第四章 8『黒天街の影』
黒天街ヴァルグの空は、夜でありながら暗くなかった。
無数のネオン看板が天を埋め、ビルの壁面を流れる広告映像が、路地裏の水溜まりにまで毒々しい光を落としている。
赤、青、紫、緑。
人の欲望をそのまま色にしたような光が、街全体を狂った祭りのように照らしていた。
だが、その明るさに温度はない。
笑い声。
怒号。
銃声。
機械義肢の軋む音。
ドローンの羽音。
遠くで誰かが泣き叫ぶ声。
それらすべてが混ざり合い、ひとつの巨大な騒音となって街を満たしている。
「……最悪な場所ですね」
高層ビルの屋上。
吹き抜ける人工風に黒髪を揺らしながら、暁照夜は眼下の街を見下ろしていた。
黒天街ヴァルグ。
ネオノクス系犯罪都市。
殺し屋、賞金首、改造人間、闇オークション、密売組織。
法が届かないのではない。
法という概念そのものが、ここでは値札をつけられて売られている。
照夜は耳に装着した小型通信機へ指を添える。
「兄さん。対象の位置は」
『地下第七区画。旧地下鉄跡地のさらに下。闇オークション会場に反応が固定されてる』
通信の向こうで、暁聡美の声が返る。
いつもの柔らかさは残しつつも、声色には緊張が滲んでいた。
『檮杌の周囲に生命反応が多い。人質か、観客か、商品か……正直、判別できない』
「全部同じようなものですね」
照夜は静かに言い、屋上の縁へ足をかける。
『無茶しないでね、照夜』
「兄さんに言われるまでもありません」
そう返しながら、照夜は足元の影を踏み込んだ。
次の瞬間、屋上にいたはずの身体が沈む。
黒い影が水面のように揺れ、照夜の全身を飲み込む。
そして、数十階下の路地裏――壊れた街灯の影から、音もなく姿を現した。
着地音すらない。
だが、周囲にいた者たちはすぐに気付いた。
「おい、なんだテメェ」
「どこの組のもんだ?」
「見ねぇ顔だなァ」
改造された腕を持つ男。
片目を機械化した女。
首元に爆弾じみた拘束具をつけた少年。
そして、その全員の奥で、金属バットを引きずる大男が笑っている。
照夜は彼らを一瞥し、淡々と言った。
「通ります」
「あ?」
大男がバットを振り上げる。
その動きが、止まった。
正確には――影に縛られた。
「邪魔です」
照夜の足元から伸びた黒い影が、大男の両腕、両足、首を絡め取る。
次いで、壁に貼り付けるように叩きつけた。
「が、は――ッ!?」
悲鳴が上がるより早く、周囲の連中が武器を抜く。
銃口が向く。
刃物が光る。
義手の砲口が開く。
だが、それらが火を噴くよりも早く。
「月詠」
照夜の背後から、影が膨れ上がった。
蛇のように。
鞭のように。
あるいは、生き物の触手のように。
幾筋もの黒が路地を走り、敵の手首を絡め、足を払う。
銃口を上へ向け、刃を弾き、義手の関節を内側から砕いた。
破壊ではない。
制圧。
必要最小限の力で、相手の戦闘能力だけを奪う。
「……化け物かよ」
誰かがそう呟いた。
照夜は答えない。
影の拘束を維持したまま、路地の奥にある地下入口へ歩く。
その背後で、縛られた者たちが苦しげに呻く。
しかし、誰一人として死んではいない。
それが照夜の戦い方だった。
◇
地下へ降りるほどに、空気は濁っていった。
血の臭い。
鉄の臭い。
薬品の臭い。
そして、人間の恐怖が染みついたような、湿った臭い。
階段を下りるたび、壁に貼られた広告が古くなっていく。
新しいネオン街から、旧文明の廃墟へ。
煌びやかな犯罪都市の仮面が剥がれ、その下にある腐肉のような本性が露わになる。
やがて照夜は、巨大な地下空間へ辿り着いた。
旧地下鉄のホームだったのだろう。
だが今は、線路の上に巨大な円形の舞台が組まれ、その周囲を観客席が取り囲んでいる。
闇オークション会場。
檻に入れられた人間。
改造途中の生物。
番号札を首にかけられた子ども。
壊れた目をした女。
笑いながら値を吊り上げる客たち。
照夜の目が、冷たく細められた。
「……吐き気がする」
その声は小さい。
だが、地下空間の空気を凍らせるには十分だった。
「誰だ、あいつ」
「警備は何してる」
「おい、殺せ」
ざわめきが広がる。
その中心で。
舞台の上に座っていた巨体が、ゆっくりと顔を上げた。
檮杌。
四凶の一角。
全身に炎のような傷痕を刻み、骨のような白い仮面じみた顔を持つ怪物。
黒ずんだ肉体には金属の鎧が食い込み、肩口からは鋭い棘が生えている。
腕は太く、拳は人間の頭など握り潰せるほど巨大。
その存在感だけで、周囲の観客たちが自然と声を失っていく。
檮杌は、椅子代わりにしていた巨大な鉄塊から立ち上がった。
それだけで、舞台が沈む。
「……来たか」
低い声だった。
獣の唸りではない。
人の言葉だ。
