第三章 1『墜ちてきた災厄』
五月の陽射しが教室の床を白く照らしていた。
昼前。
気怠げな空気が漂う教室では、教師の板書を写す音だけが静かに響いている。
「――つまり、近代国家の成立には――」
淡々と続く授業。
窓際では女子生徒が小声で笑い、後方では男子生徒が眠そうに欠伸を噛み殺していた。
どこにでもある高校の日常。
だが、その中で一人だけ。
「…………」
最後列の席に座る暁照夜だけは、静かに目を細めていた。
胸騒ぎがする。
いや、違う。
これは“予感”ではない。
修行によって、照夜の肉体は既に常人の領域を超えていた。光と影を糸のように体内へ巡らせ、細胞の分子単位まで浸透させた結果、彼の感覚器官は異常なまでに研ぎ澄まされている。
空気の震え。
視線。
気配。
殺意。
それらが微細な波となって神経を撫でていく。
そして今、その全てが警鐘を鳴らしていた。
「……来る」
照夜が小さく呟いた瞬間だった。
――轟音。
校舎全体が揺れた。
「きゃあああああッ!!?」
天井が爆ぜる。
コンクリートが崩壊し、鉄骨がねじ曲がりながら教室へ降り注いだ。
机が吹き飛ぶ。
窓ガラスが一斉に砕け散る。
悲鳴が教室中へ連鎖した。
そして。
崩落した天井の中央。
粉塵の中から、“それ”が立ち上がる。
「――ァ」
低い声。
紅色の髪。
少し白い、人間に近い肌。
紺色の白目の中で、紅い瞳が細長く裂けていた。
その瞳孔は、猫のように縦へ細く伸び、まるで口のように開閉している。
口元には吸血鬼のような太く鋭い犬歯。
だが、最も異質なのは。
その存在そのものが放つ“圧”だった。
まるで教室へ災害そのものが降ってきたかのような錯覚。
生徒たちの呼吸が止まる。
アザトースはゆっくりと周囲を見渡し、口角を吊り上げた。
「……ハハ」
笑う。
まるで玩具箱を見つけた子供のように。
「学校ってのは退屈そうな場所だなァ」
次の瞬間。
アザトースの拳が振り抜かれた。
その両手から、黒いオドの気が噴き出す。
炎ではない。
煙でもない。
“気”の輪郭だけが黒く揺らぎ、周囲の空気を歪ませていた。
轟音。
教室半分が吹き飛ぶ。
「伏せろッ!!」
照夜の影が床を這う。
黒い影が生徒たちを包み込み、瓦礫の直撃を逸らした。
それでも衝撃だけで数人が吹き飛ばされる。
教師が腰を抜かし、生徒たちは泣き叫んでいた。
「先生!」
照夜が叫ぶ。
「生徒を連れて逃げろ! 屋外へ避難しろ!!」
「え、あ……!」
「早く!!」
怒鳴り声で教師が我に返る。
「全員避難だ!! 走れ!!」
生徒たちが一斉に動き出した。
泣きながら。
叫びながら。
押し合うように教室を飛び出していく。
その背中を確認しながら、照夜はアザトースを睨んだ。
「クトゥルフ陣営……」
「おう」
アザトースが笑う。
「覚えてくれてて嬉しいぜ、暁照夜」
空気が震えた。
瞬間。
アザトースの姿が掻き消える。
「――ッ!」
照夜は反射的に後方へ飛ぶ。
直後。
さっきまでいた場所が爆砕した。
床がめくれ上がり、鉄筋が剥き出しになる。
「避けるかァ!」
アザトースが吠える。
速い。
重い。
そして何より。
戦いを心底楽しんでいる。
照夜の影槍が放たれる。
黒い槍がアザトースの胴へ突き刺さった。
だが。
「浅ぇな」
硬い。
まるで鋼鉄だ。
槍は皮膚を貫ききれず、浅く肉を裂くだけに終わる。
それでも血は出た。
だが次の瞬間。
裂けた傷口が蠢く。
筋肉が動き、肉が寄り、裂傷が閉じていく。
「再生……!」
照夜の顔が歪む。
アザトースが笑った。
「そういうことだ」
拳。
照夜は影へ沈む。
だがアザトースの蹴りが校舎そのものを抉り取った。
廊下が崩落する。
天井が落ちる。
校舎全体が悲鳴を上げるように軋んだ。
「ハハハハッ!!」
アザトースは笑う。
「楽しいなァ!!」
照夜が影から飛び出す。
影の刃。
蹴り。
影触手。
連撃。
だが。
アザトースは止まらない。
斬っても浅い。
通しても再生する。
しかも皮膚自体が異常なまでに硬く、決定打にならない。
「チィ……!」
照夜が距離を取る。
アザトースは血を拭いながら笑った。
「いいぜ。ちゃんと強ぇ」
黒いオドの気が、彼の両手から吹き出している。
空気が歪む。
床が軋む。
その出力だけで周囲の景色が震えていた。
「だがまだ足りねぇなァ!!」
踏み込み。
爆音。
照夜が両腕で防御する。
だが衝撃で吹き飛ばされた。
壁へ叩きつけられ、校舎外へ転がり落ちる。
「ぐッ……!」
肺が軋む。
骨が悲鳴を上げる。
だが照夜は立ち上がった。
校庭には避難する生徒たち。
泣き叫ぶ教師。
パニック。
その中心で、校舎を突き破りながらアザトースが降り立つ。
ズン――!!
地面が陥没した。
「逃げろォ!!」
照夜が怒鳴る。
影が広がり、生徒たちを遠ざける。
アザトースはその様子を見て、牙を剥いた。
「守りながら戦うか」
獰猛に笑う。
「いいじゃねぇか。そういうハンデがある方が面白ぇ」
次の瞬間。
アザトースが地面を蹴った。
爆発。
一直線に照夜へ突っ込む。
照夜も影を纏い迎撃する。
二つの力が激突した。
轟音が響き渡る。
校舎の窓ガラスが一斉に砕け散った。
そして。
魔王襲来、その戦いは。
ここから始まる。




