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マンダラ  作者: メメメ
第三章『アザトース襲来』

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第三章 15『戦いの後の静寂』

 黒い渦が、空間を喰らうように閉じていく。


 その中心へ、ニャルラトホテプは歩いていた。


 肩には、気を失ったアザトース。つい先ほどまで憤怒の魔王として暴れ狂い、校舎を壊し、街ひとつを震わせるほどの気配を放っていた怪物が、今は力なく担がれている。


 だが、それを担ぐニャルラトホテプの歩みに、重さはなかった。


 悠然と、ただ通り過ぎる。


 戦場も、怒号も、血も、滝壺の殺意も――そのすべてが、彼にとっては足元の砂埃と変わらないかのようだった。


「……待て…」


 滝壺の声が、掠れて落ちる。


 手には宵丸。刃先には、わずかに黒いモヤが残っていた。


 だが、もう構えられない。


 肩は裂け、腹は潰れるように痛み、背中から足先まで痺れている。呼吸をするたび、胸の奥が焼けるようだった。


「待てって……言ってるだろ……!」


 立とうとした。


 だが、膝が崩れた。


 片足が床を擦り、血が細く伸びる。宵丸を杖のように突き立て、どうにか倒れまいとするが、身体はもう限界を超えていた。


 ニャルラトホテプは、一度だけ足を止めた。


 振り返りはしない。


 ただ、声だけを残す。


「今のお前とやり合う必要はない」


 それは侮辱ではなかった。


 だが、だからこそ残酷だった。


 敵として認められていない。


 滝壺は、それを理解してしまった。


 無限呼吸法濃度十割。


 水の型・横一文字。


 宵丸に黒いモヤを集中させ、全身全霊で放った一撃。


 アザトースの頸を断ち、身体を切り刻み、消滅寸前まで追い込んだ。あの化け物を、確かに追い詰めた。


 それでも、ニャルラトホテプには届かなかった。


「……くそ」


 悔しさが、血よりも熱く喉を焦がす。


 黒い渦が閉じた。


 ニャルラトホテプも、アザトースも消えた。


 残されたのは、崩れた教室、抉れた床、割れた窓、そして――生き残った者たちの息遣いだった。


「滝壺!」


 照夜が駆け寄る。


 その顔にも傷があり、制服は破れ、肩で息をしている。だが、目は生きていた。


 その後ろから、爆も走ってくる。


「おい、滝壺! しっかりしろ!」


 爆が膝をつき、倒れかけた滝壺の肩を支える。滝壺は払いのけようとしたが、腕に力が入らない。


「……触るな。まだ、終わってない」


「終わったんだよ。今はな」


 爆は、珍しく強く言った。


「お前がいなきゃ、アザトースは止まってねぇ。俺も、照夜も、ここにいる奴らも……どうなってたかわかんねぇ」


 その言葉に、滝壺は奥歯を噛む。


「でも……私は、あいつを斬れなかった」


「アザトースは斬っただろ」


 爆が即座に返す。


「ニャルラトホテプは別格だった。それだけだ。負けたことと、何もできなかったことは違ぇよ」


 照夜も静かに頷いた。


「滝壺さんが戻ってこなかったら、僕たちはあそこで押し切られていたと思います。アザトースの再生も、破壊の力も、あなたが止め続けてくれた。……僕は、あなたの戦いを見て、まだ自分がどれだけ甘いか思い知らされました」


