第二章 8『敗北、そして修行への道』
敗北の朝は、やけに静かだった。
あれほど激しく空気を裂き、地面を抉り、身体の奥まで震わせた戦いの名残は、もう音としては残っていない。
廃研究所の割れた窓から吹き込む風だけが、焦げた薬品の匂いと血の匂いを薄く混ぜながら、ひゅうひゅうと情けない音を立てていた。
だが、静けさとは裏腹に、爆の胸の内は荒れ狂っていた。
――負けた。
何度も、何度も、その事実が頭の中で反響する。
アーノルドの攻撃は速かった。
いや、速いだけではない。
見えない空気が弾丸になり、衝撃波になり、刃物よりも鋭く肉を抉ってくる。避けたと思った瞬間には、避けた先の空気そのものが破裂する。
目が見えないはずなのに、こちらの動きは読まれていた。
足音でも、気配でもない。
空気抵抗――人が動くたびに生まれる、わずかな空気の乱れ。
それを、あの男は見ていた。
「……化け物かよ」
爆が吐き捨てる。
その声に、悔しさが滲む。
悔しさだけではない。
ほんの少し、恐怖も混じっていた。
自分が今まで戦ってきた相手とは、まるで格が違った。
勝てると思った瞬間がないわけではない。
確かに何度か、届きそうな場面はあった。
だが、その全てが、アーノルドの余裕を崩すには足りなかった。
滝壺は黙ったまま、刃こぼれした刀を見下ろしていた。
刀身に走る傷。
欠けた刃。
握り慣れた柄の感触だけが、かろうじてそこに残っている。
「……すまなかった」
滝壺が、小さく呟く。
それが誰に向けた言葉なのか、爆にはわかった。
刀に対してだ。
ずっと共に戦ってきた相棒に、限界以上の負担を強いた。
それでも勝てなかった。
その事実は、滝壺にとって爆以上に重いのかもしれなかった。
「謝る相手は刀じゃねぇだろ」
斬刹が壁にもたれたまま言う。
声はいつもより低い。
呼吸も荒い。
脇腹を押さえる手には血が滲んでいる。
「俺たちは全員、自分に謝るべきだ。弱かった自分にな」
その言葉に、誰も返せない。
照夜は床に座り込み、スマホの割れた画面を見ていた。
アーノルドの存在を伝えようとして、伝えられなかった。
背後を取られ、戦闘になり、何とか時間を稼いだ。
だが、結果はこの有様だ。
「……俺がもっと早く連絡できていれば」
「違う」
滝壺が即座に否定する。
「お前が時間を稼いだから、俺たちは間に合った。責めるところがあるなら、間に合ってなお勝てなかった俺たち全員だ」
その言葉は冷静だった。
だが、冷静であるほど痛い。
爆は奥歯を噛み締める。
歯が軋む。
顎が痛む。
それでも力を抜けない。
負けたまま終わるなど、できるはずがなかった。
「……あいつ、最後に言ってたよな」
爆が顔を上げる。
「クトゥルフの奴らと手を組むって。戦争を始めるって」
「ああ」
照夜が頷く。
「ノクスの幹部がわざわざ姿を見せたんだ。ただの脅しではないと思う」
「だろうな」
斬刹が目を細める。
「奴は俺たちを殺せた。なのに殺さなかった。伝言役として残したんだ」
その言葉に、空気がさらに重くなる。
見逃された。
それは慈悲ではない。
侮辱だ。
生かされたのではない。
使われたのだ。
「……ふざけやがって」
爆が立ち上がろうとする。
だが、膝が笑った。
「ぐっ……!」
崩れかけた体を、滝壺が支える。
「無理をするな」
「無理でも立つんだよ」
爆は滝壺の腕を借りながら、震える足で地面を踏みしめる。
「ここで座り込んでたら、あいつの言った通りになる。俺たちはただの下っ端で、上に泣きつくだけの負け犬だ」
「事実、今はそうだ」
背後から声がした。
全員が振り向く。
そこに立っていたのは、日神万之介だった。
いつからいたのか。
気配を消していたわけではないのだろう。
ただ、四人の意識が自分たちの敗北に沈みすぎていて、近づく足音にすら気づけなかったのだ。
その事実が、さらに胸を刺す。
「……万之介」
爆が睨むように見る。
