第三章 13『横一文字』
――勝機は、呼吸の奥にあった。
滝壺は、崩れた校庭の中心で宵丸を下段に構えた。
肩は裂け、脇腹からは血が流れ、膝は笑っている。肺は焼けるように熱く、息を吸うたびに肋骨の奥が軋んだ。
それでも、刀を握る手だけは震えていない。
黒刀・宵丸の切っ先に、黒いモヤが集まっていく。
無限呼吸法――濃度十割。
完成したそれは、ただ全身を巡る力ではない。呼吸で生まれた力を限界まで濃縮し、刃の先へ集める。水の型ならば、刀を振るたびに激流へ逆らうような重さが腕へ襲いかかる。
だが、その重さを振り抜いた先にこそ、滝壺が求めた一撃がある。
「……次で終わらせる」
滝壺の声に、アザトースが嗤った。
目は、すでに見えていない。
瞳孔から伸びた木のような茶色い舌が、角のように固まり、両眼を覆っている。だが、その怪物は視界を失ってなお、滝壺の殺気を、呼吸を、空気の揺れを、肌に刺さるほど鋭く感じ取っていた。
「終わらせる?…俺を?」
アザトースの全身から、紅色の破壊のオーラが噴き上がる。
校庭の瓦礫が浮き、砕けた窓ガラスが粉になり、周囲の空気が圧に耐えきれず悲鳴を上げた。
「やってみろよ。俺はまだ怒ってる。まだ――壊し足りねぇ」
掌に紅い球が生まれる。
小さい。
野球ボールほどの大きさ。
だが、滝壺はそれを見た瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。あれは大きさで判断していいものではない。もし放たれれば、この学校ごと消える。
考えるより先に、滝壺は動いていた。
地を蹴る。
足元の瓦礫が砕け、黒いモヤを引いた宵丸が横へ走る。
「水の型――」
腕に重さがのしかかる。
激流に逆らって刀を振るような、理不尽な負荷。肩が外れそうになり、指の骨が軋み、握力が削られる。
それでも、滝壺は止めなかった。
「横一文字」
黒い一閃が、紅い球ごとアザトースの胴を薙いだ。
瞬間、音が消えた。
次いで、世界が遅れて裂けた。
アザトースの胴体に横一文字の線が入り、その線を中心に無数の斬撃が走る。頸、胸、腹、腕、脚――全身が見えない刃に刻まれたように細かく割れ、黒いモヤに包まれて崩れ始める。
「が、ぁ……ッ!?」
アザトースの頸が落ちた。
胴体は膝から崩れ、腕は再生しようとして生えかけた瞬間に黒いモヤに呑まれ、足もまた形を作る前に剥がれ落ちる。
崩れる。
再生する。
崩れる。
再生する。
だが、今度は崩壊の方が速い。
無限呼吸法濃度十割の黒いモヤが、宵丸の斬撃に沿ってアザトースを削り続けている。
「終わりだ、アザトース」
滝壺は、息を吐いた。
その吐息すら、刃の一部のように鋭かった。
生首だけになったアザトースが、地面に転がりながらも口角を吊り上げる。
「……まだ、だ」
声だけで、地面が震えた。
「まだ、俺は……!」
生首の断面から、肉が噴き出した。
背骨が伸びる。肋骨が開く。腕が芽吹く。脚が生える。
だが、そのたびに黒いモヤがまとわりつき、再生した箇所を即座に崩す。
「ぐ、がああああああッ!!」
アザトースが吼える。
滝壺は宵丸を握り直す。
無限呼吸法を止めるわけにはいかない。止めれば、崩壊が止まる。崩壊が止まれば、アザトースは完全に再生する。
だから、続ける。
呼吸を。
集中を。
殺意を。
――その刹那。
滝壺の背後で、空気が嗤った。
「――見事だ」
声がした。
聞いた瞬間、滝壺の背筋が凍る。
反応はした。無意識領域が警鐘を鳴らし、体は横へ逃げようとした。
だが、遅い。
横合いから伸びた拳が、滝壺の鳩尾を正確に打ち抜いた。
「か、は……ッ!」
呼吸が潰れる。
肺の空気が全部吐き出され、体内で巡っていた流れが途切れる。
瞬間、宵丸の切っ先に集まっていた黒いモヤが霧散した。
アザトースを包んでいた黒い崩壊も、同時に消える。
「――――」
滝壺の目が見開かれる。
まずい。
そう思った時には、もう遅かった。
生首状態だったアザトースの断面から、肉が爆発するように再生した。骨が組み上がり、筋肉が張り付き、皮膚が覆う。数秒にも満たない時間で、アザトースは完全な肉体を取り戻す。
紅色の破壊のオーラが、再び燃え上がった。
「てめぇ……よくも……!」
アザトースが、滝壺へ拳を振り上げる。
滝壺は動けない。
鳩尾を打ち抜かれた痛みで、膝が落ちる。呼吸が戻らない。宵丸を握る指に力が入らない。
アザトースの拳が、滝壺の頭を砕こうと振り下ろされる。
その直前。
ひとりの影が、アザトースの前に立った。
「もうよい」
低い声。
次の瞬間、影の拳がアザトースの鳩尾に沈んだ。
「ご、ぼ……ッ!?」
アザトースの体がくの字に折れる。
紅色のオーラが揺らぎ、口から血が溢れる。怪物の膝が地面に落ち、そのまま前のめりに倒れた。
失神。
あれほど崩れても、斬られても、笑っていた怪物が、たった一撃で意識を刈り取られた。
滝壺は、息を詰まらせながらその男を見上げる。
黒い影のような佇まい。
底の見えない瞳。
人の形をしているのに、人間の気配がしない。
そして、その顔を見た瞬間――滝壺の奥底で、幼い日の記憶が焼けるように蘇った。
炎。
悲鳴。
血の匂い。
崩れた家。
倒れた村人。
そして、その中心で自分を見下ろしていた男。
「……ニャル、ラトホテプ」
滝壺の声が震える。
恐怖ではない。
怒りだ。
憎悪だ。
忘れたくても忘れられなかった、村を滅ぼした張本人。
ニャルラトホテプは、倒れたアザトースを見下ろし、それから滝壺へ視線を向けた。
「久しいな。いや――お前にとっては、ようやく会えたと言うべきか」
滝壺は、宵丸を杖にして立ち上がる。
体は限界。
呼吸は乱れ、血は止まらず、視界の端が暗い。
それでも、刀を構える。
黒いモヤが再び、切っ先へ集まり始める。
「お前だけは……」
滝壺の瞳が、緑に光る。
「ここで斬るッッ!!!」
ニャルラトホテプの背中から、四本の触手が生えた。
翼のように広がるそれは、先端が巨大な爪のように尖り、全体が鎧のような硬質な光沢を帯びている。さらにその指先にも、鋭い爪のような装甲が現れる。
ニャルラトホテプは微笑む。
「来い。小娘」
滝壺は地を蹴った。
怒りと憎悪を刃に乗せ、黒刀・宵丸を振り抜く。
――因縁の戦いが、始まった。




