第三章 2『不死身の魔王』
校庭の地面が割れていた。
亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、校舎の壁面には巨大な爪で抉られたような跡が刻まれている。避難する生徒たちの悲鳴が遠ざかる中、そこに残されたのは二人だけだった。
暁照夜。
そして、クトゥルフ陣営――アザトース。
「ハハッ、いいねぇ。逃げる連中の声ってのは、戦場っぽくて嫌いじゃねぇ」
「……黙れ」
照夜の足元から影が広がる。
黒い沼のように床を染めた影は、次の瞬間、無数の棘となって跳ね上がった。
狙いはアザトースの胴体、首、腕、脚。
全方位から串刺しにする軌道。
だが。
「遅ぇ」
アザトースの両手から黒いオドの気が放出される。
身体から噴き出す炎や蒸気ではない。手の周囲だけに黒い輪郭のような気が揺らぎ、空気を押し潰すように膨れ上がる。
拳が振るわれた。
影の棘がまとめて砕け散る。
「ッ……!」
照夜は即座に指を伸ばす。
五指の先から影の糸が走った。細く、鋭く、しなやかな黒い触手。それらはアザトースの四肢へ巻きつき、関節の動きを封じにかかる。
「捕まえた」
「捕まった?」
アザトースが笑う。
「違ぇよ。触らせてやったんだ」
直後、糸が引き千切られた。
力任せ。
技術も駆け引きもない。ただ純粋な膂力で、影の拘束を破壊したのだ。
照夜の頬に冷や汗が伝う。
硬い。
速い。
重い。
そして何より――死なない。
先ほど影槍で裂いた腹部も、すでに塞がっている。皮膚そのものが異常に硬く、深く斬ることすら難しい。たとえ傷を与えても、肉が蠢き、血が戻り、何事もなかったように再生する。
「不老不死……再生能力持ちか」
「正解だ」
アザトースが牙を見せる。
「だからもっと派手に来いよ。じゃねぇと、退屈で眠くなっちまう」
言葉が終わるより早く、アザトースが踏み込んだ。
地面が爆ぜる。
照夜は影の中へ半身を沈め、攻撃を逸らす。だが拳圧だけで影の表面が歪み、身体が引きずり出されかけた。
「ぐッ……!」
「逃げんなよ!」
アザトースの膝蹴り。
照夜は影の鎧を全身に纏う。
黒い装甲が胸部に形成された瞬間、膝が叩き込まれた。
衝撃。
影の鎧が砕け、照夜の身体が校舎の壁へ叩きつけられる。
「が、は……!」
肺の空気が抜ける。
だが、倒れている暇はない。
アザトースが追撃してくる。
照夜は掌を開いた。
影ではない。
今度は光。
天照。
掌から光のエネルギーが生まれ、握り込む力と出力に応じて剣の形へ変わる。照夜が強く握ると、光の剣は一瞬で巨大化した。
「おお?」
アザトースが笑う。
照夜は光剣を横薙ぎに振るった。
眩い斬撃が校庭を裂き、アザトースの胴体へ直撃する。
肉が焼ける。
皮膚が裂ける。
初めて、深く入った。
「――ッは!」
しかし、アザトースは笑っていた。
斬られた胴体から血が噴き出し、肋骨の一部が見えるほどに傷口が開く。だが、その肉がすぐに蠢き始める。
じゅるり、と音がした。
筋肉が繋がる。
血管が絡み合う。
皮膚が盛り上がる。
傷が塞がる。
「いいじゃねぇか」
アザトースが一歩踏み出す。
「今のは、ちょっと効いたぜ」
「……化け物め」
「褒め言葉だなァ!」
拳が来る。
照夜は天照を解除し、月詠へ切り替える。
同時には使えない。
光と影は、彼の中で同居していても、同時に表へ出すことはできない。切り替えの一瞬。その隙を、アザトースは見逃さなかった。
「そこだ」
拳が腹へ入る。
「――ッ!」
照夜の身体がくの字に折れ、校庭を転がる。
だが、地面に触れた瞬間、照夜の身体は影の中へ沈んだ。
次の瞬間。
アザトースの背後に照夜が現れる。
自身の身体を影のワープへ通し、行き先を指定した移動。
影の床同士を繋げるのではない。影の棘同士を繋げるのでもない。照夜自身が影の中を通過し、指定した場所へ抜ける技術だった。
「背後か!」
アザトースが振り向くより早く、照夜の指先から影の斬撃が飛ぶ。
五本。
十本。
無数。
黒い線がアザトースの背中を切り刻む。
皮膚は硬い。
だが同じ場所へ連続で叩き込めば、さすがに裂ける。
背中が割れ、血が噴き出した。
「まだだ!」
照夜はさらに影の触手を伸ばし、アザトースの首と腕を絡め取る。
そのまま地面へ叩きつけた。
轟音。
校庭が陥没する。
照夜は影の棘を真上から降らせた。
一本、二本、三本。
アザトースの身体へ突き刺さる。
