第三章 10『濃縮十割』
黒刀・宵丸の切っ先に、黒いモヤが凝縮する。
それは煙ではない。
炎でもない。
神威滝壺が呼吸を極限まで研ぎ澄ませ、血流と気流を一本の線に束ね、さらに刃の先へと押し込めた結果、ようやく形を持った“崩壊の輪郭”だった。
「……できた」
滝壺は静かに呟いた。
だが、喜びはない。
完成しただけでは足りない。完成した力を、戦いの中で維持し続けなければならない。相手はアザトース。不老不死の再生を持ち、腕を斬られても断面から新しい腕を生やし、足を斬られても即座に立ち上がる化け物だ。
黒いモヤで崩しても、奴は再生する。
ならば、再生するより早く崩すしかない。
滝壺の前に、再びアザトースの幻影が現れる。
紅色の髪。少し白い、人間に近い肌。紺色の白目に、紅色の瞳。瞳孔は猫のように縦に細く、口のように開閉し、太く鋭い犬歯が覗く。
だが今、その目はもう見えていない。
瞳孔から伸びた茶色い舌のようなものが固まり、角のように目を覆っていた。
「来いよ、女剣士。まだ足りねぇだろ?」
幻影が笑う。
荒く、戦いに飢えた声。
滝壺は宵丸を構えた。
「随分とよく喋る」
黒いモヤが、刃先にさらに濃く集まる。
「私が相手をする」
直後、アザトースが消えた。
見えない速度ではない。視界に頼れば追えないだけだ。
滝壺は目で追わなかった。
殺気。空気の揺らぎ。足場の沈み。拳を振るう直前に生まれる気の圧。
すべてを感じる。
無意識領域へ、意識を沈める。
考えるより先に、身体が動いた。
右。
半歩ずれる。
アザトースの拳が、滝壺の頬の横を通り抜けた。直撃していれば、頭ごと持っていかれていた一撃。だが、滝壺の表情は変わらない。
宵丸が跳ねる。
「水の型――横一文字」
重い。
激流に逆らって刀を振るような抵抗が、腕を潰そうとする。
だが、振り抜く。
黒い線がアザトースの胴を裂いた。
斬られた肉体が、黒いモヤに包まれて崩れ始める。だが、断面から肉が盛り上がる。再生が始まる。
滝壺は止まらない。
「雷の型――紫電一閃」
世界が遅くなる。
いや、巻き戻る。
時間が数秒前へ逆行する中で、滝壺だけはその影響を受けない。記憶も、位置も、刃の軌道も、そのまま連続する。
一閃。
二閃。
三閃。
頸、肩、肘、胴、膝。
斬撃が重なり、アザトースの幻影が細切れになる。
再生する。
崩れる。
再生する。
崩れる。
その繰り返しの中で、黒いモヤが薄れない。
宵丸の切っ先に、濃縮十割のモヤが留まり続けている。
滝壺は呼吸を乱さなかった。
腕が軋む。肺が焼ける。足が震える。
それでも、刀は止まらない。
やがて、アザトースの幻影が膝をついた。
「……はっ」
崩れかけた顔で、幻影が笑う。
「いいじゃねぇか」
次の瞬間、幻影は完全に崩れた。
黒い粒子となって消え、精神世界に静寂が戻る。
滝壺は宵丸を下ろした。
その切っ先には、まだ黒いモヤが残っている。
完成。
無限呼吸法濃縮十割。
黒刀・宵丸の刃先に崩壊を集中させ、型に応じて力を変化させる領域。
水の型なら、激流に逆らうほどの重さを越えて斬る。
雷の型なら、速度をさらに引き上げ、時間の逆行すら利用して斬撃を重ねる。
そして、斬った対象の崩壊を加速させる。
巨大な黒狼が、滝壺の前に現れた。
緑に光る瞳が、静かに彼女を見下ろす。
滝壺は息を整え、宵丸を鞘に納めた。
「待たせたな」
黒狼は低く唸った。
それは、送り出す声のようだった。
次の瞬間、精神世界が砕ける。
黒い川も、崩壊した校舎も、アザトースの幻影も消えていく。
滝壺の意識が現実へ浮上する。
耳に届いたのは、爆音。
破壊の気配。
そして、遠くから響くアザトースの荒い笑い声。
滝壺はゆっくり目を開けた。
瞳が、わずかに緑へ光る。
「……今戻る」
黒刀・宵丸の切っ先に、黒いモヤが静かに集まった。




