第二章 16『宵丸』
黒狼の王の胸元を裂いた一閃――その軌跡をなぞるように、黒い粒子が空中へ舞い散る。
「――――ッ!!」
耳を劈く咆哮。
大気が震え、地面が軋む。
それは痛みによる絶叫ではない。
怒りでも、憎悪でもない。
もっと原始的で、もっと獰猛な――“歓喜”に近い咆哮だった。
黒狼の王の緑色の瞳が、爛々と輝いている。
まるで獲物を見つけた猛獣のように。
いや、それ以上に。
長い長い孤独の果て、ようやく牙を交えられる相手を見つけた存在のように。
「……っ、なによ……!」
滝壺は荒く息を吐く。
肩で呼吸をしながら、それでも刀は下げない。
むしろ、握れば握るほど《宵丸》の存在感が強くなる。
黒い刀身。
獣の唸り声にも似た微かな震え。
柄を通して流れ込んでくる、荒々しい衝動。
油断すれば呑まれる。
この刀は、持ち主を選ぶ。
否――試しているのだ。
握る資格があるかを。
「まだ……終わってない……!」
踏み込む。
滝壺の足元が爆ぜる。
地面を蹴った瞬間、彼女の身体が黒い残像を引いて加速した。
速い。
先ほどまでとは比べ物にならないほどに。
それは無限呼吸法による身体強化でも、単純な興奮によるものでもない。
《宵丸》が、滝壺の動きに応え始めている。
黒狼の王が迎え撃つように前脚を振るう。
暴風。
巨大な爪の一撃だけで空気が裂け、衝撃波が地面を抉る。
だが、
「見えてるッ!」
滝壺は低く身を屈め、その下を滑り抜けた。
鼻先を掠める黒爪。
頬が切れ、鮮血が舞う。
それでも止まらない。
懐へ潜り込んだ滝壺が、黒刀を逆袈裟に振り抜く。
黒い斬撃。
黒狼の王の肩口が裂け、闇のような血飛沫が噴き上がる。
しかし次の瞬間、
「――っ!?」
視界が反転した。
横薙ぎの尾撃。
まともに受けた滝壺の身体が吹き飛び、地面を何度も転がる。
肺の空気が強制的に吐き出される。
「が……はっ……!」
全身が痛む。
骨が軋む。
立ち上がるだけでも激痛が走る。
なのに。
滝壺は笑っていた。
「……は、っ」
口元を吊り上げる。
血を吐きながら、それでも瞳は死んでいない。
「最高じゃない……!」
立ち上がる。
刀を握る。
その瞬間、《宵丸》から黒いモヤが爆発的に噴き上がった。
滝壺の瞳が、わずかに緑色へ染まる。
黒狼の王が、初めて目を細めた。
認めるように。
試練を越えつつある者を見るように。
そして次の瞬間――。
黒狼の王の姿が、消えた。




