第十六夜 煙葉朦朧として夜の色を侵す
玄関に立つ老人を前に、彼は必死に考えを巡らせた。だが、先述の通り千里眼が拡張できるのは視覚のみであり、視線で射殺す能力でも無い限り、この老人に干渉することはできない。地上から九階の部屋まで一瞬で移動する方法はあるにはあるが、白昼堂々できるものではない。
どうしよう、どうしようと思えども、いま彼にできることは何も無い。視神経が焼き切れるほどの焦慮に駆られながら、分かったのはそれだけであった。
老人が、玄関から一歩を踏み出した。
まずい。
やるしかない。
一か八か身体に力を込めた刹那、黒い霧のようなものが視界を覆った。何が起きたと思う間に、玄関や壁はどす黒いヘドロのような物質に汚れ、老人の姿はどこにも無い。
間もなくヘドロは壁や床に吸収されるように消え、視界はすっかり旧に復した。何事も無かったかのようであった。
彼は呆然とした。次いで慄然とした。
今のは誰がやったのか。神子上みことは相変わらず眠っている。他には誰もいない。それとも、千里眼にすら映らない何者かがいるのか。まさか。
ふと、彼は恐ろしい仮説に行き当たった。だが、あまりに非現実的で突飛な話に思える。調査書にあった神子上みことの係累に、目をひくようなものは無かった。他に気にかかるものといえばあの白い顔だが、彼の指一本で潰せるような存在に、今の芸当ができるとは思えない。
植え込みのベンチに、へたり込むように腰を下ろす。彼がこの場で処理できる事態ではない気がする。だが一方で、三船に相談するのも気が引けた。ひとつには、あまりに理解しがたい状況だったからだが、今ひとつには、三船がこの件を把握していないとは思えなかったからであった。
結局、彼はその後にあった三船からの連絡で、玄関で爆散した老人には触れなかった。
「おかえり。遅かったね」
十時近くなって帰ってきた彼を、京極は出迎えてくれた。やや戸惑いながらも「ただいま」という台詞を述べる。
「すみません、遅くなると連絡してなかったですよね」
「いや、三船さんから言われてたからええよ。明日は早起きやってことも聞いてる」
「明日?」
それは彼が聞いていない。そういえば帰りに再び三船から着信があり、今は電車に乗っているので応答できませんとメッセージを送ったのだった。
京極の作ってくれたホイコーローをレンジで温めながら、彼は折り返しの電話をかけた。ほどなく着信音がやむ。
「もしもし」
「すみません、出られなくて。今、帰ったところです」
「結構粘ったね。初日からそんなに頑張って大丈夫?」
「まあ、何とか。それで、ご用件は」
「えっとだね、何か天蓮寺高校の近くで、出るらしいんだよね」
「はあ」
「せいぜい四類くらいだと思うけど……また資料送るから、明日の早朝、探してみてよ」
「早朝って、何時頃ですか」
「学校が開く前」
それはつまり、彼が他人と話すのと同じくらい苦手な早起きをせねばならぬということだ。彼は憂欝になってきた。なぜこの人は自分に不向きな仕事ばかり回してくるのか。
「その間、神子上みことの監視はどうすればいいですか」
「やらなくていいよ。片目で千里眼を使いながら、もう片方の目で捜索できるなら別だけど……。しかしどうかね、万一に備えて、監視カメラでも設置しておくかね」
「最初からそうしましょうよ」
「いや、カメラに映らないものもあるかもしれないし、君の見張りも必須だよ」
「……ですね」
彼の声色が露骨に暗然たるものだったのか、灰皿に吸い殻をなする程度の間が空いた。
「悪いね、君には別件もあるのに。……今度、君の好きな本買っていいよ」
「あ、じゃあ、『カフカ全集』がいいです」
「ん、全集?」
「四万円くらいなんですけど」
今度は、コンビニに煙草を買いに行ける程度の間が空いた。
「……三船さん?」
「九年前に私のところに来た時は、もうちょっと慎ましい子供だった気がするんだけどなあ……」
「そうでしたっけ。記憶にありません」
三船が苦笑する。その時、彼の脳裏に、あの皺の集積体のような老人の顔が去来した。
言うか言わぬか迷った末、彼はやはり言わぬことにした。一度、自分の手で調べてみよう。
夜闇の名残が残っている時刻、真っ白な長髪を翻す少年が、まだ半分眠っている街をうろついていた。始発に乗ってきたその顔には、明確に「寝不足」と書かれている。これでは授業で居眠りしかねないな、と不吉な予想をしながら、彼は辺りを見回した。
天蓮寺高校の周囲は住宅街なのだが、この時間なので人影は皆無に等しい。唯一、昨日も見たスポーツウェアの教員が、まだ閉まっている裏門に立っていたが、その他には誰とも出会わない。
彼は高校の敷地を周回した後、施錠されている正門の前に歩いてきた。道路を挟んだ向かいには中学校がある。中高一貫なわけではなく、ご近所であるという以上の関係性は特に無いらしい。
彼は腕時計を見た。もうすぐ午前六時。そろそろ出勤してくる教員がいると聞いていたので、捜索は中断した方がよかろう。だが「見つからなかった」で済ませるわけにもいかないので、次は夜中に捜索することになる。
