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マンダラ  作者: 胡瓜かんば
第二章『ノクスの影』
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第二章 4『届かない刃』

 静寂が、地下研究所に落ちていた。


 否、静寂ではない。


 耳の奥ではまだ、先ほどの衝撃が残響している。

 圧縮された空気が弾け、床を抉り、壁を穿ち、肉体を吹き飛ばした音。

 その見えない暴力の余韻が、爆の鼓膜の内側でいつまでも暴れ続けていた。


「……くそ」


 膝をついた爆が、奥歯を噛み鳴らす。


 腹が痛い。

 呼吸をするたびに、肺の奥が擦れるように軋む。

 だが、それ以上に痛むものがある。


 届かなかった。


 炎を纏っても、仲間と合わせても、全員で仕掛けても。

 ノクス幹部アーノルドには、届かなかった。


「立てるか、爆」


 滝壺が刀を鞘に戻しながら、静かに声をかける。

 その声には焦りがあった。表情には出さない。だが、握る指先に力が入りすぎている。


 滝壺もまた、わかっていたのだ。


 今、追えば死ぬ。


 それが敗北の言い訳ではなく、ただの事実であることを。


「立てるに決まってんだろ」


 爆は強がって笑い、刀を杖代わりにして立ち上がる。


 膝が震えた。

 情けないほど、体が言うことを聞かない。


 それを見て、斬刹が肩の傷を押さえながら言う。


「無理をするな。奴は、こちらを殺す気なら殺せた」


「わかってる」


「なら――」


「わかってるって言ってんだろ!」


 爆の怒声が、割れた培養槽の残骸を震わせた。


 言った瞬間、爆は自分の声に眉をひそめる。

 怒っている相手が違う。


 滝壺でも、斬刹でも、照夜でもない。


 自分だ。


 何もできなかった自分に腹が立っている。

 目の前で好き勝手に語られ、仲間を傷つけられ、世界を壊すだの戦争を始めるだのと言われて、なお相手の背中を斬れなかった自分に。


「……悪い」


 短く詫びる爆に、斬刹は何も言わなかった。


 その代わり、照夜が割れた眼鏡の片側を外し、周囲を見渡す。


「アーノルドは撤退しました。ですが、ここに残された資料や培養槽を確認すれば、ノクスの目的に繋がる情報があるかもしれません」


「そんな余裕あるのか?」


「ありません。だからこそ、最低限だけ拾います」


 照夜は傷ついた腕で端末を操作し始める。


 画面には、崩れた文字列と赤い警告表示が浮かんでいた。

 研究所の自壊装置か、あるいは証拠隠滅用の仕掛けか。

 どちらにせよ、長居できる場所ではない。


「残り時間は?」


「正確には不明です。ただ、空調の流れが変わっています。地下のどこかで隔壁が閉じ始めている可能性が高い」


 照夜の言葉に、爆は舌打ちする。


 空気。

 また空気だ。


 奴の能力も、奴が残していった脅威も、何もかもが目に見えない形でこちらを追い詰めてくる。


「最後までムカつく野郎だな……!」


 その瞬間だった。


 奥の通路から、湿った足音が響いた。


 一つではない。

 二つ、三つ、十、二十。


 培養液の臭いと、腐った獣の臭気。

 白濁した煙の奥から、異形の影が這い出してくる。


 アーノルドが置き去りにした化け物たちだった。


 四足のもの。

 人に似た背骨を持つもの。

 頭部だけが異様に膨れ上がったもの。

 どれもが不完全で、どれもが飢えていた。


「後始末まで押し付けていきやがったか」


 爆が刀を構える。


 だが、踏み込もうとした瞬間、腹の痛みで息が詰まった。


「爆、下がって」


 滝壺が前に出る。


 刃が抜かれる。

 青白い光を受けた刀身が、化け物たちの濁った瞳を映した。


「ここは俺が斬る」


「俺もやる」


「今のお前は足手まといだ」


 滝壺の言葉は冷たかった。


 だが、冷たいだけではない。

 その奥に、仲間を死なせまいとする必死さがあった。


 爆は反論しかけ、言葉を飲み込む。


 代わりに、刀を握る手に力を込めた。


「……一匹でも抜けたら俺が燃やす」


「それでいい」


 滝壺が短く答え、地を蹴った。


