第十七夜 巫女廟の花は紅にして粉に似たり
「は?」
それは彼が発したのか、戸口に立つ神子上みことが発したのか。彼女は形のいい眉をひそめ、下方の両眼では驚愕、警戒、嫌悪、軽蔑などいった感情が次々と行き交う。
「……何してるの?」
「……あー……」
恐ろしいほど何の言い訳も思いつかない。
「……は?」
「え、あ、その……机、間違っちゃったみたいで……ごめんなさい、僕こっちですよね」
やっとのことでそれだけ言い、引っ張り出したプリントを押し込むと、彼は妙に浮揚感のある足取りで自席に戻った。
が、そんな杜撰な言い訳が通用するはずもなく、彼女は教室に入らず、黙ってどこかへ消えていった。
神子上みことの姿が見えなくなってから、彼は思い切り机に額を打ちつけた。社交性の低い彼でも、この状況の深刻さは理解できる。本人のいない隙に異性の机の中身を覗く。これは間違いなく変質者の所業だ。そして、変質者と好んで付き合うような人間はいない。
千里眼で神子上みことの自宅を確認すべきだった、誰かに見られた時の対策を考えておけばよかった、そもそも他人の机の中身など詮索すべきでなかった。無数の後悔が洪水となって思考回路を水浸しにしていく。そして、いくら悔いても信頼関係の構築はもはや絶望的だという事実に、更に頭が動かなくなっていく。
こんな早朝に登校してくるとは。資料によれば、今はまだ彼女が寝ている時間のはずだ。今日は遠足でもあるのか。
朝から千里眼を装着しておけば、と新たな後悔の波が押し寄せてきて、彼は慌てて理性の堤防を築いた。もっと建設的なことを考えるべきだ。
とにかく、彼女に接近するプランは望むらくもない。では、何らかの手段でこちらに協力せざるを得ない状況に追い込む、という方法にコミットするか。例えば脅迫するなら、そのための材料を集めねばならない。本人に弱味が無いなら、母親、洲本の祖母、あるいは生別した父親。調べれば何かは出てくるだろうし、弱味が生まれるよう仕向ける手もある。
三船に電話して相談しようかとも思ったが、耳を澄ますと廊下から教員と思しき声が聞こえた。校内でのスマホ使用はアウトである。登校二日目で生徒指導はまずい。
取り出しかけたスマホの液晶に映った顔を見て、彼はふと思った。本物の鷲谷が復帰する日はあるのだろうか。
今ここにいる「鷲谷」の外見は、本物とは似ても似つかない。にもかかわらずこの格好での潜入を認めたということは、少なくとも三船には、本物を「鷲谷直人」として復帰させる意図は無いということになる。あるいは、そんなことが望める状態にはそもそもないのか。
神子上みこととの友好が絶望的になっても、監視は続いた。監視といっても、授業中や休み時間に彼女を視界の端で捉え続けるというだけで、巷間の恋する学生とやっていることは変わらない。
五限が終わって昼休みになると、神子上みことは弁当箱の入った保冷バッグを持って、教室の外へ出ていった。何か用事があるのだろうか。千里眼で見ておこうかと思ったが、四十分間の昼休みの間に装着したり外したりするのも手間に思えて、彼は自席を動かず、昼食のメロンパンの袋を開けた。
パンをかじりながら、千里眼で彼女を追わなかった自分は怠惰になっているのではないか、それか自棄になっているのではないかという自嘲が脳の底の方に湧いてきたが、昼の放送が始まると、彼女は放送室に向かったのか、という考えに意識は流れていった。しかし、流れてきた声が男のものだったので、放送室にはいないのか、とも思う。
「本日のリクエストは、ラジオネーム『モモンガ』さんからで、一曲目はAerosmithで『Eat The Rich』です」
聞き覚えのある曲名が読み上げられる。CDを持ち込んだら昼休みに放送してくれるという制度らしい。今度、彼も何か持っていこうか。
ところが、黒板の上部に生えているスピーカーから流れてきた音楽には、明らかにエアロではない音が混ざっていた。女が細くすすり泣くような声である。教室の生徒にも、困惑して顔を見合わせる者がいる。何か機械の不具合でも起きたのか。
だが次の瞬間、そんな悠長な問題ではないことが明らかになった。
突然、大気が割れ砕けた。生物的な本能で、咄嗟に両手で耳を塞ぐ。聴覚が麻痺のような反応を示すほどの、大音量の絶叫が耳に飛び込んできたのだ。投げ出されたパンが床に落ちる音も聞こえなかった。
おそるべき音量と音圧に、窓が音を立てて震える。何が起きたのか判断がつかない。この音がスピーカーから流れていると気づいた時には、教室中の生徒たちがうずくまり、頭や耳を抑えて激しく苦悶していた。嘔吐している者すらいる。
彼も、何か得体の知れないものが耳、目、口、鼻、毛穴から侵入してくるような感覚に襲われ、慄然とした。生物としての根本的な死に対する反応に追い立てられ、教室の外に転がり出る。廊下のスピーカーからも恐るべき絶叫は流れていて、外耳道から血が出そうである。脂汗を浮かべながら、彼は廊下を駆け出した。何とかしなければならない。
頭の中に校内図を広げる。放送室を目指し、外階段を駆け下りる。校舎内に比べればましだが、屋外にもこの叫びは聞こえていた。何か言葉を発しているような気もするが、聞きとることはできない。
階段を下りたところにあるドアから再び屋内に入り、絶叫の只中を疾駆する。教員が一人、泡を吹いて倒れている。角を曲がったところで放送室の防音扉が見えた。
彼はノブに手をかけたが、引いても押しても微動だにしない。そもそもノブが回らない。鍵がかかっているという感覚ではなく、文字通り全く動かすことができない。
彼は音の聞こえない舌打ちを一つすると、懐中から短冊大の紙を一枚、取り出した。しかし、これをドアを開けるために使ってしまうと、この絶叫を止める方策が無くなってしまう。
〇・二五瞬ほどの逡巡の末、彼は扉にマグネットで固定されていたリクエストシートの束をとり、掴んだそれに息を吹きかけた。刹那、掌中のリクエストシートが燃え上がった。
のたうつ炎の塊と化した紙束が、思い切りドアへと投じられる。コンサートの特効のような破裂音がして、黒いヘドロのような物質が辺りに飛散した。ヘドロとリクエストシートの火燼を浴びながら、防音扉を開く。
室内には神子上みことと、昨日見た上級生の男が倒れていた。二人とも気を失っている。絶叫の濁流に溺れそうになりながら何とかプレーヤーに辿り着くと、彼は先程の紙を満腔の力を込めて叩きつけた。
その日最大の絶叫が響き渡った。窓はおろかコンクリートの壁すら震え、放送室の電灯が明滅する。耳孔を通じて脳が痺れ、自分の視界が明滅しているのか、電灯が点滅しているか分からなくなる。頭の奥でテレビの画面が消えるような音がして、耳に生温いものがつたう感触が走った。
頭蓋であの絶叫がこだましていたので分からなかったが、この時、彼の鼓膜は粉々になっていたのだった。
プレーヤーから黒いヘドロがどっと噴き出すのを見て、絶叫が止まったのを確認すると、彼は泥人形のようにその場にへたり込んだ。
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