊勝な顔でほざく。口をききたくなかったので、みことは目も合わせずにベッドから出、偽鷲谷を置いて歩き出す。
「無理しないでくださいね」との先生の言葉と、白い顔の視線を背に、保健室を後にする。送るといっても、会議室は保健室の目と鼻の先である。偽鷲谷も一人で勝手に行けばいいのに、監視するためにみことを待っていたのか。
会議室の扉を開けながら、そういえば、夢の中で彼は鼓膜を破られていなかったか、なぜ普通に会話できるのか、との疑問が湧いたが、訊くことなど到底できず、そのまま室に入った。鷲谷もそれに続く。
会議室にいたのは、部長の道下、副部長の津川、一年生の河内、橘に、まだ名前を覚えていない先輩が三人。険悪な表情の顧問の市村に、名前を知らない副顧問、みことの担任の岡田、始業式で見て以来の教頭、更に見知らぬ中年の男が一人いた。後から聞いたのだが、この男は刑事であった。
「ああ、神子上さん、そこに座って。あなたも」
市村が著しく余裕の欠けた表情で椅子を指し、すぐにまた道下たちの方に向き直る。
「……それで、本当にこのCDを流しただけなの?」
節くれだった指にどぎつい色のマニキュアが不均衡なその手には、今日の昼に流したエアロのCDケースが握られている。指輪が無いから独身なのだろうか、と、どうでもいい考えが浮かぶ。
「はい」
まだ顔色のよくない道下が答える。彼も意識を失っていたのだろう。
「そうだよね、神子上さん」
「え? ああ、はい……」
みことはまだ、状況が呑み込めていなかった。放送部の放送で奇怪な音声が流れたのは確かに問題かもしれないが、だとしても市村の態度は深刻過ぎるように見える。
「……実は、あの放送で気絶したの、神子上ちゃんと道下君だけじゃないんよ」
津川が低い声で教えてくれた。
「えっ、そうなんですか」
「うん。学校中がえらい騒ぎになった」
放送部の放送は職員室では流されていなかったことから教員の被害は少なく、対応はそれなりに迅速に行われたようだが、生徒の被害が甚大で、気絶のみならず、嘔吐したり、パニックに陥ったりした生徒もいたという。最終的には救急車が呼ばれるまでの事態になったらしい。
ただ、命に別条のある者はおらず、気絶した生徒も目を覚ました後は普通に会話や歩行ができたので、現時点では、少なくとも表面上は沈静化していた。
みことも気を失っていたが、放送室に駆け込んでくる足音で若干意識を取り戻し、救急車に乗るには至らなかったらしい(みことは覚えていない)。その後、保健室に運ばれると再び気絶し、今に至るまで眠っていたという。
「……昨日流した時は何もなかったですし、先生にも、そう報告したと思うんですけど」
市村に追及される道下に、津川が助け舟を出す。みことも隣で首肯すると、市村が眉をひそめた。自身の責任を痛感しているのか、問題が大きくなって自分の身が危うくなるのを恐れているのか。
「……岡田先生、その生徒は……?」
見かねたのか、教頭がわざとらしく別の話題を出した。「ああ」と岡田が言って、偽鷲谷の方に目を向ける。
「彼が倒れていた神子上さんたちの介抱をしてくれていて。CDを止めてくれたのも彼らしいんです」
偽鷲谷は何を考えているのか、微妙な笑みを浮かべて会釈した。確かに意識を失う直前、この男が部室に入ってくるのを目にしたような気がする。まさかその隙に、みことの頭に細工でもしたのだろうか。
道下が不思議そうに口を開いた。
「あの、CDの再生って、どうやって止めたんですか?」
「え?」
「いや、僕たちも止めようとしたんだけど、ボタンをいくら押しても止まらなくて……」
「ああ……何か、叩いたら止まって……」
偽鷲谷は、今朝、みことに対して無理のある弁明をした時と同じ表情で答える。叩いて止めたというのは嘘だ。
みことは夢の記憶を辿った。明瞭には思い出せないが、確か、変な紙切れに火をつけて機械に叩きつけていたはずだ。一体あれは何をしていたのだろう。
「……改めて確認したいのですが、その叫び声を聞いた人たちは、中には歩くのも困難になるほどの体調不良を訴えたんですよね」
「はい」
刑事の質問に教頭が答える。
「では、鷲谷君、君はどうして動き回れたのかな」
穏やかな口調の質問が白髪の少年に向けられる。確かにそうだ。放送室にいたみことは全身が粟立つような感覚に襲われ、恐怖と苦痛で床にへたり込んでしまったのだ。
「それは...…たまたま、その時にイヤホンをしていたので、ましだったのかも...…」
「イヤホン?」
「イヤホンは、原則持ち込み禁止じゃなかったですか」
市村の指摘に、鷲谷が「しまった」という顔をする。しかし今の本題はそこではないので、それ以上の追及はされなかった。
「ではやはり、その叫び声というのが、生徒の症状の原因である可能性が高いですね」
メモをとる刑事に、教頭がおずおずと尋ねた。
「あの...…今回の件、警察の方ではどうお考えなんでしょう」
「まだ何とも言えません」
「その、テロなんてことは...…」
教頭の口から想像以上に物騒な言葉が飛び出し、しかも刑事がその発言を否定はしなかったので、会議室の面々に明らかな動揺が広がった。教頭もすぐに失言だと認識したのか、バツの悪そうな表情を浮かべる。
唯一、偽鷲谷だけが表情をあまり変えていなかった。こいつ、何か知っているのか。
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