第二章 21『万物を斬るために』
修行場に、刃の気配が満ちていた。
山奥に作られた広い土の広場。周囲には斬り倒された木々が無造作に積まれ、岩肌には古い斬撃の跡がいくつも刻まれている。そこがただの稽古場ではなく、何人もの剣士が己の限界を試し、砕かれ、また立ち上がってきた場所なのだと、罪道斬刹は一目で理解した。
正面に立つ男――不動明王は、静かに斬刹を見ていた。
不動明王は、想像していたような筋骨隆々の巨漢ではない。むしろ立ち姿は落ち着いていて、無駄な力みがない。だが、その静けさがかえって恐ろしかった。
強さを見せつける必要がない。
そういう者だけが持つ、静かな圧。
「罪道斬刹さん。準備はよろしいですか」
不動明王は丁寧に言った。
「……お願いします」
斬刹は二本の刀に手をかける。
万物斬をさらに研ぎ澄ませること。二刀流を完成させること。それが、この修行の目的だった。
アーノルドとの戦いで思い知らされた。今のままでは届かない。守りたいものを守るには、今の刃では浅い。
だから、ここに来た。
自分の剣を、もう一段深くするために。
「では、こちらも相応に参ります」
不動明王が、右手をゆっくりと下げる。
その手に、刀が現れた。
握ったのではない。抜いたのでもない。
黒く、重く、禍々しい気配をまとった刀身が、虚空から形を得るように顕現した。
暴食の魔王。
その力によって生まれた刀身の刀。
見ただけで、斬刹の喉が乾いた。
ただの刀ではない。斬るためだけの刃でもない。触れたものを削り、喰らい、存在ごと奪い取るような、異質な重さがそこにあった。
「右手のこれは、私の主武装です。受け止める場合は、覚悟してください」
穏やかな声とは裏腹に、言葉の内容はあまりに物騒だった。
さらに、不動明王は背中へ手を伸ばす。
そこに掛けられていたのは、鍔のない一本の刀だった。飾り気のない、無骨な刀。だが、抜かれた瞬間、その刀身が鈍い鉄色に光る。
「こちらは鍔なしの刀です。ですが、ただの刀ではありません」
次の瞬間、不動明王の背中側から、肉が裂けるような音もなく、脇の下へ向かって二本の腕が生えた。
斬刹の目が見開かれる。
プラナリアの能力。
体を増やし、再生し、形を変える力。
生えた二本の腕の掌が開かれると、そこに鍔のない刀が形作られていく。鋼鉄化した肉体が刀身となり、先ほど背中から抜いた刀と同じ形を成す。
掌から刀が出るだけではない。
生まれた刀を、腕がしっかりと握った。
結果、不動明王の手には四本の刀があった。
右手には、暴食の魔王の刀身。
左手には、背中から抜いた鍔なし刀。
そして脇から生えた二本の腕には、プラナリア能力でコピーされ、鋼鉄化によって生まれた同型の鍔なし刀。
四刀。
斬刹の二刀とは、単純に倍の手数。
だが問題は数ではない。
それぞれの刀が、違う意味を持っていることだった。
「始めましょう」
不動明王が言った。
次の瞬間、斬刹の眼前に黒い刃が迫っていた。
「っ――!」
斬刹は反射的に二本の刀を抜き、交差させて受ける。
重い。
暴食の魔王の刀身が、斬刹の刀ごと腕を押し潰そうとする。受け止めた刃の表面が嫌な音を立て、まるで刀そのものが削られているような感覚が走った。
まともに受け続ければ、刀が負ける。
そう判断した瞬間、左から鍔なし刀が走る。
斬刹は身を捻って避ける。だが、避けた先へ脇の腕が握る鋼鉄化の刀が突き込まれた。
さらに反対側から、もう一本。
「くそっ……!」
受ける。流す。避ける。
だが、追いつかない。