 その言葉は、慰めではない。


 戦った者だからこそわかる、確かな評価だった。


 少し遅れて、瓦礫を踏む音が響く。


 日神万之介が、静かに歩み寄ってきた。


 その表情は険しい。だが、滝壺を見る目には、責める色はなかった。


「神威滝壺」


「……はい」


「よく頑張った」


 短い一言。


 だが、その重みは誰の言葉よりも深かった。


「無限呼吸法濃度十割。水の型。宵丸の制御。そして、あの状況での判断。どれも未完成ではない。今のお前は、間違いなく強者の領域に足を踏み入れている」


 滝壺の指が、宵丸の柄を強く握る。


「ですが……私は……」


「上がいた。それだけだ」


 万之介は、閉じた渦のあった空間を見上げる。


「我々が知らねばならぬのは、勝った負けたではない。あの者たちの頂が、今の我々よりなお高い場所にあるという事実だ」


 その言葉に、爆も照夜も黙る。


 勝利ではない。


 完全な敗北でもない。


 守るべきものは守った。だが、敵の本当の強さには届かなかった。


 それが、この戦いの結末だった。


 校舎の外から、ざわめきが聞こえた。


 避難していた教師と生徒たちだ。


 教師は人数を確認し、震える声で何度も名前を呼んでいる。生徒たちは泣きながら抱き合い、ある者は腰を抜かし、ある者は崩れた校舎を見て言葉を失っていた。


 それでも――全員、生きていた。


「全員無事です!」


 教師の声が響く。


「生徒も、教員も、全員避難完了しています!」


 その報告を聞いた瞬間、照夜は深く息を吐いた。


 爆も、滝壺の肩を支えたまま小さく笑う。


「聞いたかよ、滝壺」


「……」


「お前が守ったんだ」


 その言葉に、滝壺の瞳がわずかに揺れる。


 血に濡れた指先が、宵丸の柄をかすかに握り返した。


 ――そのときだった。


「神威滝壺」


 低く、重い声。


 日神万之介が、静かに滝壺の前へ立つ。


 崩れた校舎。焦げた空気。瓦礫の山。戦場の余熱が残る中で、その姿だけが異様なほど静かだった。


 万之介は滝壺を見下ろし、しばし沈黙する。


 やがて、


「鬼鼠谷八兵衛殿より、話は聞いている」


 その一言に、滝壺の視線がわずかに上がった。


「貴様は宵丸に認められた。そして、無限呼吸法濃度十割を完成させた」


 万之介の目が細まる。


「――故に」


 空気が変わる。


 照夜も、爆も、思わず言葉を失った。


「神威滝壺。貴様は八兵衛殿から直々に、“マンダラの席”を継承する」


 その場の空気が、止まった。


「……は?」


 最初に声を漏らしたのは爆だった。


 照夜も目を見開く。


 マンダラ。


 それはただの強者ではない。


 世界の均衡を支える怪物たちの席。


 人類最強格。


 その称号を、“継承”する。


 それがどれほど異常なことか、二人には理解できた。


 滝壺自身も、しばらく言葉を失っていた。


「……私、が?」


「無論、即座に序列入りするわけではない」


 万之介は続ける。


「だが、八兵衛殿は貴様を後継として認めた。あの偏屈な男が、他者に席を譲るなど本来あり得ん」


 その声音には、わずかな驚嘆すら混じっていた。


「今日の戦いで確信した。貴様はすでに、“人の強さ”の領域を踏み越えている」


 滝壺の脳裏に、鬼鼠谷邸での地獄のような修行が蘇る。


 千本手合わせ。


 黒狼との精神世界。


 宵丸に喰われかけた夜。


 八兵衛の、“まだ足りねぇ”という声。


 そのすべての果てに――今、この言葉がある。


 爆が、ぐっと口角を吊り上げた。


「っは……マジかよ」


 そして、滝壺の肩を思い切り叩く。


「すげぇじゃねぇか、滝壺!」


「がっ……!」


「お、おい爆さん!? 今の滝壺さん重傷なんですから!」


「あ、悪ぃ!」


 照夜に怒鳴られ、爆が慌てて手を離す。


 そんな二人を見て、滝壺は少しだけ目を細めた。


 だが、その直後。


 閉じた黒い渦のあった空間を見た瞬間、表情が沈む。


「……でも、届かなかった」


 静かな声だった。


「アザトースは追い詰めた。けど……ニャルラトホテプには、何も届かなかった」


 悔しさが滲む。


 無限呼吸法濃度十割。


 水の型・横一文字。


 あの一撃は、間違いなく必殺だった。


 それでも、戦場を支配したのはニャルラトホテプだった。


 あの圧倒的な格の違い。


 存在そのものが違うような、底知れない気配。


「……あいつは、強すぎる」


 その呟きに、誰も否定を返せなかった。


 だが、


「だからこそだ」


 万之介が言う。


「貴様は今日、その領域へ届く資格を示した」


 万之介の視線が鋭くなる。


「届かなかったから終わりではない。届かなかったからこそ、次がある」


 その言葉に、滝壺は静かに目を閉じる。


 敗北感。


 達成感。


 守れた安堵。


 届かなかった悔しさ。


 そのすべてが胸の中で渦巻いていた。


 だが――。


 避難した生徒たちは、生きている。


 教師たちも無事だった。


 照夜も、爆も、ここにいる。


 守れたものは、確かにあった。


「……次は」


 滝壺が、ゆっくり目を開く。


 その瞳には、まだ火が消えていない。


「次は、必ず斬る」


 宵丸の刀身から、黒いモヤが微かに立ち昇った。


 爆が笑う。


 照夜も、小さく頷く。


 万之介は静かに目を閉じた。


 ――神威滝壺。


 新たな“マンダラ”の継承者。


 その誕生を、戦場の残り火だけが静かに照らしていた。

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