第三章 14『届かぬ刃』
滝壺の世界が、赤く滲んでいた。
頬を伝う血が顎から落ち、床に黒ずんだ点を作る。握る宵丸の柄は血で濡れ、指の感覚はほとんどない。それでも、滝壺は刀を離さなかった。
目の前に立つ男――ニャルラトホテプ。
幼い日の村を焼き、奪い、壊した張本人。
その姿を見た瞬間、滝壺の中で何かが切れた。恐怖ではない。迷いでもない。胸の奥に沈め続けていた憎悪が、ようやく出口を見つけたように暴れ出す。
「……お前だけは」
滝壺の足元に、黒いモヤが細く滲む。
宵丸の切っ先へ、それが集まっていく。無限呼吸法濃度十割。完成したばかりの力が、滝壺の呼吸に合わせて刃へ集中する。
「お前だけは、絶対に斬る」
ニャルラトホテプは、笑った。
「いい目だ。あの時の子どもが、ここまで育ったか」
「黙れ」
滝壺が地を蹴った。
水の型――横一文字。
川の激流に逆らって刀を振るような重さが両腕にのしかかる。それでも滝壺は無理やり宵丸を走らせた。黒いモヤをまとった刃が、一直線にニャルラトホテプの胴を狙う。
だが、届く寸前。
背中から伸びた四本の触手が、翼のように広がった。
先端は巨大な爪。全体は鎧のように硬く、黒光りする異形の腕。その一本が、宵丸の軌道へ割り込む。
甲高い衝突音。
滝壺の腕が弾かれ、肩の骨が軋む。
「ぐ……ッ!」
「悪くない。だが、力みすぎだ」
次の瞬間、別の触手が滝壺の腹を打った。
体が折れ、息が潰れる。だが、滝壺は後ろへ飛ばされながらも足を滑らせ、片膝で踏みとどまった。
倒れない。
倒れるわけにはいかない。
ニャルラトホテプの指先が変形する。鎧のような硬質な爪が伸び、獣の鉤爪のように鋭く光った。
「なら、こちらも少しだけ合わせてやろう」
その言葉と同時に、ニャルラトホテプの呼吸が変わる。
濃い気配が場を押し潰した。
滝壺の肌が粟立つ。相手もまた、無限呼吸法濃度十割に近い領域へ踏み込んでいる。呼吸の深さ、身体の密度、殺意の濃さ。すべてが先ほどまでとは違う。
「来い。復讐者」
挑発に、滝壺は応えない。
ただ踏み込む。
宵丸を低く構え、無意識領域で相手の動きを読む。触手の揺れ。爪の角度。肩の重心。空気の震え。見える。読める。
だが――速い。
読めても、身体が追いつかない。
一本目の触手をかわした直後、二本目が背中を裂く。三本目を宵丸で受けた瞬間、四本目が足を払う。
「っ、ああああッ!」
倒れかけた体を、滝壺は無理やり前へ倒した。
防御ではなく、前進。
爪が肩を抉る。血が飛ぶ。痛みが視界を白く染める。それでも距離を詰める。
「水の型――」
宵丸の切っ先に黒いモヤが濃縮される。
滝壺は歯を食いしばり、重すぎる刃を横へ振り抜いた。
「横一文字!」
黒い線が走った。
ニャルラトホテプの胸元に、浅い傷が刻まれる。
初めて、確かに刃が届いた。
だが、それだけだった。
「見事だ」
ニャルラトホテプの拳が、滝壺の顔面にめり込んだ。
骨の奥で音が鳴る。
滝壺の体が吹き飛び、瓦礫の山へ叩きつけられる。肺の空気が全部抜け、呼吸が止まりかける。
それでも、滝壺は動いた。
震える指で宵丸を握る。
膝を立てる。
立ち上がる。
「まだ……終わってない……」
声は掠れていた。
だが、瞳だけは死んでいない。
ニャルラトホテプはその瞳を見て、わずかに口角を上げた。
「そうだ。その執念が、お前をここまで連れてきた」
滝壺は返事をしない。
再び構える。
だが、体は限界だった。肩は裂け、腹は痛み、足は震え、呼吸は乱れている。無限呼吸法の黒いモヤも、先ほどより細い。
それでも一歩、前へ出る。
「お前を……斬る……」
「ならば、届かせてみろ」
触手が一斉に動いた。
滝壺は避ける。斬る。受け流す。潜る。踏み込む。
だが、ニャルラトホテプはその全てを上回る。
腹を打たれ、背を裂かれ、腕を弾かれ、頬を切られる。宵丸で受けても衝撃を殺しきれず、体の芯まで響く。
力の差。
経験の差。
そして、存在そのものの差。
それでも滝壺は止まらなかった。
「うああああああッ!!」
最後の力で踏み込み、宵丸を振るう。
黒いモヤをまとった刃が、ニャルラトホテプの首を狙う。
だが、ニャルラトホテプは半歩だけ体をずらした。
刃は首ではなく、肩を掠める。
浅い。
浅すぎる。
「残念だ」
低い声が耳元で響いた。
次の瞬間、ニャルラトホテプの膝が滝壺の腹に突き刺さる。
「が……ッ」
滝壺の体が崩れる。
宵丸の切っ先が床を擦り、黒いモヤが薄く散る。
膝をつく。倒れそうになる。だが、滝壺は片手で床を掴み、必死に顔を上げた。
ニャルラトホテプは、気絶したアザトースを肩に担ぎ上げる。
「今日はここまでだ」
「待……て……」
滝壺は立とうとする。
だが、足が動かない。
呼吸が続かない。
血が床へ落ちる音だけが、やけに大きく聞こえた。
「今のお前では、私には届かない」
ニャルラトホテプは背を向ける。
「もっと強くなれ。憎しみを捨てず、折れず、進み続けろ。そうすれば――いつか、もう少し楽しめる」
「ふざ……けるな……」
滝壺の声は、震えていた。
怒りで。
悔しさで。
届かなかった事実で。
ニャルラトホテプは振り返らない。
そのまま闇の奥へ、アザトースを担いで歩き出す。
滝壺は追えなかった。
ただ、宵丸を握りしめたまま、血に濡れた床へ崩れ落ちる。
強くなった。
確かに、強くなったはずだった。
アザトースに届くほどに。強者と張り合えるほどに。
だが、上にはまだ上がいる。
その現実だけが、どんな傷よりも深く、滝壺の胸に突き刺さっていた。




