第四章 10『紅炎、暴食を焼く』
饕餮が吼えた。
それは獣の咆哮ではない。
腹の底から世界そのものを貪ろうとする、飢餓の音だった。
灼界荒野グラディムの大地が震える。
赤黒い砂が宙へ舞い、浮遊していた岩盤が砕け、マグマ湖の表面が逆立つ。重力異常によって歪んでいた空間が、さらに捻じ曲がり、爆の身体を押し潰すような圧となって降り注いだ。
「ぐ、ぅ……ッ!」
膝が沈む。
刀を握る腕が震える。
全身の傷口から血が流れ、炎に照らされて黒く乾いていく。
だが、爆は倒れなかった。
「……まだ、腹減ってんのかよ」
喉の奥から絞り出した声に、饕餮が笑う。
「当然だ。我が飢えに終わりはない」
饕餮の腹部が裂ける。
そこに生まれた巨大な口。
牙の並ぶ暗黒の奥が、荒野の炎を、砂を、岩を、熱を、空気すらも飲み込み始める。
吸い込まれる。
地面ごと。
空間ごと。
爆の足元の岩盤が剥がれ、身体が前へ引きずられる。
「喰らう。貴様の炎も、肉も、骨も、魂も」
「……うるせぇな」
爆は刀を地面に突き立てる。
踏ん張る。
だが止まらない。
刀ごと地面が削られ、饕餮の口が近付いてくる。
その距離、十歩。
七歩。
五歩。
「火神爆。貴様は強かった」
饕餮が流暢に告げる。
「だが、強者ほど美味い」
「勝手に食レポしてんじゃねぇよ」
爆は笑った。
血に濡れた唇で、獰猛に。
「俺はまだ、メインディッシュ出してねぇぞ」
その瞬間、爆の炎が変わった。
それまで荒々しく燃え広がっていた炎が、刀身へと集束する。
赤。
橙。
白。
そして、芯だけが青白く瞬く。
熱が逃げない。
炎が爆ぜない。
ただ、斬るためだけに研ぎ澄まされる。
太陽流剣術。
それは炎を撒き散らす技ではない。
太陽の如く燃え、太陽の如く照らし、太陽の如く全てを焼き断つ剣。
爆はそこで、ようやく理解した。
炎は、怒りではない。
勢いでもない。
自分が進むための道を、焼き開く力だ。
「太陽流剣術――」
爆が刀を抜く。
吸引に身を任せた。
饕餮の口が迫る。
牙が爆の眼前に並ぶ。
喰われる。
誰もがそう思う距離。
だが爆の目は、恐怖を見ていなかった。
ただ一点。
饕餮の喉奥にある、暴食の核だけを見据えていた。
「――紅炎の舞・終ノ舞」
爆の身体が消えた。
否、炎になった。
吸い込まれる速度を利用し、饕餮の真正面へ突っ込む。
饕餮の牙が閉じる。
その寸前。
紅い円舞が、腹の口を内側から切り裂いた。
「――ッ!?」
一閃。
腹の口が裂ける。
二閃。
牙が砕ける。
三閃。
喉奥の闇が燃え上がる。
爆は止まらない。
炎の軌跡を残しながら、饕餮の腹から胸へ、胸から喉へ、喉から顔面へと駆け上がる。
「おおおおおおおおおッ!!」
叫びと共に、刀が振り抜かれる。
饕餮の巨体に、赤い線が走った。
腹から胸、喉、額へ。
一直線に。
「ぬ、ぐ……!」
饕餮が拳を振るう。
まだ動く。
その巨腕が爆を叩き潰さんと迫る。
爆は避けない。
刀を返し、真正面から受けた。
轟音。
足元の大地が陥没する。
爆の両腕が悲鳴を上げる。
骨が軋む。
だが、刀は折れなかった。
「言ったよな」
爆が顔を上げる。
「俺の炎は、テメェに喰わせるために燃えてんじゃねぇ」
炎が爆の背後で膨れ上がる。
それは翼のように広がり、灼界荒野の赤い空を照らした。
「俺が、前に進むために燃えてんだよ!」
爆が踏み込む。
重力異常も、熱風も、吸引も、全てを押し返す。
饕餮の拳を弾き、懐へ入る。
刀を下段に構え、腰を捻る。
全身の力。
炎。
オド。
太陽流の呼吸。
全てを一太刀へ乗せる。
「太陽流剣術――」
饕餮の眼が見開かれた。
初めて、そこに飢え以外の感情が浮かぶ。
驚愕。
そして、僅かな恐怖。
「紅炎――」
刀身が白熱する。
荒野の熱を超え、マグマの赤を超え、太陽の欠片のような光を放つ。
「一閃ッ!!」
爆の斬撃が、饕餮を両断した。
音が遅れてやってくる。
炎が遅れて噴き上がる。
饕餮の巨体は、胸から腹にかけて深く裂かれ、内部から紅炎に包まれていく。
「見事……」
崩れながら、饕餮が呟いた。
「火神爆……貴様の炎、確かに……喰らい切れぬほど、美味であった」
「褒め言葉として受け取っとくぜ」
爆は刀を振り払う。
炎が空へ散った。
饕餮の身体が崩れていく。
肉が灰となり、骨が焼け落ち、最後には巨大な影だけが赤黒い砂の上に残った。
やがて、それも風に消える。
灼界荒野グラディムに、静寂が戻った。
マグマ湖の波も収まり、浮遊していた岩盤がゆっくりと地へ落ちる。
爆はしばらくその場に立っていた。
そして――膝をつく。
「……っぶねぇ」
口から血が落ちた。
全身が痛い。
腕も足も、今すぐ投げ出したいほど重い。
それでも、爆は笑った。
「勝ったぞ、クソ化け物」
通信機が雑音を鳴らす。
『爆、応答して。反応が消えたんだけど、饕餮は?』
聡美の声だった。
爆は震える手で通信機を掴む。
「倒した」
『……本当に?』
「おう。あとで褒めてくれ。できればデート付きで」
『この状況でよく言えるね……』
通信越しに、呆れたような声。
けれど少しだけ、安心したようにも聞こえた。
爆は空を見上げる。
赤黒い雲の隙間から、わずかに光が差していた。
炎ではない。
太陽の光だった。
「……悪くねぇな」
爆は小さく呟き、刀を鞘へ納める。
四凶が一角、饕餮。
灼界荒野グラディムに巣食った暴食の災厄は、火神爆の紅炎によって焼き尽くされた。




