第二章 15『黒き相棒』
刀が、鳴いた。
鞘の内側で震える刃が、低く、獣の唸り声にも似た音を響かせる。
それは耳で聞く音ではない。柄へ触れた指先から直接、神経へ流れ込んでくるような異質な感覚だった。
鬼鼠谷邸――その地下に存在する古びた道場。
薄暗い空間の中央で、神威滝壺は一本の刀を前に正座していた。
黒い。
ただ、黒い。
鞘も、柄も、鍔までもが夜を削り出したような漆黒に染まり、光をまるで反射しない。
なのに、目を離せない。
いや、違う。
目を離した瞬間に背後から喉を裂かれる――そんな錯覚を抱かせるほど、その刀は異様な存在感を放っていた。
「それが『宵丸』だ」
道場の奥。
壁際に腰掛けていた鬼鼠谷八兵衛が、静かに口を開く。
マンダラ旧No.8。
滝壺が何百合と木刀を交えてなお、一度たりとも届かなかった剣士。
この数日。
滝壺は木刀のみで八兵衛と斬り合い続けていた。
千本勝負。
結果は、千敗。
一度たりとも勝てていない。
踏み込めば斬られ、受ければ崩され、避ければ先回りされる。
まるで未来を読まれているような剣。
そして何より腹立たしいのは、八兵衛が本気ですらないと理解できてしまうことだった。
「……納得いってない顔だな」
「そりゃそうでしょ」
滝壺は唇を尖らせる。
「一回も勝ててないんだから」
「当然だ。未熟なのだからな」
即答。
容赦の欠片もない。
だが、反論はできなかった。
「だが、筋は悪くない」
八兵衛はゆっくり立ち上がる。
「だから宵丸を預ける」
滝壺の視線が刀へ落ちる。
「……そんな危なそうな刀、簡単に渡していいわけ?」
「簡単ではない」
八兵衛の声色がわずかに沈む。
「その刀は持ち主を選ぶ」
「選ぶ?」
「ああ」
彼は滝壺を真っ直ぐ見据えた。
「心を喰われる者もいる」
空気が重くなる。
冗談ではない。
八兵衛は本気で言っている。
だが、それでも滝壺の胸に湧き上がったのは恐怖ではなかった。
もっと強くなりたい。
もっと斬れるようになりたい。
その渇望が、彼女の指を自然と刀へ伸ばさせる。
「抜けばわかる」
八兵衛が短く告げた。
滝壺は息を吸う。
そして、柄を握った。
瞬間。
ぞわり、と。
冷たい何かが背骨を這い上がる。
「――ッ」
それでも止めない。
親指で鍔を押し上げる。
わずかに抜けた刃の隙間から、黒いモヤが漏れ出した。
次の瞬間。
世界が、反転する。
「……え」
道場が消えた。
八兵衛もいない。
床も壁も天井もなく、滝壺はただ闇の中へ立っていた。
いや、立っている感覚すら曖昧だ。
上下も左右も存在しない。
広大な黒。
その中心で、滝壺だけが取り残されている。
そして。
闇の奥で、無数の緑色が灯った。
「……狼」
低い唸り声。
黒狼。
一匹一匹が大型の猛獣ほどもある漆黒の獣たちが、闇の中から滝壺を見ている。
緑に光る瞳。
鋭い牙。
粘つく殺意。
それらが一斉に滝壺へ向けられた瞬間、本能が警鐘を鳴らす。
逃げろ、と。
だが。
「――ふぅん」
滝壺は逆に口角を上げた。
「面白いじゃない」
黒狼が跳ぶ。
同時、滝壺も地を蹴った。
黒刀が閃く。
一閃。
飛びかかってきた狼の首が宙を舞う。
だが。
「……っ!」
斬った感触が薄い。
肉を断ったというより、霧を裂いたような違和感。
そして首を飛ばされた黒狼は、そのまま闇へ溶け――再び別の場所から現れた。
「無限湧きってわけ?」
返答代わりに、十数匹が同時に襲いかかる。
右。
左。
背後。
上。
牙と爪が暴風のように迫る。
「っ、らぁ!!」
滝壺は刀を振るう。
斬る。
避ける。
蹴る。
回る。
髪を裂かれ、肩を掠められ、それでも彼女は止まらない。
狼たちは強い。
速い。
そして何より、殺意が濃い。
一瞬でも気を抜けば喉笛を噛み千切られる。
だが。
滝壺の瞳にもまた、戦いの熱が宿っていた。
「こんなの……!」
踏み込み。
逆袈裟。
さらに返す刃で二匹まとめて両断。
「今さら怖がるほど柔じゃないっての!!」
黒いモヤが刀身から激しく噴き出す。
その瞬間だった。
狼たちが、一斉に止まる。
静寂。
次いで、闇の奥が大きく揺れた。
現れる。
巨大な影。
他の狼とは比較にならない。
山のような巨躯。
呼吸だけで空間を震わせる圧。
そして、二つの緑眼。
黒狼の王。
滝壺は自然と刀を構え直していた。
「……アンタがボス?」
黒狼は答えない。
代わりに、一歩前へ出る。
その瞬間。
空間ごと押し潰されるような圧迫感が滝壺を襲った。
「――ッ!」
膝が沈む。
呼吸が乱れる。
体が勝手に恐怖を訴えてくる。
だが滝壺は歯を食いしばった。
「上等……!」
彼女は踏み込む。
黒狼も同時に跳んだ。
激突。
巨大な爪と黒刀がぶつかり、火花ではなく黒い雷が弾け飛ぶ。
「ぐ、ぅ……ッ!」
重い。
腕が軋む。
骨が悲鳴を上げる。
だが。
滝壺は笑った。
「……いい圧じゃない」
押し返す。
黒刀の先端へ、黒いモヤが激しく集中していく。
呼吸が変わる。
無限呼吸法。
体内を巡る力が、刃へ収束していく。
「私は――」
踏み込む。
さらに一歩。
狼の王の瞳を真っ直ぐ睨みながら、滝壺は叫ぶ。
「まだ、止まるつもりないのよッ!!」
黒い閃光が走った。




