第十四夜 ます鏡そこなる影に向かひゐて
放課後の掃除の時間、一人で廊下を掃いている彼女に声をかけてみたのだが、直後に後悔した。明らかに怪訝な眼差しを向けられたからだ。
本来の彼の性分からいえば、ここで会話を断念して逃亡するのだが、今回ばかりはそうはいかぬ。神子上みこととは一定の関係性を築く必要がある。
そう理解しつつも、彼は内心では苦悶せずにいられなかった。あらためて、彼に適した役目ではない。上司はなぜ彼を指名したのかと思ったが、何か深謀遠慮があるということではなく、人手不足で他にいなかったというのが実情であろう。
掃除を手伝おうという提案は丁重に拒否されたようだったが、ここで退けば二度と接触する気が起こらないと思い、彼は無視して箒をとった。後は何とか、会話の糸口を探さねばならぬ。掃除の時間が終わるまでに。
「……あの……神子上さんって、珍しい名字ですね」
初対面の人と会話する際は、相手に関する質問をするのが吉と何かの小説で読んだことがあったので、彼は実践してみることにした。正面から顔を見るのは気が引けたので、横目で彼女の反応を窺うが、形のいい眉にしわを寄せていて、困惑、または警戒としか解釈できない表情を浮かべている。
「……そうかな。……鷲谷っていうのも割と珍しいんじゃない?」
声にも警戒心が滲んでいるが、答えてはくれた。これで無視されたら、心が折れていたところだ。
一応、対話の意思は示してくれたので、彼は慎重に話題と言葉を選んだ上で、次の質問を発した。
「……神子上さんって、どうして制服なんですか?」
口にしてから、脈絡なくただ質問を投げかけていくという手法に疑義が生じたが、もう遅かった。視界の隅の彼女は、眉宇にますます混乱の色彩を濃くしている。まずい。
「別に……何となく。毎朝、服考えるのめんどいし」
短いながらも返事はあったので、彼は胸をなでおろした。意外と優しいのだろうか。いや、だからといって調子に乗れば痛い目に遭う。そんな思考が働いて、彼は自分から尋ねたくせに「なるほど」としか返さなかった。おかげで会話は続かぬ。
掃除が終わって、用具箱に箒を直していると、箱の隅の影に例の白い顔がいた。やはりこの顔は神子上みことと関係があるのだろうか、と思っていると、横から声が飛んできた。
「あの……掃除、手伝ってくれてありがとう」
あまりに意外な事態に、彼は咄嗟に言葉が出ず、まじまじと彼女の顔を見つめてしまった。どうにか「……いや、そんな……僕が勝手にやっただけだから」と、事実を指摘するだけの返事をして、それ以上はこの場にいづらくなり、教室のデイパックを放置したまま、彼はそそくさと立ち去った。そのまま掃除が終わったばかりの男子トイレに入る。
向こうから話しかけてくれるとは、希望はしていたが想定はしていなかった。人間関係として、これは一つの前進ではあるまいか。うん、きっとそうだ。
何とはなしに鏡を見る。口元が妙に緩んでいる。あっと思って、彼は慌てて表情筋を引き締めた。何をしているのだ。
いづ方の 雲路に我も 迷ひなむ 月の見るらむ ことも恥づかし
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