だが深くはない。
硬い皮膚に阻まれ、骨までは届かない。
「硬すぎる……!」
その瞬間、アザトースの手が影の棘を掴んだ。
握り潰す。
「惜しいなァ」
アザトースが瓦礫の中から起き上がる。
全身に傷。
血まみれ。
だが、その傷はすでに塞がり始めていた。
「もっと殺す気で来いよ。俺はこの程度じゃ死なねぇ」
照夜は息を整える。
避難は進んでいる。
教師たちは生徒を校門側へ誘導している。泣きながら振り返る生徒もいるが、照夜はそちらを見ない。
見れば、迷う。
迷えば、死ぬ。
「……ここで止める」
「あ?」
「お前を、ここから先には行かせない」
アザトースの紅い瞳が細まる。
縦長の瞳孔が、口のように開いた。
「いい顔すんじゃねぇか」
彼は両手を広げた。
黒いオドの気が、左右の掌に集中する。
空気が重くなる。
地面の小石が震える。
「なら止めてみろよ」
次の瞬間、アザトースが突進した。
照夜も影の鎧を再形成する。
真正面から受ける。
避けない。
守るべきものが背後にあるからだ。
拳と影の鎧が衝突する。
鎧が砕ける。
だが照夜は下がらない。
砕けた影を即座に指先へ集め、触手として伸ばす。アザトースの腕へ絡め、拳の軌道をずらす。
同時に、反対の手で天照へ切り替える。
掌に光が集まる。
握る。
剣が生まれる。
普通の大きさの光剣。
照夜はアザトースの脇腹へ突き込んだ。
「――入った」
光の刃が皮膚を貫く。
だが、浅い。
アザトースはそれを見下ろし、笑った。
「残念」
頭突き。
照夜の額に衝撃が走る。
視界が白く弾けた。
次に感じたのは、背中が地面を削る感覚だった。
「ぐ、あ……!」
照夜は倒れかける。
だが、膝をつく寸前で踏み止まる。
アザトースは光剣の刺さった脇腹を掴み、無理やり引き抜いた。
血が流れる。
しかし傷口は閉じていく。
「面白ぇ。お前、ちゃんと強ぇよ」
「……嬉しくないな」
「でもまだ足りねぇ」
アザトースの姿が消えた。
照夜の反応より速い。
側面。
蹴り。
照夜は影へ逃げようとする。
だが間に合わない。
直撃。
身体が宙を舞い、校舎の外壁へ叩きつけられる。
壁が砕け、教室の中へ転がり込んだ。
机が壊れ、椅子が跳ねる。
無人の教室。
さっきまで日常だった場所。
その中心で、照夜は血を吐いた。
「……まだ、だ」
指が動く。
影が蠢く。
立ち上がろうとする。
そこへ、天井を破壊してアザトースが降りてきた。
「まだ立つか」
「当然だ」
照夜は顔を上げる。
「ここで倒れたら、誰が止める」
アザトースの笑みが深くなる。
「いいねぇ」
彼は拳を鳴らした。
「そういう奴をぶっ壊すのが、一番楽しい」
教室の空気が凍る。
照夜の影が広がる。
アザトースの両手に黒いオドの気が集まる。
次の一撃で、教室ごと吹き飛ぶ。
それが分かっていても、照夜は退かなかった。
退けなかった。
背後には、まだ逃げ切れていない生徒がいる。
だから。
「月詠――」
照夜の指先から、影の触手が無数に伸びた。
捕縛ではない。
斬撃でもない。
盾。
壁。
全てを受け止めるための影。
アザトースが踏み込む。
拳が振り抜かれる。
黒い気を纏った一撃が、影の壁へ激突した。
轟音。
校舎が揺れる。
影が砕ける。
だが、完全には破れない。
照夜は奥歯を噛み締めた。
「止まれ……!」
腕が軋む。
指先が裂ける。
影が悲鳴を上げる。
それでも、照夜は力を緩めなかった。
そして。
拳の勢いが、わずかに止まった。
「……へぇ」
アザトースが笑った。
「やるじゃねぇか」
だが次の瞬間、もう片方の拳が照夜の腹へ叩き込まれた。
「――か、は……!」
影が消える。
照夜の身体が崩れる。
アザトースはその胸ぐらを掴み、軽々と持ち上げた。
「頑張ったな」
牙を剥いて笑う。
「でも終わりだ」
その時。
遠くから、甲高い金属音が響いた。
廊下の奥。
階段の方。
誰かが、こちらへ向かっている。
アザトースの瞳孔が細く開く。
「……ん?」
照夜も、かすむ視界でそちらを見た。
まだ誰かは見えない。
だが。
空気が変わった。
戦場に、新しい気配が近づいてくる。
アザトースは照夜を放り捨て、嬉しそうに笑った。
「ハハッ」
両手の黒いオドの気が、さらに濃くなる。
「次の獲物か?」
照夜は床に倒れながら、荒い息を吐く。
終わっていない。
まだ、終わっていない。
王都を揺るがす戦いは、さらに激しさを増そうとしていた。




