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マンダラ  作者: メメメ
第三章『アザトース襲来』

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第三章 9『黒き呼吸』

 刀を振るう。


 ただ、それだけの動作がこれほど重いものだと、神威滝壺は初めて知った。


 精神世界に広がるのは、果てのない川だった。


 水面は黒く、空はない。上下左右の感覚さえ曖昧になるほど、世界は流れだけで構成されていた。濁流が足首を叩き、膝を打ち、腰まで迫り、やがて全身を押し流そうと牙を剥く。


 その流れに逆らい、滝壺は黒刀・宵丸を握っていた。


「……まだだ」


 吐き出した声は、自分でも驚くほど静かだった。


 現実では、アザトースが暴れている。爆が戦っている。照夜も、教師も、生徒たちも、あの化け物の脅威に晒された。


 自分は一度、あの敵を斬った。


 雷の型・紫電一閃で身体を刻み、頸を断った。だが、倒せなかった。


 黒いモヤに包まれ、崩れかけながらも、奴はなお立ち上がった。再生し、怒りを燃やし、破壊の力を纏い、さらに先へ進化した。


 足りなかった。


 刃も、呼吸も、覚悟も。


 だから、ここにいる。


 滝壺は宵丸を構え直した。刀身の先端に、わずかに黒いモヤが集まり始める。煙ではない。炎でもない。無限呼吸法を極限まで濃縮したとき、刃の先に現れる崩壊の輪郭。


 それは、ただ出せばいいものではなかった。


 呼吸を乱せば散る。意識を乱せば薄れる。怒りに飲まれれば、刀に宿る前に自分の内側で暴れる。


 滝壺は息を吸った。


 肺に空気を入れるのではない。


 血の流れを感じる。気の流れを感じる。身体の奥、脈打つ鼓動の隙間にある、目には見えない熱を探る。


 それを膨らませる。


 膨らませ続ける。


 しかし、膨らませたままでは意味がない。


 肥大した力は鈍い。広がった気は刃にならない。必要なのは、収縮。一点へ、さらに一点へ。黒く沈むほどに圧縮し、宵丸へ流し込む。


 ――黒色化。


 その感覚を掴むため、滝壺は何度も刀を振った。


 だが、


「……っ」


 刃が重い。


 水の型で振ろうとした瞬間、濁流は牙を剥いた。まるで激しい川の流れに逆らって刀を振るうように、腕に途方もない負荷がかかる。肩が軋み、指が痺れ、刀の切っ先がわずかに沈む。


 その一瞬で、黒いモヤが崩れた。


 足元の水面が跳ねる。


 黒狼が現れた。


 宵丸の精神世界に棲む、巨大な黒狼。その瞳が暗闇の中で緑に光り、滝壺を見据える。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ見ていた。