 瞬間、銀の線が走る。


 化け物の首が飛ぶ。

 遅れて黒い血が噴き出し、床を汚す。


 斬刹も続いた。

 負傷した肩を庇いながらも、刃筋は乱れない。

 斬る、払う、突く。

 無駄のない動きで、迫る異形の脚を断ち、胴を裂き、動きを止める。


 照夜は後方で光と影を操り、二人の死角を補った。

 影が床を這い、化け物の脚を縛る。

 光の糸が天井から落ち、首筋を焼く。


 爆はその後ろで、歯を食いしばっていた。


 前に出たい。

 今すぐ飛び込みたい。

 だが、体が追いつかない。


 だからこそ、見えた。


 滝壺の踏み込みの鋭さ。

 斬刹の刃の正確さ。

 照夜の判断の速さ。


 そして、自分の未熟さ。


「……俺だけ、勢いで突っ込んでただけじゃねぇか」


 小さく漏れた声は、誰にも届かなかった。


 だが、爆自身には深く突き刺さる。


 炎がある。

 力もある。

 気合いもある。


 だが、それだけでは届かない敵がいる。


 アーノルドのように、こちらの動きを読み、空気の流れを支配し、触れる前に撃ち抜いてくる相手には、ただ真っ直ぐ突っ込むだけでは勝てない。


 変わらなければならない。


 刀も。

 戦い方も。

 自分自身も。


「爆!」


 照夜の声で、意識が戻る。


 一体の化け物が、滝壺たちの隙間を抜けて飛びかかってきていた。

 裂けた口。

 剥き出しの牙。

 涎を撒き散らしながら、一直線に爆の喉元を狙う。


 爆は息を吸った。


 痛みが走る。


 それでも、刀を振る。


「――邪魔だ」


 炎が走った。


 化け物の体が赤く裂け、燃えながら床に転がる。

 爆はよろめきながらも、倒れなかった。


「足手まといで終わるかよ」


 燃え残る肉塊を睨みつけ、爆は低く呟く。


 その声を聞いて、滝壺がわずかに笑った。


「なら、最後まで立っていろ」


「ああ」


 戦闘は長くは続かなかった。


 残された化け物たちは、アーノルド本人に比べれば脅威ではない。

 だが、消耗した四人には十分すぎるほど厄介だった。


 全てを斬り伏せた頃には、地下研究所全体が低く唸り始めていた。


 天井から砂が落ちる。

 警告灯が赤く回る。

 遠くで隔壁の閉じる音が、重く連続して響いた。


「撤退します!」


 照夜が叫ぶ。


 四人は走り出した。


 通路を駆け抜ける。

 背後で何かが爆ぜる。

 壁が崩れ、配管が破裂し、白い蒸気が視界を覆う。


 爆は何度も転びかけた。

 そのたびに滝壺が腕を掴み、斬刹が背を押し、照夜が道を示した。


 情けない。


 だが、今はその情けなさごと抱えて走るしかない。


 生きて帰る。

 そして、強くなる。


 それだけが、今の爆にできる唯一の反撃だった。


 地上への扉が見えた。


 照夜が影で瓦礫を押し退け、滝壺が扉を蹴破る。

 冷たい夜気が流れ込んだ瞬間、四人は転がるように外へ飛び出した。


 直後、背後の廃研究所が轟音と共に崩れ落ちる。


 土煙が夜空へ立ち上り、月を汚す。

 まるで、ノクスという闇が空に染み出していくようだった。


 爆は地面に仰向けに倒れ、荒い息を吐く。


 生きている。


 だが、勝ってはいない。


 むしろ、完全に負けた。


「……次は」


 爆が拳を握る。


 爪が掌に食い込み、血が滲む。


「次は、絶対に届かせる」


 夜風が吹いた。


 その風の流れすら、今の爆にはアーノルドの嘲笑に思えた。


 だからこそ、忘れない。


 見えない弾丸。

 空気のドリル。

 硬い外套。

 そして、自分たちを見逃したあの背中。


 この敗北は、刻まれた。


 骨に。

 血に。

 炎に。


 ――探偵社の一行は、己の力不足を知った。


 そしてこの夜を境に、彼らはただ依頼をこなす者ではいられなくなる。


 迫る戦争の気配。

 ノクスの暗躍。

 クトゥルフという名のさらなる闇。


 その全てに抗うため、彼らは強さを求めることになる。


 敗北の夜は終わった。


 だが、本当の戦いは、ここから始まる。

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