だが、それは人間の理性ではなく、暴力に知性を与えたような声だった。
「暁照夜」
「名前を知っているんですね」
「知っている。クトゥルフどもが騒いでいた。光と影を扱う小僧がいるとな」
檮杌が笑う。
その口元が裂け、牙が覗いた。
「だが、見たところ大したことはない。細い。軽い。脆そうだ」
「見た目で判断するタイプですか」
「違う」
檮杌の足元が砕けた。
次の瞬間、巨体が消える。
いや、違う。
速すぎて、照夜の視界から外れただけだ。
「――ッ」
照夜は反射で影を前面に展開する。
黒い壁。
その壁へ、檮杌の拳が叩き込まれた。
轟音。
地下空間そのものが揺れ、観客席のガラスが一斉に砕け散る。
影の壁は拳を受け止めた。
だが、衝撃は殺し切れない。
照夜の身体が後方へ吹き飛び、線路跡を削りながら壁へ叩きつけられる。
「ぐ……ッ!」
肺の空気が抜ける。
骨が軋む。
たった一撃。
ただの拳。
それだけで、照夜は理解した。
――こいつは、アザトースとは違う。
破壊のエネルギーでも、異形の再生力でもない。
純粋な暴力。
肉体そのものが兵器。
檮杌はゆっくりと拳を下ろし、笑った。
「防いだか。なら、次は防ぐな」
「無茶を言いますね」
照夜は口元の血を拭い、立ち上がる。
足元の影が、地下空間一帯へ広がっていく。
黒が伸びる。
柱へ。
天井へ。
観客席へ。
檻へ。
床へ。
照夜は静かに息を吸い、
「天照」
掌に、白い光を灯した。
暗い地下に、眩い光が生まれる。
檮杌の目がわずかに細まった。
「光か」
「ええ」
照夜の影が、無数の刃となって檮杌へ向かう。
同時に、掌の光が線となって走る。
影が縛り。
光が焼く。
黒と白が地下空間を交差し、檮杌の巨体を飲み込んだ。
轟音。
閃光。
影の刃が肉を裂き、光線が装甲を貫く。
だが――、
「軽い」
檮杌の腕が振るわれた。
たったそれだけで、影の刃がまとめて砕け散る。
さらに、踏み込む。
照夜の視界いっぱいに、檮杌の膝が迫った。
「――ッ!」
影へ沈む。
寸前、照夜の身体が床の影に消える。
檮杌の膝蹴りは空を切り、背後の壁を粉砕した。
次の瞬間、檮杌の背後の影から照夜が現れる。
「月詠・黒縛」
影が檮杌の四肢へ絡みつく。
首。
腕。
腰。
足。
全身を拘束し、その場へ縫い止める。
「天照・白穿」
照夜の指先から放たれた白い光が、檮杌の胸部へ一直線に突き刺さった。
肉が焼ける。
装甲が溶ける。
胸に穴が開く。
だが。
「……なるほど」
檮杌は動いた。
影の拘束を、筋力だけで引き千切った。
「力はある」
檮杌の拳が、照夜の腹にめり込んだ。
「が、足りん」
衝撃が突き抜ける。
照夜の身体が宙に浮き、血が口から漏れた。
そのまま床へ叩きつけられ、さらに檮杌の蹴りが横腹を撃ち抜く。
身体が転がる。
骨が嫌な音を立てた。
『照夜!!』
通信機から聡美の悲鳴が響く。
照夜は返事をしようとしたが、喉に血が絡んで声にならない。
檮杌はゆっくりと歩み寄る。
観客席の者たちは、もはや声を出せない。
先ほどまで商品に値をつけ、命を玩具にしていた連中が、今はただ震えている。
怪物同士の戦いを前に、人間は等しく観客でしかなかった。
「立て」
檮杌が言った。
「まだ終わっていないだろう」
「……当然、です」
照夜は震える腕で床を押す。
指先から影が漏れる。
掌から光が滲む。
体内に巡らせた光と影の力。
修行で細胞の奥まで浸透させた力が、傷ついた肉体の内側で微かに脈打つ。
壊れた箇所を、影が支える。
裂けた筋肉を、光が繋ぐ。
完全ではない。
治ったわけではない。
だが、立てる。
「ほう」
檮杌が目を細める。
「再生か?」
「まだ……そこまで便利じゃありませんよ」
照夜は血を吐き、笑う。
「でも、倒れる理由にはならない」
その瞬間、地下空間の明かりがすべて落ちた。
闇。
完全な暗闇。
観客たちが悲鳴を上げる。
その闇の中で、照夜の声だけが響いた。
「ここからは、私の領域です」
次の瞬間。
地下全体の影が、一斉に動いた。
檻を砕き、人質を包み、観客席と舞台を分断する。
逃げ場を作り、敵だけを閉じ込める。
そして、照夜の背後で白い光が弾けた。
闇の中に浮かぶ、ただ一つの光。
檮杌はそれを見て、初めて口元を歪める。
「面白い」
照夜は光を片手に、影を背に纏う。
身体は痛む。
骨は軋む。
呼吸は浅い。
それでも、その目だけは折れていなかった。
「あなたを倒して、この街の地下を潰します」
「やってみろ」
檮杌が拳を握る。
その拳に、地下の空気が震えた。
照夜の影が牙を剥く。
光が刃となる。
黒天街ヴァルグの地下深く。
光と影の少年と、暴虐の四凶が、再び激突する。
――その戦いは、まだ始まったばかりだった。