万之介はその視線を正面から受け止めた。
「悔しいか」
「当たり前だろ」
「なら、ちょうどいい」
万之介は静かに言う。
「その悔しさを捨てるな。だが、怒りだけで強くなれると思うな。怒りは火種にはなるが、剣にはならん」
爆は何も言わない。
言い返したかった。
だが、言い返せるだけの力も結果もなかった。
「探偵社は一時休業だ」
万之介の言葉に、照夜が顔を上げる。
「休業……ですか?」
「ああ。今のお前たちに依頼を回しても、死体が増えるだけだ」
容赦のない言葉だった。
しかし、誰も否定できない。
「爆。お前は日神邸へ行け」
「日神邸……?」
「太陽流剣術の祖、日神烈火様のもとだ」
その名前に、爆の眉が動く。
太陽流剣術。
自分が使っている剣。
だが、その出所は曖昧なままだ。
幼い頃に出会った、マンダラの一人だと名乗った兄ちゃん。
その男に教わったはずなのに、万之介はそんな者はいないと言った。
謎は残っている。
だが、今はそれを考えるより先に――。
「俺の剣、そんなに変かよ」
「変だ」
即答だった。
「刀の形も、力の流れも、太陽流として歪んでいる。お前は本来の力を出し切れていない。むしろ、抑え込まれていると言っていい」
「……抑え込まれてる?」
「自分にとって刀とは何か。それを見つけろ。でなければ、お前の刀はいつまでも中途半端なままだ」
爆は自分の刀を見る。
スルト。
無骨で、扱いづらく、だが確かに自分の武器だった。
だが、万之介の言う通りなら、自分はまだこの刀を理解していない。
「滝壺」
万之介の視線が移る。
「お前は鬼鼠谷八兵衛のもとへ行け」
「……八兵衛殿のもとへ」
「ああ。剣士としての地力を上げろ。そして、その刀に代わる相棒を探せ」
滝壺の手が、欠けた刀の柄を握る。
別れを告げるには、まだ早すぎる。
だが、戦いは待ってくれない。
「承知した」
「照夜。お前は己の力を完成させろ。天照も月詠も、今のままでは強敵には届かん」
「……わかっています」
照夜は悔しそうに頷く。
あの戦いで一番最初にアーノルドと対峙したのは照夜だ。
だからこそ、誰よりも痛感している。
光も影も、まだ足りない。
「斬刹」
「はい」
「お前は不動明王のもとへ行け。万物斬を鍛え直せ」
斬刹の目が鋭くなる。
「……斬れるようになります。今度こそ」
「言葉ではなく、結果で示せ」
万之介はそう言って、四人を見渡した。
「アーノルドは再び現れる。だが、お前たちが次に奴と会うのは今ではない。今会えば、また同じ結果になる」
爆の拳が震える。
わかっている。
わかっているからこそ、悔しい。
「次に戦場で会う時までに、別人になれ」
万之介の声が、廃研究所の中に落ちる。
それは命令だった。
同時に、猶予でもあった。
今は負けた。
だが、次を許された。
ならば、その次で全てを返すしかない。
「……上等だ」
爆が笑う。
血の味がした。
唇は切れ、体は痛み、足はまだ震えている。
それでも、笑った。
「あいつに伝言役にされたまま終わる気はねぇ。次に会った時は、俺があいつに伝言させてやる」
「誰にだ」
斬刹が問う。
爆は刀を握り直し、朝焼けの差し込む出口を見る。
「地獄にだよ」
その無茶な言葉に、照夜が呆れたように息を吐く。
滝壺は小さく笑い、斬刹は鼻を鳴らした。
だが、誰も否定しなかった。
無茶だ。
今は到底届かない。
それでも、そこを目指さなければ始まらない。
廃研究所を出る。
瓦礫を踏み越え、血の匂いを背にして、四人は朝の光の中へ歩き出す。
敗北の夜は終わった。
だが、勝利の朝はまだ遠い。
その遠さを知ったからこそ、彼らは進む。
火神爆は、日神烈火のもとへ。
神威滝壺は、鬼鼠谷八兵衛のもとへ。
暁照夜は、光と影の深奥へ。
罪道斬刹は、不動明王のもとへ。
アーノルドという男が残した傷は、深い。
だがその傷こそが、彼らを次の段階へ押し上げる。
――修行が、始まる。




