第三章 5『不死身の狂戦士』
宵丸から溢れる黒いモヤが、夜の校庭を這うように広がっていた。
それは霧ではない。
煙でもない。
神威滝壺が無限呼吸法によって刀へ流し込んだ気が、黒刀の刃にまとわりつき、目に見える形となって滲み出しているものだった。
黒いモヤを纏った宵丸。
その刃に斬られたアザトースの肉体は、再生しながらも崩れかける。
切られた箇所から肉が盛り上がり、骨が伸び、皮膚が塞がる。だが、その再生した端から黒いモヤが食らいつくようにまとわり、肉を削り、骨を砕き、また崩す。
「……面倒な力だな」
滝壺は静かに呟く。
表情は変わらない。
だが、その呼吸はわずかに荒くなっていた。
無限呼吸法を維持しながら、硬い皮膚を持つ不死身の敵を斬り続ける。それはただ刀を振るうだけの行為ではない。呼吸を乱せば気の流れが途切れ、黒いモヤの侵食も止まる。
止まれば、アザトースは完全に再生する。
だから、止まれない。
「は、はは……いいじゃねぇか」
アザトースが笑う。
右腕は先ほど斬り落とされたばかりだった。
しかし、肩の断面から骨が飛び出し、肉が絡みつき、血管が蛇のようにうねり、新しい腕が即座に生える。
足も同じ。
斬られても、潰されても、失われた断面から新しい部位が生まれる。
不老不死。
それは、死なないというより――死ぬことを許されていない肉体だった。
「お前、最高だなァ……! こんだけ斬ってくる奴、久しぶりだぜ!」
「私は楽しんでいるわけではない」
滝壺は宵丸を構え直す。
「お前を止める。それだけだ」
「止める?」
アザトースの紅い瞳が細くなる。
紺色の白目に浮かぶ縦長の瞳孔が、口のように開閉した。
「止められると思ってんのかよ」
次の瞬間、アザトースが消えた。
否。
踏み込みが速すぎた。
地面が砕け、衝撃が遅れて走る。滝壺の眼前に現れたアザトースが、左拳を叩き込む。
滝壺は宵丸を斜めに立てて受けた。
轟音。
刀身越しに衝撃が腕へ流れ、肩へ、背中へ、足裏へ突き抜ける。地面に亀裂が走り、滝壺の身体が後方へ滑った。
だが、倒れない。
「硬いだけではないな」
「当たり前だろうが!」
アザトースの蹴りが飛ぶ。
滝壺は身を沈めて躱し、その脚へ宵丸を振るった。
黒い刃が太腿を斬り裂く。
皮膚が硬い。
刃がわずかに止まる。
それでも滝壺は呼吸を深め、刀へ気を流し込む。
黒いモヤが濃くなり、刃が肉を越え、骨を断った。
アザトースの右脚が落ちる。
だが、落ちた瞬間には断面が蠢いていた。
新しい脚が生える。
地面に落ちた古い脚は黒いモヤに包まれ、ボロボロと崩れて消えていく。
「無駄だって言ってんだろ!」
「無駄かどうかは、最後まで斬ってから決める」
滝壺が踏み込む。
静かな一歩。
しかし、その速度は鋭い。
アザトースの胸元へ潜り込み、宵丸を下から斬り上げる。
刃は胸部の皮膚を裂いた。
だが、浅い。
硬質な皮膚が刃を拒み、完全には通らない。
アザトースは牙を剥き、笑う。
「惜しいなァ!」
拳が落ちる。
滝壺は紙一重で身を捻ったが、肩を掠めた衝撃だけで体勢が崩れる。
そこへ膝蹴り。
腹部に直撃した。
「――ッ」
息が詰まる。
滝壺の身体が浮き、校舎の外壁へ叩きつけられる。壁が砕け、粉塵が舞う。
だが、次の瞬間には壁の割れ目から黒い軌跡が走った。
滝壺が飛び出す。
宵丸を逆手に持ち替え、アザトースの首筋へ斬撃を入れる。
硬い。
やはり首は特に硬い。
刃が食い込むが、断ち切れない。
アザトースが嗤う。
「そこ狙うよなァ!」
アザトースの手が滝壺の腕を掴む。
握力だけで骨が軋む。
だが、滝壺は怯まない。
黒いモヤが宵丸から溢れ、アザトースの首筋へまとわりつく。
「……なら、削る」
滝壺は腕を捻り、刃を押し込む。
黒いモヤが皮膚の裂け目へ入り込む。
アザトースの首筋がボロボロと崩れ始めた。
「お、おお……!」
アザトースの笑みが深くなる。
「痛ぇ……! 痛ぇぞ、おい!」
その言葉と同時に、アザトースの拳が滝壺の横腹へ突き刺さった。
滝壺の身体が吹き飛ぶ。