不動明王は丁寧な口調とは違い、攻撃に一切の甘さがなかった。右手の黒い刀で圧をかけ、左手の鍔なし刀で隙を切り開き、脇の二本の腕で逃げ道を塞ぐ。
四本の刀が、まるで一つの生き物のように動いていた。
「良い反応です」
不動明王が言う。
「ですが、反応しているだけでは勝てません」
その言葉と同時に、右手の暴食の刃が振り下ろされる。
斬刹は受けずに横へ跳ぶ。
直後、地面が裂けた。
斬撃が当たった場所の土が抉れ、そこにあった石が粉々に砕ける。いや、砕けたというより、削り取られたようだった。
喰われた。
そう思った。
あれをまともに受ければ、刀だけでは済まない。
腕ごと持っていかれる。
「どうしましたか」
不動明王は静かに歩み寄る。
「距離を取る判断は正しいです。ですが、あなたはここへ逃げるために来たのですか」
「……違う」
斬刹は息を整えながら答えた。
「斬るために来ました」
「では、斬りに来なさい」
不動明王の四本の刃が、ゆっくりと構え直される。
斬刹は奥歯を噛んだ。
強い。
わかっていたつもりだった。だが、実際に向き合うと、その差はあまりに大きい。
同じ剣士だと思っていた。似た戦い方なら、自分にも何か掴めると思っていた。
だが違う。
不動明王の四刀は、ただの二刀流の延長ではない。
体を増やし、刀を増やし、能力そのものを剣術に組み込んでいる。右手の暴食の魔王の刃は破壊力と制圧力。左手の鍔なし刀は正確な斬撃。脇の二本は死角潰しと追撃。
全てが噛み合っている。
自分の二刀とは、完成度が違う。
「あなたの剣には、まだ迷いがあります」
不動明王が言った。
「迷い……」
「はい。守るために斬る。その覚悟はあります。ですが、斬る瞬間にまだ恐れが残っている」
四本の刀が、同時に迫る。
斬刹は二刀で迎え撃つ。
右手で暴食の刃を逸らし、左手で鍔なし刀を弾く。脇の刀をかわそうとした瞬間、もう一本が腹を狙っていた。
避けきれない。
斬撃が脇腹を浅く裂く。
「ぐっ……!」
血が飛ぶ。
膝が揺れる。
だが、不動明王は止まらない。
「斬るとは、奪うことです。守るためであっても、救うためであっても、刃を振るう以上、何かを断つことになる」
斬刹は後退する。
だが、下がった分だけ追い詰められる。
「万物斬は、硬いものを斬るだけの技ではありません。迷い、恐れ、限界、執着。そのすべてを斬る覚悟がなければ、本当の意味では届かない」
「……わかってる」
「いいえ。まだ、わかっていません」
不動明王の右手が動く。
暴食の魔王の刀身が、空気ごと斬り潰すように振るわれる。
斬刹は二本の刀を重ねて受けた。
瞬間、全身に衝撃が走る。
腕が痺れる。骨が軋む。足元の土が沈む。
刃と刃が触れ合う部分から、嫌な感触が伝わってくる。
喰われる。
刀が削られる。
押し返さなければ、斬られる。
「っ、ああああああッ!」
斬刹は力任せに刀を弾いた。
だが、その動きは読まれていた。
左の鍔なし刀が首筋を狙う。
脇の一本が膝を狙う。
もう一本が、刀を持つ手首を狙う。
完璧な詰み。
斬刹の視界が、刃で埋まる。
その瞬間、彼の中で何かが冷えた。
恐怖ではない。
諦めでもない。
余計なものが、全部落ちた。
守りたい。
勝ちたい。
死にたくない。
負けたくない。
そのすべてを抱えたまま、それでも刃を振るうには、足りないものがあった。
殺意。
ただ相手を殺したいという浅い衝動ではない。
目の前の障害を断ち切るという、純粋な意志。
守るために、斬る。
進むために、斬る。
