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マンダラ  作者: メメメ
第二章『ノクスの影』

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第二章 19 『黒狼の試練』

 黒い靄が、山を呑んだ。


 夜でもないのに、視界が暗く沈む。

 空気が重い。呼吸をするたび、喉の奥に獣の息が入り込んでくるような錯覚があった。


 滝壺は宵丸を握ったまま、動けずにいた。


 否、動けないのではない。


 動けば、喰われる。


 本能がそう告げていた。


「……っ」


 足元の土が軋む。

 指先が痺れ、刀を握る手の感覚が薄れていく。


 黒刀から流れ込んでくる殺意は、もはや声ではなかった。

 波だ。

 濁流だ。

 押し返そうとすればするほど、全身の奥へ入り込み、滝壺という人間の形を内側から崩そうとしてくる。


 そのとき、背後で巨大な顎が開いた。


「――――」


 音はない。


 だが、滝壺には確かに聞こえた。


 喰うぞ、と。


 黒狼が言った気がした。


「……やってみなさいよ」


 滝壺は、震える唇で呟いた。


 怖くないわけではない。

 むしろ怖い。

 心臓はうるさいほど鳴っているし、膝は今にも折れそうだった。


 それでも――。


「私を喰うなら……」


 滝壺はゆっくりと振り向いた。


 そこにいたのは、山よりも巨大な黒狼。

 緑に燃える瞳で、滝壺を見下ろす怪物だった。


 その姿を真正面から見た瞬間、意識が引き裂かれた。


「がっ――!?」


 視界が反転する。


 山も、空も、八兵衛も消えた。


 気付けば、滝壺は真っ黒な水面の上に立っていた。


 果てのない闇。

 波紋だけが足元から広がっていく。


 そして、その闇の奥から、何十、何百もの黒狼が現れる。


「……ここが、宵丸の中……?」


 答えはない。


 代わりに、一匹の黒狼が地を蹴った。


 速い。


 反応するより先に、牙が喉元へ迫る。


「っ!」


 滝壺は宵丸を振るった。


 黒い刃が狼の顔面を裂く。

 しかし、斬ったはずの狼は霧のように崩れ、すぐ背後で形を取り戻した。


 同時に、別の三匹が左右から襲いかかる。


「くっ……!」


 避ける。

 斬る。

 弾く。

 また斬る。


 だが終わらない。


 黒狼は斬れば斬るほど数を増し、滝壺を取り囲んでいく。


 息が上がる。

 腕が重い。

 刀を振るたび、体の内側から何かが削られていく。


 そして、ようやく気付いた。


 これは戦いではない。


 試されているのだ。


 恐怖に呑まれるか。

 怒りに呑まれるか。

 それとも、その両方を抱えたまま立てるのか。


「……ふざけないで」


 滝壺は血の味がする唇を噛む。


「私は……奪われたから剣を握った」


 黒狼たちが低く唸る。


「でも、奪い返すためだけに剣士になったんじゃない」


 宵丸の刀身が、淡く震えた。


「もう二度と、誰かが私みたいにならないように――」


 滝壺の瞳に、緑の光が強く宿る。


「私は斬る」


 瞬間、黒狼が一斉に飛びかかった。


 逃げ場はない。


 ならば逃げない。


 滝壺は宵丸を下段に構え、息を吸った。


 肺の奥へ空気を落とす。

 身体の芯へ意識を沈める。


 無限呼吸。


 まだ完全ではない。

 けれど、今だけはそれで十分だった。


「――雷の型」


 足元の黒い水面が弾けた。


 滝壺の姿が消える。


 次の瞬間、黒狼の群れの中央を一本の斬線が貫いた。


「紫電――」


 黒い靄が刀の先端へ集まる。


 激しく、荒く、暴れるように。


「一閃!!」


 放たれた斬撃が、闇を裂いた。


 黒狼たちがまとめて吹き飛び、黒い水面が大きく割れる。


 だが、滝壺は膝をつかなかった。


 肩で息をしながらも、宵丸を構えたまま前を向く。


 その先に、巨大な黒狼がいた。


 他の狼とは違う。

 圧が違う。

 存在そのものが、宵丸の核なのだとわかった。


 黒狼は、滝壺をじっと見下ろす。


 そして――ゆっくりと頭を下げた。


「……認めた、ってこと?」


 滝壺が呟くと、黒狼の身体が霧となって崩れた。


 その霧は滝壺の周囲を舞い、やがて宵丸の刀身へ吸い込まれていく。


 次の瞬間、現実に戻った。


「――っ、はぁ!!」


 滝壺は大きく息を吐き、片膝をつく。


 目の前には、腕を組んだ八兵衛。


 老人は静かに滝壺を見つめていた。


「戻ったか」


「……なんとかね」


 滝壺は顔を上げる。


 その瞳は、淡い緑に光っていた。


 八兵衛は満足げに頷く。


「宵丸は貴様を認めた。これよりその刀は、貴様の相棒となる」


 滝壺は手の中の黒刀を見る。


 先ほどまで暴れていた殺意は、もうない。


 代わりに、静かな鼓動がある。


 自分とは別の命が、隣で息をしているような感覚。


「……相棒、か」


 滝壺は小さく笑った。


 その笑みを見て、八兵衛が木刀を拾い上げる。


「では、休む間もなく次だ」


「え?」


「相棒を得た程度で強くなった気でおるなら、ここでその慢心を斬ってやる」


 八兵衛の気配が変わる。


 白刃の力など使っていない。

 ただ木刀を持っただけ。


 それなのに、滝壺の全身が警鐘を鳴らした。


「……ほんと、化け物ね」


「褒め言葉として受け取っておこう」


 八兵衛が構える。


 滝壺も宵丸を構えた。


 黒き相棒を手にした少女剣士の、本当の修行は――ここから始まった。

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