地面を跳ね、転がり、膝をつく。
口元から血が落ちた。
それでも、宵丸を離さない。
「まだ立つか」
「当然だ」
滝壺は立ち上がる。
黒刀を握る手に、さらに力が入る。
呼吸を整える。
吸う。
吐く。
血の味が喉に絡む。
それでも、呼吸を乱さない。
無限呼吸法は、途切れさせてはならない。
「無限呼吸法――」
黒いモヤが宵丸に集まる。
刃の輪郭が滲み、空気が震えた。
「雷の型」
アザトースが構える。
笑いながら。
待っている。
その狂気に、滝壺はわずかに目を細めた。
「紫電一閃」
次の瞬間、滝壺の姿が消えた。
黒い閃光。
アザトースの身体を、幾筋もの斬撃が通過する。
首、肩、胸、腹、腕、脚。
硬い皮膚を切り裂きながら、黒いモヤを流し込む。
アザトースの身体に無数の線が走った。
一拍遅れて、血が噴き出す。
さらに、黒いモヤが傷口から広がり、肉体を崩し始める。
「――ッは」
アザトースの口が開く。
笑っていた。
「やるじゃねぇか……!」
右腕が崩れる。
左脚が崩れる。
腹部の肉が剥がれ、肋骨が覗く。
だが、再生する。
崩れた断面から新しい肉が盛り上がり、腕が生え、脚が生え、皮膚が塞がる。
そして、その再生した肉を黒いモヤが再び崩す。
崩壊と再生。
破壊と復元。
その矛盾の中心で、アザトースは拳を握った。
「まだだァ!」
崩れかけの身体で、アザトースが突っ込む。
滝壺は息を呑む。
まだ動く。
まだ速い。
まだ、重い。
アザトースの拳を宵丸で受ける。
衝撃。
滝壺の足元が沈む。
「……しぶといな」
「不死身だからなァ!」
アザトースの左腕が崩れ落ちる。
だが、肩口から新しい腕が即座に生える。
その腕で、再び殴る。
滝壺は受ける。
弾く。
斬る。
また崩れる。
また生える。
まるで終わりがない。
滝壺は理解していた。
このままでは、倒し切れない。
紫電一閃で切り刻み、黒いモヤで崩壊させても、アザトースの再生は止まらない。止められる可能性があるとすれば、首を完全に断つこと。
だが、その首が最も硬い。
そして、アザトースはそれを理解している。
「首、欲しいんだろ?」
アザトースが嗤う。
「来いよ。斬ってみろ」
「言われなくても」
滝壺が宵丸を構える。
黒いモヤが再び刀身へ集まる。
息を吸う。
足を沈める。
斬るべき場所は一点。
首。
アザトースもまた、拳を構えた。
手のひらからオドの気が放出される。
黒い蒸気でも、炎でもない。
ただ、力の輪郭が空気を押し広げるように、拳の周囲を歪ませていた。
「来い、女剣士」
「随分と暴れてくれているな」
滝壺の声は冷たい。
「ここから先は、私が相手をする」
「もう相手してんだろうが!」
アザトースが笑う。
そして、二人が同時に踏み込んだ。
拳と刃が交差する。
滝壺の宵丸がアザトースの首筋へ食い込む。
同時に、アザトースの拳が滝壺の肩へ突き刺さる。
血が散る。
骨が軋む。
黒いモヤが首筋から溢れ、アザトースの肉体を崩そうとする。
だが、首は落ちない。
刃が止まる。
硬い。
あと少し。
あと、ほんの少し。
「足りねぇなァ!」
アザトースの蹴りが滝壺の腹へ入る。
滝壺の身体が後方へ吹き飛び、地面を転がる。
宵丸が地面を削り、火花を散らして止まった。
滝壺は片膝をつく。
肩から血が落ちる。
呼吸が荒い。
しかし、目は死んでいない。
アザトースもまた、首筋を押さえていた。
そこには深い傷がある。
黒いモヤが傷口にまとわりつき、肉を崩している。
だが、崩れた端から再生している。
「惜しかったな」
アザトースが牙を見せる。
「次は届かせる」
滝壺は立ち上がる。
宵丸を構える。
黒いモヤが再び刀身から溢れる。
その姿を見て、アザトースは嬉しそうに笑った。
「いいぜ。もっとだ。もっと斬れ。もっと俺を楽しませろ」
「楽しませるつもりはない」
滝壺は静かに息を吐いた。
「終わらせる」
夜の校庭に、黒いモヤが広がる。
崩壊と再生を繰り返す不死身の怪物。
そして、それを斬り伏せようとする黒刀の女剣士。
戦いはまだ、終わらない。




