第十五夜 朝ごとに声少なし漢林の風
神子上みことに「ありがとう」云々と言われた直後、とりとめもない、明確な形にならない思考が靄のように額の裏に広がって、これ以上は彼女と相対してはならぬと思い、逃げるように立ち去った。だが間もなく、頭の中で今度は種々の悔恨が噴出してきて、止まらなくなった。
悔恨というのは、さっきのあの言い方はまずかったのではないか、ああ言えば誤解を生む余地は無くせたのではないか、などといったことであった。ただ、他人と話した直後にこのような思いにとらわれるのは彼の習癖であり、相手が神子上みことだからというわけではない。
過ぎたことで悩むのは建設的ではないと自分に言い聞かせ、彼は黒衣のポケットからコンタクトケースを取り出した。中には一枚しか入っていない。手を念入りに洗った後、洗面台の鏡を見ながら上下の瞼を指でこじ開け、慣れない手つきでコンタクトレンズを右目に押し込む。少し涙が滲んだ。
瞬きをし、装着できたのを確認する。レンズの入った右の瞳は何と透明になっていて、そこに青、赤、黄、黒、白の五つの細かな光が、輪を描いて回転していた。
このレンズは三船から貸与されたもので、正式名称はもっと長いのだが、彼は千里眼と呼んでいた。
五色の光の動作が正常なのを確かめると、彼はトイレの個室に入った。これからここで一、二時間は粘らねばならぬ。脚が痺れないよう定期的に立ち上がろう、などと考える。
彼は蓋を閉めたままの便器に腰を下ろし、左目を左手で隠した。視力検査のような光景である。すると、右目だけになった視界が前進し、個室のドアを突き抜けた。
千里眼をつけると、その目の視界だけが異常に広がる。頭を動かさなくても、少し念ずるだけで背後の景色が見え、今のように物体を透過して向こう側を見ることもできる。その気になれば、海を渡って地球の裏側、あるいは大気圏を突破して宇宙の星々を視認することもできよう。ただ、視界の移動速度は人間の全力疾走くらいが限界なので、相応の時間はかかる。
それに、装着していない方の目には普通の景色が見えているので、片目は塞いでおくのが望ましい。彼は初めて千里眼を使用した時、左目で本を読みながら右目でテレビを見ようとして、ひどい乗り物酔いをしたような気分になった。
視界はゆっくり、歩く程度のスピードで、という教えを反芻しながら廊下に出る。Google Earthのストリートビューの感覚である。放課後に神子上みことが向かう場所はどこか考え、まずは放送室を見てみることにした。彼女が唯一参加している部活動が放送部なのだ。
校内図を頭に浮かべながら階段を下り、放送室へ向かう。こうして遠隔から監視できるなら、帰宅してやればいいように思えるが、彼としては、京極のマンションから高校まで視界を移動させる時間が惜しいのである。
放送室が空振りだったらどこを探そう、と考えながら分厚い防音扉を透過すると、あっさりビンゴであった。神子上みことはブレザーを抱えた状態で、壁に背を委ねるように立っている。
他に二人、上級生と思しき男女がいて、CDを片手に何か話しているようだが、会話の内容は分からない。千里眼が拡張できるのは視覚のみなのである。CDがAerosmithのものなのでバンド談議でもしているのかと思ったが、見る限り和気あいあいと喋っている様子ではない。
神子上みことは先輩二人の会話に入りづらいのか、つくねんと佇んでいる。放送室の中を見回してみたが、あの気色の悪い顔は見当たらなかった。
そのうち、不美人な女の先輩が、ディスクをケースから取り出してプレーヤーにセットした。いくつかトラックを再生したようだが、一分も経たないうちに再びケースに戻す。
そこでどうやら懸案が解決したらしく、男は勉強を始め、女はスマホを取り出した。神子上みことは「源氏物語」を読んでいる。放送部って何の部活なんだ。
やがてチャイムが鳴り、三人は放送室を後にした。神子上みことは先輩らと別れ、一人で駐輪場へと歩いていく。その背を追って視界を前進させていくと、やがて紺色の自転車の下に、あの白い顔が横たわっているのが見えた。
彼女も気づいたのか、一瞬、逡巡するような素振りを見せたが、結局そのまま自転車の方に歩いていき、スタンドロックを解除した。あの紺色の自転車が彼女のものらしい。
神子上みことが帰宅する際は、視界だけでなく実際に尾行する予定だったので、トイレから出ようと彼は立ち上がった。
