第三章 3『黒刀、参戦』
照夜の身体が、教室の床を削って転がった。
机が跳ね、椅子が砕け、割れた窓ガラスが雨のように散る。肺の奥から空気が抜け、喉の奥に血の味が広がった。
「ぐ、っ……!」
立て。
そう思うより先に、身体が動かなかった。
月詠で作った影の鎧は砕かれ、天照の光剣も解除されている。指先から伸びる影の触手も、今は力なく床へ溶けていた。
それでも、照夜は顔を上げる。
教室の奥。まだ逃げ遅れた生徒が一人、机の陰で震えていた。
アザトースはそれを見た。
「へぇ。まだ残ってんじゃねぇか」
「……やめろ」
「あ?」
「そっちに、行くな……!」
照夜は影を伸ばそうとする。
だが、アザトースの足が先に動いた。
その瞬間――。
廊下側の壁が、斜めに裂けた。
音は遅れて来た。
鋭い風切り音。
続いて、壁の破片が崩れ落ちる。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
黒刀を手にした、クールな女剣士。
神威滝壺。
彼女は割れた壁の向こうから静かに踏み込み、倒れた照夜と、牙を剥いて笑うアザトースを順に見た。
「随分と暴れてくれているな」
低く、冷えた声だった。
怒りを荒げているわけではない。
だが、その一言だけで教室の空気が変わる。
アザトースが振り返る。
「なんだァ、お前」
滝壺は黒刀――宵丸の切っ先を下げたまま、ゆっくりと歩く。
「私が相手をする」
「ハッ」
アザトースの口角が吊り上がった。
紅色の髪が揺れ、紺色の白目の中で、紅い瞳孔が猫のように細くなる。その瞳孔は、まるで小さな口のように開閉していた。
「いいねぇ。次から次へと獲物が来やがる」
「照夜。避難を」
「……滝壺、こいつは……」
「分かっている」
滝壺は視線を外さない。
「あれは普通の敵ではない」
アザトースが床を蹴った。
距離が消える。
瞬きの間に、拳が滝壺の顔面へ迫る。
滝壺は半歩だけ身を引いた。
宵丸が跳ねる。
拳と刀身が触れた瞬間、金属同士を打ち合わせたような音が鳴った。
「硬いな」
「お前の刀が鈍いんじゃねぇのか?」
アザトースの拳から黒いオドの気が放出される。
身体から溢れる黒炎ではない。
手の周囲だけに黒い気の輪郭が生まれ、拳の軌道を歪ませるように圧を増している。
滝壺は押し負ける前に刀を流した。
拳の力を横へ逃がし、返す刃でアザトースの脇腹を斬る。
浅い。
皮膚が硬すぎる。
だが、刃は確かに肉を裂いた。
「お?」
血が散る。
しかし次の瞬間、その傷口が蠢いた。
肉が盛り上がり、裂けた皮膚が閉じていく。
再生。
照夜が苦しげに言った。
「滝壺……そいつ、再生する……。しかも、皮膚が硬い……!」
「なるほど」
滝壺は短く答える。
「なら、再生が追いつかないほど斬る」
「ハハッ! 言うじゃねぇか!」
アザトースが笑い、再び踏み込む。
拳。
蹴り。
肘。
膝。
獣のような荒々しさと、戦闘狂の勘だけで組み立てられた連撃。
滝壺は宵丸で受け、流し、躱す。
だが一撃一撃が重い。
受けるたびに床が割れ、壁が震える。
滝壺の足裏が床を削った。
「いい反応だなァ!」
「黙っていろ」
滝壺の瞳が、わずかに緑へ光る。
宵丸を握る指に力が入る。
黒刀の奥で、獣の気配が目を覚ます。
次の瞬間、滝壺の姿がぶれた。
アザトースの右腕に、三本の斬線が走る。
続けて胸、肩、首筋。
連続斬撃。
硬い皮膚を削り、同じ箇所へ刃を重ねて、強引に切り開いていく。
「ぐ、っ……!」
アザトースの顔が歪む。
だが、それは苦痛ではない。
歓喜だった。
「いい、いいなァ! そうだよ、それだよ!」
裂けた腕が再生する。
肩の傷が塞がる。
首筋から噴き出した血が止まる。
だが滝壺は止まらない。
再生する端から斬る。
塞がる前に抉る。
治る前に刻む。
黒刀が舞い、教室の中に無数の斬撃音が響いた。
アザトースの身体が、初めて後退する。