「分かっている。もう一度だ」


 滝壺は短く告げる。


 黒狼は答えない。


 ただ、次の瞬間、その姿が掻き消えた。


 殺気。


 背後。


 滝壺は反射で振り向き、宵丸を横へ走らせる。だが、重い。水の型の流れに、身体がまだ負けている。刀が空気を裂くより早く、黒狼の爪が肩を掠めた。


 痛みが走る。


 精神世界の傷でありながら、現実の肉体にも響くような鋭さ。


 滝壺は膝をつきかけた。


 だが、倒れない。


「私は……戻る」


 声に熱が混じる。


「戻って、もう一度あいつを斬る」


 黒狼が低く唸った。


 その唸りが合図だった。


 水面が爆ぜる。濁流の奥から、黒狼が何体も現れた。前後左右、逃げ場を塞ぐように囲む。だが滝壺は、囲まれたことに焦らなかった。


 焦れば呼吸が乱れる。


 乱れれば、黒いモヤは消える。


 消えれば、あの再生を止められない。


 滝壺はゆっくり息を吸い、宵丸の切っ先を下げた。


 水の流れを読む。


 逆らうのではない。


 押し返すのでもない。


 重さを受け入れた上で、振る。


 次の瞬間、黒狼たちが一斉に飛びかかった。


 爪が迫る。牙が迫る。殺気が全身を刺す。


 その全てを見ながら、滝壺は一歩踏み込んだ。


「水の型――」


 刀身の先端に、黒いモヤが集まる。


 重い。


 だが、動く。


 腕だけではない。肩、腰、足、呼吸、血流、気の流れ。その全てを一本の線に揃え、濁流の抵抗ごと斬り伏せる。


「横一文字」


 黒い線が走った。


 水面が割れた。


 飛びかかった黒狼たちの身体が、空中で静止する。次の瞬間、その輪郭が崩れ、黒い粒のようにほどけて消えた。


 滝壺は刀を振り切った姿勢のまま、荒い息を吐いた。


 成功した。


 だが、完全ではない。


 黒いモヤはすぐに薄れ、宵丸の先端から消えた。


「……まだ短い」


 この程度では、アザトースは止まらない。


 一度斬って終わりではない。斬ったあとも、崩壊を続けさせなければならない。再生しようとする肉体を、再生するたびに崩し続けるだけの濃度と持続力が必要だった。


 滝壺は顔を上げる。


 黒狼はまだいた。


 最初に現れた巨大な黒狼が、濁流の向こうで滝壺を見ている。その姿は、先ほどよりもはるかに大きく見えた。


 いや、実際に大きくなっていた。


 山のような体躯。鋭い牙。闇そのものの毛並み。緑に光る瞳が、滝壺の奥底まで覗き込む。


 その瞬間、世界が変わった。


 川が消える。


 代わりに現れたのは、崩壊した校舎だった。


 割れた床。砕けた壁。落ちた天井。埃と血の匂いを含んだ戦場。


 そして、その中央に――アザトースが立っていた。


 細くなった身体。浮き出た肋骨。紅色の髪。目の部分を覆う、角のように固まった異形。見えていないはずなのに、こちらを見透かすような圧。


 両手から、膨れ上がるオドの気。


 さらにその身を包む、紅色の破壊の気配。


「……随分と、再現が細かいな」


 滝壺は呟いた。


 黒狼が作り出した疑似戦場。


 現実の敵と場所を再現し、自分を鍛えるための世界。


 偽物だと分かっていても、肌が粟立つ。あの戦闘狂の圧が、殺意が、怒りが、ここにある。


 アザトースの幻影が笑った。


「まだやれんのかよ、剣士」


 荒い声。


 滝壺は宵丸を構える。


「当然だ」


 幻影が消えた。


 否、速すぎて見失った。


 次の瞬間、滝壺の眼前に拳が迫る。


 防御は間に合わない。


 そう判断した瞬間、滝壺は雷の型へ切り替えた。


 足先から、身体が粒子になるような感覚。


 世界の輪郭が引き伸ばされる。


 次の刹那、時間が巻き戻った。


 数秒前。


 だが、滝壺だけは戻らない。


 意識も、経験も、位置取りの記憶も、そのまま残っている。


 アザトースの幻影は、先ほどと同じ動きで踏み込んでくる。拳の軌道も、殺気の流れも、空気の揺らぎも、全て分かる。


 滝壺は半歩ずれた。


 拳が空を裂く。


 その脇腹へ、宵丸を走らせる。


「雷の型――」


 速さが、さらに速さを越える。


 黒いモヤを宿した切っ先が、幻影の胴を斬った。


「紫電一閃」


 斬撃は一つでは終わらない。


 身体が粒子となり、数秒前へ巻き戻る世界の中で、滝壺だけが連続する。巻き戻るたびに位置を変え、角度を変え、斬撃を重ねる。


 一撃。


 二撃。


 三撃。


 頸、腕、胴、脚。


 斬るたびに、対象の崩壊が早くなる。


 幻影の肉体が黒いモヤに包まれ、崩れ始めた。


 だが、幻影は止まらない。


 切断された腕の断面から、新しい腕が即座に生える。脚を斬れば、断面から新しい脚が伸びる。胴を裂けば、裂けた内側から肉が盛り上がり、形を戻そうとする。


 再生。


 崩壊。


 再生。


 崩壊。


 そのせめぎ合いの中で、滝壺は歯を食いしばった。


 これだ。


 自分が越えなければならないのは、この再生速度。


 斬るだけでは足りない。


 斬り続けるだけでも足りない。


 無限呼吸法濃縮十割を維持し、黒いモヤを切っ先に集中させ続け、雷の型の速度で崩壊を加速させる。


 その上で、オドを纏わせる。


 能力を一時的に鈍らせ、刃の威力を上げるために。


 滝壺は呼吸を深めた。


 宵丸に流し込んだ気を膨張させる。


 膨張した気を、さらに収縮させる。


 黒色化。


 刀身の輪郭が、闇よりも深く沈んだ。


 その瞬間、巨大な黒狼が咆哮した。


 世界が震える。


 アザトースの幻影が踏み込む。


 滝壺も踏み込む。


「私は――」


 黒いモヤが、宵丸の切っ先に集まる。


「もう、止まらない」


 紫電が走った。


 幻影の頸が飛ぶ。


 同時に、身体全体へ無数の斬撃が刻まれた。再生しようとする肉体を、黒いモヤが追いかけ、崩し、削り、消していく。


 滝壺はそこで刀を止めなかった。


 止めれば、崩壊も止まる。


 現実のアザトースも同じだ。


 だから、振り続ける。


 呼吸を続ける。


 意識を保ち続ける。


 やがて幻影が完全に崩れ落ちたとき、滝壺は膝から崩れた。


 肩で息をする。腕が痺れる。指先の感覚が薄い。だが、宵丸は手放さなかった。


 巨大な黒狼が、ゆっくり近づいてくる。


 滝壺は顔を上げた。


 黒狼は滝壺の前で足を止め、静かに頭を下げた。


 認められた。


 そう理解した瞬間、滝壺の瞳がわずかに緑に光った。


「……行くぞ、宵丸」


 滝壺は立ち上がる。


 現実へ戻る時が来た。


 爆が戦っている。


 アザトースが待っている。


 今度こそ、斬る。


 ただ斬るのではない。


 再生すら追いつかないほどに、崩し続けるために。


 黒刀の切っ先に、黒いモヤが静かに集まった。

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