「ぐおっ……」
便器から腰を浮かせた瞬間、両の足裏から腿にかけて細かな電流が走り、彼は思わず眼前のドアに手をついた。拍子に集中力が切れて、視界が一挙に駐輪場からトイレへと戻り、ひどい目眩に襲われる。脚が痺れないよう定期的に立ち上がるのを完全に失念していた。自分で考えたのに。
歩くどころか立っているのもやっとなのだが、座ることもできないので、ドアに寄りかかって治るのを待つ。次やる時は絶対に絶対に適度な運動、と内心で反省の弁を述べつつ、再び視界を移動させる。男子トイレにいるのが自分一人であることを確認し、痺れがおさまるとともに個室を出た。
鏡を覗き込むと、右目には五色の光が相変わらず踊っている。こんな状態を他人に目撃されるわけにはいかないので、彼は今度は眼帯を取り出し、右目を隠した。この容姿に眼帯など中二病もいいところだが、他に方法が思いつかなかったから仕方がない。神子上みことの自宅の中を見るため、まだ千里眼は外せないのだ。
手を洗った後で廊下に出、空になった教室でデイパックを回収して外階段へ向かう。外階段の踊り場から裏門を見下ろすと、彼は声をあげそうになった。神子上みことがいる。
彼女は裏門脇の植木の下にいて、誰かと喋っているようである。相手は植木や神子上みことの影に隠れていて見えぬが、打ち解けた様子なので友人と思われた。彼女の友人といえば野々宮という女子生徒がいたな、などと考える。
とにかく、神子上みことと遭遇するのは好ましくなかったので、彼は階段に座り込んで踊り場の腰壁に隠れ、彼女が帰路につくのを待つことにした。外階段を使用する人間が見たら怪しむだろうが、今の時刻なら、ホームルーム教室にいる人間は殆どいないはずだ。
井戸端会議というのは総じて長いものだが、神子上みことたちは早めに解散したらしく、ラグビー部とテニス部の声に混ざって聞こえてきていた喋り声は数分で絶えた。腰壁から頭だけ出して様子を窺うと、やはり裏門脇は無人になっている。
よし、尾行開始、と思ったのだが、彼女は裏門から右折したのか、左折したのかという疑問が湧いた。直帰したなら神子上みことは左折だが、友達といたようだし、寄り道する可能性は否定できない。左折した先でマクドナルドなどの飲食店にいても厄介であった。
彼は仕方なくもう一度階段に座り、左目をつむった。視界だけ裏門から校外へと駆け出し、まず左折する。神子上みことの帰路を思い出しながら更に左折。いた。正門近くのの十字路で、神子上みことが車の通過を待っていた。一人でまっすぐ帰宅すると見られる。
そこまで確認すると、彼は視界を再び踊り場に戻した。急いで視界を移動させたためか、頭の奥の方で重い泥が渦を巻いているように感じる。それでも何とか三半規管を奮い立たせて外階段を下り、テニス部の邪魔にならないように裏門を出た。
小走りで神子上みことの帰路を辿る。裏門から左折し、また左折し、学校脇の細い道路を縦断し、十字路を渡る。既に紺色の自転車の姿は無い。
更に十五分ほど直進すると写真で見た建物が姿を現した。「アドリアノープル北多部」という十六階建てのマンションの一室が、神子上みことの自宅である。見たところトルコらしい要素は一つも無い、ベージュを基調とした色のありふれたマンションであった。敷地は広くなく、駐車場や植え込みなどは小ぢんまりしている。
マンション前の電柱の脇に立ち、視界だけ自動ドアをくぐった。一基しかないエレベーターは九階に停まっていたが、千里眼であれば乗る必要はない。巨大な井戸のような暗い空間を昇っていき、エレベーターを突き抜けると、壁に「9」と書かれた共用廊下が目に映る。この階の三号室が神子上母娘の居室である。
くすんだ木目調の玄関ドアの前まで来て、彼は立ち止まった。この外見とはいえ、男には違いない彼が女性の室を覗いて許されるわけはない。警察が立証できないだけでおそらく犯罪であろうし、既に荒廃している彼の倫理観すらも、これはアウトだと判断している。
だが、神子上みことをこうして監視することには、彼女の人品骨柄を精査する以外にもう一つ、〈神戸の一類〉との接触方法を探るという重大な目的があった。そしてその結果の如何によっては、彼が無理をして神子上みことに話しかける必要は無くなるかもしれない。