そのためなら、自分の迷いすら斬る。
「――万物斬」
斬刹の声が低く落ちた。
二本の刀が、同時に走る。
片方は防御ではない。
片方は攻撃ではない。
二本ともが、斬るための刃になった。
「双牙」
刃が交差する。
不動明王の脇から伸びた二本の腕、その握る鋼鉄化の刀が斬り飛ばされた。
完全に破壊したわけではない。だが、軌道を断った。
続く左手の鍔なし刀を、斬刹は右の刀で絡めるように弾く。
そして最後に迫る暴食の魔王の刀身へ、左の刀を合わせる。
受けるのではない。
斬る。
刃と刃がぶつかる。
甲高い音ではなく、重く、鈍い音が響いた。
斬刹の刀が欠ける。
だが、暴食の魔王の刀身の軌道もわずかに逸れた。
その一瞬。
斬刹は踏み込んだ。
右の刀が、不動明王の喉元へ届く。
寸前で止まる。
呼吸の音だけが残った。
斬刹の肩から血が落ちる。脇腹も裂けている。腕も痺れ、刀も欠けた。
だが、刃は届いていた。
不動明王は、静かに斬刹を見つめた。
そして、ゆっくりと微笑む。
「……見事です」
丁寧な声だった。
「今の一太刀には、迷いがありませんでした」
斬刹は息を荒げながら刀を下ろす。
「でも……まだ、浅いです」
「ええ。浅いです」
不動明王はあっさりと言った。
斬刹は顔を上げる。
すると不動明王は、斬り飛ばされた脇の腕を静かに見た。腕は地面に落ちたまま、鋼鉄化した刀ごと形を崩していく。
そして次の瞬間、不動明王の脇から再び新しい腕が生えた。
掌が開き、鋼鉄化した鍔なし刀が生まれ、手がそれを握る。
何事もなかったように、四刀が戻る。
「これが私の戦い方です。刀を失っても、腕を失っても、また作ればいい。ですが、あなたは違う」
不動明王は静かに言う。
「あなたは失えない。だからこそ、一太刀の重みを知っている」
斬刹は黙って聞いていた。
「それは弱さではありません。あなたの剣の根です。ただし、その根に迷いが絡めば刃は鈍ります。守りたいなら、斬りなさい。斬ることを恐れないことです」
斬刹は二本の刀を握り直した。
手の中の重みが、先ほどまでと違う。
二本の刀を別々に扱うのではない。
二つの刃で、一つの意志を通す。
それが、二刀流。
それが、自分の進むべき形。
「もう一度、お願いします」
斬刹が言う。
不動明王は少しだけ目を細めた。
「傷が浅くありませんよ」
「この程度で止まるなら、ここに来てません」
その返答に、不動明王は穏やかに笑った。
「よろしい。では、続けましょう」
四本の刀が構えられる。
右手には暴食の魔王の刀身。
左手には背中から抜いた鍔なし刀。
脇から生えた二本の腕には、プラナリアと鋼鉄化でコピーされた同じ刀。
対する斬刹は、二本。
数では劣る。
能力でも劣る。
だが、斬刹の目はもう揺れていなかった。
防ぐのではない。
耐えるのでもない。
斬る。
そのために、前へ出る。
「次は、もっと深く届かせます」
「ええ。期待しています」
不動明王が丁寧に答えた直後、二人の姿が同時に動いた。
火花が散る。
黒い刃が唸る。
鍔なしの刀が空を裂く。
鋼鉄化した刃が死角から迫る。
それでも、斬刹は退かない。
血を流しながら、歯を食いしばりながら、二本の刀で四本の刃へ食らいつく。
まだ完成ではない。
まだ届ききってはいない。
だが、確かに一歩、刃は深くなった。
罪道斬刹の万物斬は、この日を境に、ただ硬いものを斬る技ではなくなっていく。
迷いを斬り、恐れを斬り、己の限界を斬る剣へ。
その修行は、まだ始まったばかりだった。




