第三章 6『憤怒の魔王』
――紫電が、夜を裂いた。
「無限呼吸法――雷の型」
低く、押し殺したような声が響く。
神威滝壺の瞳が緑に淡く発光し、その手に握られた黒刀《宵丸》から、どろりとした黒いモヤが噴き出していた。
空気が軋む。
否――空間そのものが、滝壺の放つ異質な圧力に耐え切れず悲鳴を上げている。
「――紫電一閃」
次の瞬間。
世界が、黒紫の雷光に呑まれた。
「――――ッ!!?」
アザトースの巨躯が真横から斬り抜けられる。
斬撃、ではない。
それはもはや暴風だった。
雷鳴を伴った黒紫の奔流がアザトースの身体を何百、何千という単位で斬り刻みながら駆け抜け、周囲の校舎ごと空間を引き裂いていく。
コンクリートが遅れて崩壊した。
校舎の壁面が斜めに滑り落ち、窓ガラスがまとめて砕け散る。
衝撃波だけで校庭が抉れ、大地がめくれ上がり、爆風が数百メートル先の建物を吹き飛ばしていく。
「ガァァァァァァァァァァァァッ!!?」
絶叫。
アザトースの頸が宙を舞った。
同時に、身体全体が細切れに裂断されていく。
肉片が飛ぶ。
骨が砕ける。
内臓が爆ぜる。
だが、それだけでは終わらない。
切断面から黒いモヤが噴き出し、アザトースの肉体そのものを侵食し始めていた。
ボロボロと。
崩れる。
肉が灰のように崩壊し、骨が風化し、存在そのものが削れていく。
まるで“死”そのものを押し付けられているかのようだった。
「……まだだ」
滝壺は息を吐く。
肩で呼吸をしながらも、《宵丸》を構え続ける。
黒いモヤは無限呼吸法によって生み出される異質な侵食。
斬った相手を崩壊させ続ける絶技。
だが。
「……ッ、まだ動くのかよ」
照夜が血を流しながら顔を引き攣らせた。
頸を飛ばされたアザトースが。
崩れながら。
なお、動いていた。
「ガ……ァァァァ……」
黒いモヤに侵されながら、アザトースの両腕が持ち上がる。
そして。
ブワッ――!! と。
紅色のオーラが爆発した。
「――ッ!?」
その瞬間。
周囲の空間が歪む。
校舎の残骸が浮き上がり、地面が軋み、空気が悲鳴を上げる。
それは怒り。
それは憎悪。
感情そのものを燃料に膨れ上がる、憤怒の魔王の力。
「グ……ォォォォォォォォ!!」
アザトースの掌に、紅い球体が生まれる。
小さい。
野球ボール程度。
だが。
その瞬間、滝壺の本能が絶叫した。
「避けろォォォォォ!!」
照夜が叫ぶ。
直後。
アザトースがそれを放った。
瞬間。
世界が消えた。
「――――ッ!!?」
轟音すら遅れてやってくる。
紅い閃光が着弾した瞬間、校舎が丸ごと消滅した。
爆発、ではない。
存在ごと抉り取られている。
数秒遅れて衝撃波が周囲を薙ぎ払い、吹き飛んだ瓦礫がミサイルのように周辺へ突き刺さっていく。
グラウンドが消えていた。
建物が消えていた。
地形そのものが丸く抉れている。
「ッ、やべぇだろ……!」
照夜が歯を食いしばる。
もし直撃していれば。
骨すら残らない。
そんな確信があった。
「ガァァァァァァッ!!」
アザトースがさらに咆哮する。
黒いモヤで崩れながら、それでも怒りによって力を増幅させている。
掌に再び紅い球体が生まれ――。
「させるか」
滝壺が踏み込んだ。
無意識領域。
相手の殺意、空気の揺らぎ、筋肉の動きを読む超感覚。
視界より先に身体が動く。
紅い球体を回避しながら、《宵丸》を振り抜く。
斬撃。
斬撃。
斬撃。
アザトースの身体が再び切り刻まれていく。
だが。
「――――ッ」
滝壺の顔が歪んだ。
崩れ方が、遅い。
黒いモヤによる侵食を、アザトースが耐え始めている。
「グルルルル……」
その時だった。
アザトースの身体が急激に収縮し始める。
グネグネと。
骨も肉も関係なく、粘土のように捻じ曲がりながら球状に圧縮されていく。
「なに……!?」
照夜が目を見開く。
次の瞬間。
大量の蒸気が噴き出した。
白い蒸気が周囲を覆い隠し、視界を完全に奪う。
ジュウゥゥゥ……と肉の焼ける音。
脈動音。
骨が軋む音。
何かが内部で組み替わっている。
そして。
蒸気の奥から。
ゆっくりと影が現れた。
「……なんだよ、あれ」
照夜の声が震える。
細い。
先ほどまでの筋肉の塊のような肉体ではない。
肋骨が浮き出るほど痩せ細った身体。
だが。
纏う圧力だけが、異常なほど増していた。
空気が重い。
立っているだけで肺が潰れそうになる。
そして。
アザトースの瞳孔から。
茶色い“舌”のようなものが伸びた。
木の根のように蠢きながら、グルグルと巻き付き、固まり、角のような形状へ変質していく。
その瞬間。
ゾワリ、と。
滝壺の全身に悪寒が走った。
「視えてる……?」
アザトースが。
こちらを“認識”した。
殺意。
呼吸。
筋肉。
空気の流れ。
無意識領域に近い感覚で。
「ガァァァァァァァァァッ!!!」
轟音。
次の瞬間、アザトースが消えた。
「――ッ!?」
滝壺の横腹に衝撃。
吹き飛ぶ。
校舎を数枚ぶち抜きながら転がり、壁へ激突。
「がッ……!」
吐血。
速い。
今までとは比較にならない。
さらに。
手から放たれるオドの出力が桁違いだった。
紅い気が奔流となって空間を裂き、周囲の建物を消滅させながら迫る。
滝壺は防戦一方だった。
斬る。
避ける。
捌く。
だが、一瞬でも遅れれば死ぬ。
そんな攻防。
「チッ……!」
滝壺が歯を食いしばった、その瞬間。
「――よう」
背後から声。
アザトースが振り返る。
そこには。
赤髪を揺らしながら。
巨大な刀を肩に担ぐ男が立っていた。
「待たせたな、滝壺」
火神爆。
修行を終えた男が。
アザトースの背後へ、静かに立っていた。