もしそうなれば、彼の組織が負うリスクは大幅に低減される。現時点で最良のシナリオであり、その実現のために動く義務が彼にはあるのだ。
それに個人的な理由をいうならば、ほぼ見知らぬ女の私生活を覗き見した程度の罪悪感が加わったところで、彼の今後の人生に支障が出るとは考えづらかった。彼はより非道徳的な所業をこれまでも重ねてきたのであり、今頃になって良心に拘泥しても仕方が無い。
やけくそで彼は自らを納得させ、ドアを透過した。神子上みこと一人しかいないはずなのに、家中の電灯が点いてる。怖がりなのか、それとも何か意味のある行為なのか。
彼女の私室は、玄関から入ってすぐ左の部屋であった。既に部屋着に着替えていて、デイパックから筆箱やクリアファイルを取り出している。勉強するのだろうか。さすが進学校の生徒、と思ったが、机や本棚を見る限り整理整頓は全くできないらしく、雑多なものが無秩序に、しかし毛髪一本の隙間もなく詰め込まれていた。思えば学校の机の中もこんな感じではなかったか。
クリアファイルから出したプリントの冊子は古典の課題のようである。神子上みことはすぐには手をつけず、何やら難しい顔でそれを眺めていたが、やがてシャープペンシルを床に落としたのを機に、机に突っ伏して寝てしまった。おい。
彼はしばらく、神子上みことの睡眠を観察していたが、特に変わったところはないので、視界を他の部屋へと移動させた。彼女の母の私室、洗面所、風呂、トイレ、ダイニング、リビングと順に見ていくが、目に映るのはありふれた2LDKの光景でしかない。白い顔もいない。
ひとつ目につくものといえば、ダイニングにある神棚くらいか。宮形の木曽檜神棚で、木目が非常に美しい。幣帛もちゃんと揃っていて、買ったらかなり高いぞ、などと俗な感想を彼は抱いた。
彼はそのまま、今時珍しいと思いながら神棚をじろじろ眺めていたが、ふと妙なことに気づいた。彼は神具には通じている自負があるのだが、神棚にある幣帛で一つだけ、何なのか分からぬものがあったのだ。
それはおそらく大麻と思しきもので、神棚の中央に置かれていた。材木は賢木と思われ、随分と古びた和紙に包まれている。和紙に書かれた文字はかすれてよく読めぬが、伊勢の神宮大麻ではないようであった(ここまで立派な神棚のある家が、神宮大麻を祀っていないなんてことがあるだろうか?)。
謎の幣帛を見つめながら、彼は今まで目にしたあらゆる大麻を思い出してみたが、合致するものはない。上司に後で報告することにして答えを出すのは一旦断念し、彼は九〇三号室を後にした。他にも見ておかねばならない場所がある。
視界を地上まで戻し、彼は久々に左目を開いた。管理人が出歩いていないのを確認すると、電柱から離れ、マンションの敷地内に足を踏み入れる。エントランスの前を通り過ぎ、向かったのは駐輪場である。
屋内にある駐輪場は薄暗く、神子上みことの自転車を探すのはやや手間取ったが、何とか紺色の車体を発見する。見てくれはありふれたシティサイクルで、特に変わったところはない。お札でも貼っていないかと少し期待したのだが、あの白い顔すらいなかった。
駐輪場を出て、今度は屋外にある駐車場の方へ足を向ける。だが神子上母娘は車を所有していないこともあって、特に発見もなく終わった。
その後、植え込みにあったベンチに腰を下ろし、再び視界だけで神子上みことの私室に向かったが、未だに惰眠を貪っていて、彼はやや呆れた。資料によれば、入試の順位は中の上くらいで悪くはなかったはずだが、高校に入って堕落したのか。それとも、勉強せずとも平気な天才タイプなのか。
緩慢に上下する神子上みことの後頭部を眺めながら、何か夢でも見ているだろうか、という考えがふと浮かぶ。あの奇妙な白い顔は、もしかしたら今は彼女の夢魔と化しているのかもしれぬ。他人の夢を覗く方法を彼は知っていたが、今は践行できる状況になかった。
特に収穫も無さそうなので、戻ろうと玄関に向かう。ところが、そこで彼ははっとして足を、ではなく視界を止めた。
無人のはずの玄関に、人が立っている。老人である。無数のミミズを重ねたかのような、ちりめんじわが無気味な皮膚。生者ではあり得ない顔色。神子上みことの親類縁者にこのような男はいない。
まずい、と彼が思った刹那、男がゆっくりと足を踏み出した。
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