「このッ!」
黒いオドの気を纏った拳が振り下ろされる。
滝壺は真正面から受けない。
床を蹴り、机の上を走り、天井近くまで跳ぶ。
アザトースの拳が床に沈み、教室そのものが爆ぜた。
その上空。
滝壺が宵丸を両手で構える。
「雷の型――」
空気が張り詰める。
呼吸が変わる。
細く、深く、終わらない呼吸。
無限呼吸法。
「紫電一閃」
黒刀が閃いた。
斬撃は雷のように落ち、アザトースの肩から胸へ走る。
深い。
今度は浅くない。
硬い皮膚を裂き、筋肉を断ち、骨の手前まで刃が届いた。
「が、はッ!」
アザトースが血を吐く。
しかし――。
傷口が膨れた。
再生が始まる。
裂けた肉が泡立つように盛り上がり、断たれた筋繊維が繋がっていく。
滝壺は着地と同時に眉をわずかに動かした。
「再生速度も異常か」
「だから言ったろ」
アザトースが血まみれの顔で笑う。
「俺は死なねぇんだよ」
その言葉と同時に、彼の拳が滝壺の腹へ迫る。
滝壺は刀を間に差し込む。
だが、衝撃を殺し切れない。
身体が後ろへ飛び、廊下の壁を突き破った。
「滝壺!」
照夜が叫ぶ。
アザトースは追う。
だが廊下に踏み込んだ瞬間、横から黒い刃が走った。
滝壺は倒れていない。
壁に叩きつけられながらも、体勢を崩したふりで待っていた。
斬撃がアザトースの太腿を深く裂く。
「チッ!」
アザトースの膝が落ちる。
滝壺はそこへ踏み込み、首を狙う。
宵丸が横一文字に走る。
だが、刃は途中で止まった。
アザトースが素手で刀身を掴んでいた。
掌から血が流れる。
それでも、握力で刃を止めている。
「捕まえたぜ」
アザトースが笑った。
滝壺は表情を変えない。
「それはこちらの台詞だ」
宵丸の刀身に、黒い気配が濃くなる。
刀を握るアザトースの掌から、肉が裂け始めた。
「……あ?」
滝壺は一歩踏み込む。
「宵丸は、ただの刀ではない」
力任せに引いた。
アザトースの掌が裂け、指の肉が飛ぶ。
その隙に滝壺は身体を回転させ、脇腹へ斬撃を叩き込む。
一撃。
二撃。
三撃。
斬る。
刻む。
削る。
再生する肉を、さらに上から切り裂く。
アザトースの身体が廊下の壁へ叩きつけられる。
だが、倒れない。
「ハハ……ハハハハッ!」
笑う。
血まみれで。
切り刻まれながら。
再生しながら。
アザトースは心底楽しそうに笑っていた。
「やっぱ最高だなァ、戦いってのは!」
両手から黒いオドの気が膨れ上がる。
出力が上がる。
拳の周囲の空気が歪む。
滝壺はそれを見て、刀を構え直した。
距離を取るべきか。
受けるべきか。
一瞬の判断。
その一瞬で、アザトースは突っ込んだ。
「吹っ飛べ!」
拳が来る。
滝壺は宵丸を縦に構え、受ける。
衝突。
廊下の床が波打つように砕けた。
滝壺の身体が後退する。
足元が削れる。
だが、倒れない。
「……重いな」
「まだまだァ!」
連撃。
黒いオドの気を纏った拳が、次々と叩き込まれる。
滝壺は防ぐ。
逸らす。
だが全ては受け切れない。
一発が肩を掠める。
制服が裂け、血が飛ぶ。
二発目が脇腹を打つ。
骨が軋む。
それでも滝壺は下がらない。
「照夜」
短く呼ぶ。
「生徒は?」
「……もう、ほとんど避難した」
「ならいい」
滝壺は息を吸う。
深く。
さらに深く。
呼吸が途切れない。
宵丸の切っ先が、静かに上がる。
「ここからは、遠慮なく斬る」
アザトースの紅い瞳が細まる。
「いいねぇ」
牙を剥く。
「来いよ、女ァ」
滝壺が踏み込む。
アザトースも踏み込む。
刀と拳が激突した。
廊下の窓が一斉に割れ、校舎全体が震える。
その中心で、二人は止まらない。
滝壺の刃がアザトースの皮膚を裂く。
アザトースの拳が滝壺の防御を砕く。
裂かれた肉は再生し、砕かれた姿勢は立て直される。
どちらも退かない。
どちらも譲らない。
黒刀と不死身の魔王。
その激突は、始まったばかりだった。




