第四章 5『神葬寺領イザナミ』
同時刻――神葬寺領イザナミ。
滝の轟音が、空気を震わせていた。
山肌を裂くように落ちる巨大な水流。その周囲には、古びた寺院群が崖に張り付くように建ち並び、黒い霧が線香の煙のように漂っている。
その石畳の参道を、一人の女剣士が歩いていた。
神威滝壺。
黒刀・宵丸を腰に差し、濡れた風に黒髪を揺らしながら、彼女はただ前を見る。
『滝壺さん、聞こえる? その先、渾沌の反応が濃くなってる』
通信越しに聡美の声が響く。
「わかっている」
『霧の中に複数の生体反応あり。人間じゃない。無理はしないで』
「私は大丈夫だ」
短く答え、滝壺は階段を上る。
足元の石段は濡れて滑りやすい。だが、彼女の歩幅は乱れない。
刹那。
霧の奥から、何かが飛び出した。
顔のない獣。
腕だけが異様に長く、口も目もない肉塊が、四足で石畳を蹴って襲いかかる。
滝壺は目を細めた。
「邪魔だ」
宵丸が抜かれる。
黒い刃が、滝の飛沫を斬った。
次の瞬間、獣の身体が上下に分かれる。
遅れて、黒いモヤが斬り口から走り、肉体を崩していく。
滝壺は足を止めない。
二体目。
三体目。
霧の中から次々と異形が現れる。
それらは叫びもせず、ただ滝壺へ殺到した。
「水の型――細雨」
刃が細く、速く、静かに走る。
雨粒のような斬撃が、獣たちの脚を、腕を、胴を切り裂いた。
切られた異形は崩れ、黒い霧へ溶ける。
だが、霧は薄れない。
むしろ濃くなっていた。
「……なるほど」
滝壺は宵丸を構え直す。
「本体は奥か」
その瞬間、寺院の鐘が鳴った。
ごぉん――。
重く、低い音。
それはただの鐘の音ではなかった。
耳ではなく、頭の内側へ直接響くような不快な音。
足元の石段が歪む。
寺が揺れる。
滝が逆流するように見える。
上下左右の感覚が狂い、世界そのものが混ざり始める。
『滝壺さん!? 映像が乱れてる!』
「問題ない」
滝壺は静かに息を吸った。
無限呼吸法。
吸い込んだ空気が肺を通り、身体の奥へ沈む。
黒いモヤが宵丸の切先へ集まっていく。
濃く。
重く。
鋭く。
滝壺の瞳が、微かに緑へ光った。
「私を惑わしたいなら――もっと上手くやれ」
踏み込む。
歪んだ石段を蹴り、滝壺は霧の中心へ走る。
そこにいた。
霧の中心。
崩れかけた寺院の屋根の上へ、音もなく降り立つ白い影。
長い外套が風もないのに揺れる。
顔は白い仮面のように無機質で、黒く落ち窪んだ眼窩の奥だけが、赤く灯っていた。
そして何より異様なのは――腕。
四本。
左右の肩から二本ずつ伸びた白い腕が、それぞれ別の動きをしている。
上の腕は優雅に。
下の腕は獣のように。
その全てが、異形じみた巨大な扇を握っていた。
骨のような白い骨組み。
黒と蒼の模様が浮かぶ扇面。
振るたびに、周囲の空間が歪む。
『あれが……渾沌……!』
通信越しの聡美の声が小さく掠れる。
滝壺は答えなかった。
ただ、静かに宵丸へ手を添える。
黒刀が低く唸った。
――危険だ。
そう言わんばかりに。
「…………」
渾沌が、ゆっくりと四本の腕を広げた。
次の瞬間。
扇が舞う。
ヒュン――と、空気が裂けた。
だが、風は来ない。
代わりに、空間そのものが捻じ曲がった。
滝壺の視界が反転する。
寺院が逆さになる。
滝が空へ流れ、地面が波打ち、距離感が狂う。
石段がねじれ、左右の空間が折り畳まれた。
そして。
何もなかった空間から、突如として斬撃が現れる。
「――ッ」
滝壺が身体を捻る。
直後、背後の寺院が斜めに切断された。
轟音。
巨大な本堂が滑るように崩落し、石煙が吹き荒れる。
『今の……斬撃!? 空間ごと切ってる……!?』
「扇で空間を歪めているのか」
滝壺は静かに呟いた。
渾沌は答えない。
ただ、四本の腕を別々に動かしながら扇を振る。
右上。
左下。
正面。
背後。
斬撃の軌道が読めない。
否。
空間が歪むせいで、“どこから攻撃が来るか”そのものが成立していなかった。
ヒュン――ッ!!
滝壺の右腕が裂ける。
血が舞う。
だが、滝壺は眉一つ動かさない。
「なるほど」
黒い血を払うように宵丸を構え直す。
「面倒だな」
瞬間。
渾沌の赤い眼が細まった。
四本の腕が同時に動く。
扇が開く。
空間が軋む。
寺院全体が捻じ切られるように崩壊した。
石畳が浮く。
瓦礫が宙へ巻き上がる。
視界の全てが歪み、その中心で渾沌だけが静かに立っている。
――化け物。
だが。
滝壺は一歩踏み込んだ。
「無限呼吸法」
息を吸う。
黒いモヤが、宵丸の切先へ収束していく。
濃く。
重く。
鋭く。
滝壺の瞳が緑に光った。
「空間を歪めようが」
踏み込む。
石畳が砕ける。
ヒュン、と空間斬撃が頬を掠め、血が散る。
それでも止まらない。
「斬れば済む話だ」
水の型。
無限呼吸法濃縮十割。
激流に逆らうような重さが、刀身へ宿る。
渾沌の四本の腕が同時に扇を振るった。
空間断裂。
捻転。
圧壊。
全方位から世界そのものが滝壺を殺しにくる。
その中心で。
滝壺は宵丸を横へ薙いだ。
「――横一文字」
黒い一閃。
それは歪んだ空間ごと、真横に断ち切った。
神葬寺領イザナミに、渾沌討伐戦の刃が入った。