自分で選んだとはいえ、全くブラックな職場だ。神子上みことなど、三船の資料によればまだ寝ている時間だというのに。
午前六時過ぎ、知らない男性教員が出勤してきて正門や裏門が解錠されたので、付近の路地に潜んでいた彼は、さもたった今、登校したような顔で正門をくぐった。特に行き先があるわけでもないので、一年一組の教室に足を向ける。
一部の三年生が自習のため、早めに登校することがあるらしいが、今はさすがに生徒はいないようである。教室がまだ施錠されているのではないかという危惧があったが、幸いにも事務員か誰かにより解錠されていた。
彼は無人の教室に入った。それなりに懶惰な性分なので、教室に一番乗りするのは人生初である。
教室の最後尾にある自席でデイパックを下ろし、席につく。椅子の脚の長さがやや不揃いなのか、少し体重を移動させると身体が傾ぐ。鷲谷直人がいつまでも登校しないから、誰かが座り心地の悪い自分の椅子と勝手に取り換えたのではないか、と邪推する。
本来はここに座っているはずだった本物の鷲谷は、三船によると今も生死不明の状態が続いており、失踪していた約二ヵ月の間、その身に何があったかも不明であるという。
ただ、鷲谷のあの異常な状態ひとつで、三船が自ら身柄を引き取る判断までするだろうか。彼のような下っ端には知らされていない事情があるのではないか。もしかしたら、神子上みこと、あるいは〈神戸の一類〉にまつわる何かが。
眼前にある神子上みことの座席に目を向ける。目下のところ、彼女と〈神戸の一類〉との接触は、三船の示唆にもかかわらず、その気配すらない。それを掴むことができれば、場合によっては神子上みことに彼の素性を明かすリスクを冒す必要が無くなるのだが、どうしたものか。
彼女は少なくとも悪人には見えないが、信頼できるかは釈然としない。良好な関係を築くことは、もしかすると可能なのかもしれぬが、秘密を共有できるかは別問題だ。
彼はついと立ち上がり、廊下に人影が無いのを確認して、神子上みことの席に座った。決して変態的な欲望のためではない。そうしたら何か、彼の気づいていないことに気づけるような予感がしたのだが、ただ黒板の汚れが少しよく見えただけであった。
彼は小さく嘆息した。あの事件から一ヵ月が経たんとしているのに、自分はここで一体何をしているのか。かくも出口が曖昧な計画を進めている余裕が、彼の組織にあるのか。
しかし、そういった焦慮を、少なくとも三船は共有しているはずであり、その三船がこのような手段を採っているということは、彼の組織は下から上まで、藁をもつかむ溺れる集団なのかもしれぬ。
考えるのが嫌になって頬杖をついた時、不意に、座る際に数瞬だけ見えた机の中身のことが、飽和しつつある脳裏に浮かんだ。少し椅子を引いて見てみると、プリントやノートがはち切れんばかりに詰め込まれている。自室の机と同様、本当に一分の隙間も無く、かえって整然として見えるほどだ。
入学から二ヵ月余でこの惨状を呈するとは、よほど無精なのか、あるいは敢えてこうしているのか。今までの神子上みことの言動を鑑みた時、彼は後者の可能性が高いように感じた。
この机の中身、あるいは彼女の室の机の棚にしても、なし崩し的にものが溢れていったというよりは、最初から意図的に隙間を埋めるよう配列している向きがないか。だからこの光景は、雑然としているのにどこか整然として見えるのではないか。
そう思ってこの収納を眺めてみると、不可解な点が色々と浮かんでくる。置き勉の一形態だと思っていたのだが、まず教科書が見当たらない。唯一、分厚い国語便覧が、ひどくうねった状態で突っ込まれているが、これは授業で殆ど使わないと耳にしたことがある。
ノートの類も詰め込まれているが、こちらも使っている形跡は無い。こんな状況なら当然、ノートを取り出す時に周りのプリントが一緒に溢れて手間取るはずだが、昨日一日、神子上みことにそのような素振りは無かった。授業で使う教材は全て、机右に吊ったデイパックか、廊下のロッカーから出ていたはずだ。
彼は、神子上みことが故意にこの空間を埋めていると確信した。わざわざ授業で使わないものばかり集め、机の中に詰め込むという行為は奇怪な限りだが、一体なぜやっているのか。まさか〈神戸の一類〉が絡んでいるのか。
彼は再び廊下が無人であることを確認すると、椅子から降りて身を屈め、机の中を覗き込んだ。手を突っ込み、まずは丸められたプリント類に手をかける。
次は国語便覧、と思った時、スライドドアが滑る音が響いた。彼は文字通り飛び上がった。
戸口に立っていたのは、よりによってよりによって。
「は?」
神子上みことは形のいい眉をひそめ、その下にある両眼には驚愕、警戒、嫌悪、軽蔑といった感情が、次々と行き交っていった。彼にはそれらが走馬灯のように感じられた。
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