第四章 11『黒刀の命脈』
――斬った。
神威滝壺は、そう確信していた。
水の型で振り抜いた宵丸の刃は、混沌の胴を確かに捉えた。四本の腕のうち二本は扇を開いたまま、防御の動作にすら入れていなかった。濃縮された無限呼吸法の黒いモヤが切先へ集まり、刃筋に沿って空気を裂いた感触もあった。
だが、斬れたものは肉ではない。
霧だった。
「……また、すり替えか」
滝壺の声は静かだった。
苛立ちではない。恐怖でもない。ただ、事実を受け止めるための確認に近い。
目の前で二つに裂けた混沌の身体が、形を失って霧へ崩れる。白とも黒ともつかない濁った霧が石畳を這い、巨大な滝の水煙へ紛れて消えていく。
その直後――。
「――ッ」
背後から、風が鳴った。
振り返るより早く、滝壺は宵丸を逆手に構えて背中側へ差し込む。刃と扇が衝突し、耳を裂くような金属音が寺院の境内に響いた。
混沌がいた。
四本の腕を持つ異形。
その手に握る扇状の武器は、開けば暴風を生み、閉じれば刃になる。装飾品のような形をしていながら、その一振りは石灯籠を容易く両断するだけの殺傷力を持っていた。
一撃を防いだ。
だが、混沌には腕が四本ある。
二本目が、横から来る。
滝壺は身を沈めて避ける。髪先が数本、扇の刃に散った。三本目が真上から振り下ろされる。宵丸で受けた瞬間、両足が石畳へ沈むほどの衝撃が身体を貫いた。
そして、四本目。
閉じた扇の先端が、槍のように滝壺の腹部へ突き込まれた。
「が、は……ッ」
血が吐き出される。
鋭い痛みが、腹の奥から背中へ抜けた。
普通なら、そこで終わりだった。
少なくとも、次の一太刀を振れる傷ではない。立っていることすら不可能な深さだった。
だが。
滝壺の右手は、宵丸の柄を離していなかった。
指が震える。
視界が揺れる。
意識が白く遠のく。
それでも、手だけは刀を握り続けていた。
「……私は、大丈夫だ」
滝壺は、小さく呟いた。
その言葉に応えるように、身体の奥で何かが脈打つ。
傷が消えたわけではない。
痛みがなくなったわけでもない。
ただ、死へ向かおうとする身体を、無理やりこちら側へ引き戻す力があった。
腹部から流れる血が止まる。
裂けた肉が、遅く、しかし確かに塞がり始める。
「……これが、宵丸の」
刀を握っている間だけ、死なない。
完全な再生ではない。万能でもない。握る力を失えば、そこで終わる。だが逆に言えば、握り続ける限り、滝壺はまだ戦える。
混沌の扇が、再び開かれる。
風が爆ぜた。
滝壺の身体が吹き飛び、苔むした石段へ叩きつけられる。背中に激痛が走り、肋骨が何本か嫌な音を立てた。
混沌は追撃する。
霧の中を滑るように移動し、四本の扇を同時に振るう。
避けきれない。
肩が裂ける。
太腿が抉られる。
左腕に深い傷が走る。
頬を刃が掠め、血が滝壺の顎を伝った。
それでも、滝壺は立った。
立ってしまった。
「……なるほど」
滝壺は、血に濡れた唇を僅かに動かす。
「これは、便利だな」
冗談めいた言葉だった。
だが、笑ってはいない。
瞳の奥にあるのは、静かな覚悟だけだ。
無限呼吸法を回す。
深く。
さらに深く。
呼吸に合わせて、黒いモヤが刃の先端へまとわりつき、水気を含んだ空気を重く歪ませていく。
水の型。
川の流れに逆らって刀を振るような重さ。
それを、滝壺は正面から受け入れた。
「水の型――横一文字」
一閃。
重い斬撃が、霧ごと空間を横に薙いだ。
混沌はまた霧へ逃げる。
だが、今度は完全ではなかった。
霧へ変わる直前、混沌の肩口に浅い傷が走った。
初めて、本体に届いた。
「……見えた」
滝壺の瞳が、わずかに緑に光る。
混沌の姿は霧に紛れて見えない。
だが、分かる。
滝の水煙の流れ。
風の乱れ。
殺気の向き。
扇が開く前に生まれる、ほんの僅かな空気の震え。
それらが、滝壺の中で一つの線になって繋がっていく。
混沌が背後に現れる。
滝壺は振り返らない。
ただ、宵丸を後ろへ突き出した。
刃が、扇とぶつかる。
混沌の動きが一瞬止まった。
「次は、逃がさない」
滝壺は踏み込む。
同時に、混沌の四本の腕が動いた。
扇が開く。
暴風。
刃。
霧。
すべてが一斉に滝壺へ襲いかかる。
全身を切り刻まれながら、滝壺は前へ出た。
傷は増える。
血は流れる。
骨は軋む。
だが、宵丸を握る右手だけは離さない。
裂けた皮膚が塞がる。
抉れた肉が戻る。
失われかけた意識が、刀を通して繋ぎ止められる。
少しずつ。
本当に少しずつ。
宵丸の力が、滝壺の身体に馴染み始めていた。
「私は……まだ、終わらない」
滝壺は、低く告げる。
混沌が霧の奥で揺れた。
初めて、警戒したように。
滝壺は血塗れのまま、静かに刀を構え直す。
無限呼吸法の黒いモヤが、切先で濃く揺れる。
握る限り死なない黒刀。
斬るために重くなる呼吸。
その二つが、今ようやく噛み合い始めていた。
「行くぞ、混沌」
滝壺の足が、石畳を踏み砕く。
「私は大丈夫だ。だから――お前を斬る」
滝の轟音を裂いて、黒刀が走った。




