第二章 3『空気を読む男』
爆音が、地下の通路を揺らした。
それは爆発物の音ではない。
火薬の臭いも、炎の熱もない。
ただ、空気が潰され、弾け、見えない塊となって壁を抉った音だった。
「――伏せろ!」
照夜の叫びに、爆は反射的に頭を下げる。
直後、頭上を何かが通過した。
見えない。
だが、わかる。
耳元を掠めた風圧が、皮膚を切り裂くように鋭かった。背後の壁が爆ぜ、コンクリート片が雨のように飛び散る。
「なんだ今の……!」
「弾丸、いや――空気です!」
照夜が目を細める。
地下研究所の奥。
赤い非常灯に照らされた空間の中央に、一人の男が立っていた。
くすんだ外套を肩に羽織り、両手をだらりと下げた男。
顔の上半分には古びた布が巻かれ、その目元は完全に覆われている。
それでも、男は迷わずこちらを見ているように笑った。
「おうおう、よく避けたじゃねぇか。今ので頭ぶち抜くつもりだったんだがな」
荒い声。
獣のような笑み。
そして、全身から漂う危険な余裕。
犯罪組織ノクスの幹部――アーノルド。
その名を聞いた瞬間、爆の指が刀の柄を強く握った。
「てめぇが、ここの親玉か」
「あァ? 親玉じゃねぇよ。俺は幹部の一人だ。勘違いすんな、ガキ」
アーノルドは鼻で笑い、足元に転がる異形の肉塊を蹴った。
「ここは俺の遊び場だ。出来の悪いバケモンどもを並べて、どいつが戦争に使えるか試してただけだ」
「戦争……?」
照夜の声が低くなる。
アーノルドは肩を揺らして笑った。
「そうだよ。ノクスは止まらねぇ。いずれクトゥルフの連中とも手ぇ組んで、でけぇ戦争を始める。こんな世界、ぶっ壊して作り直した方が面白ぇだろ?」
「ふざけんな」
爆が床を蹴った。
炎が刀身に走る。
赤い軌跡を引きながら、爆は一直線にアーノルドへ迫った。
目隠しをしている。
なら、正面からの速度で押し切る。
そう判断した一撃だった。
だが――、
「真正面から来る馬鹿がいるかよ」
アーノルドの体が、半歩だけ横へずれた。
爆の斬撃が外套を掠める。
硬い。
布を裂く手応えではなかった。
鉄板を擦ったような感触が腕に返り、火花だけが散った。
「なっ――」
「遅ぇ」
アーノルドの指先が爆の腹へ向く。
瞬間、空気が一点に集まった。
見えない弾丸。
圧縮された空気の塊が爆の胴を撃ち抜くように叩き、爆の体が後方へ吹き飛ぶ。
「がッ……!」
床を転がる爆を、滝壺が横目で確認する。
同時に抜刀。
「目が見えていないのなら――」
低く踏み込み、滝壺が背後へ回る。
足音を殺した一閃。
狙うのは首筋。
だが、刃が届く寸前、アーノルドの口角が上がった。
「後ろだろ」
振り向きもせず、アーノルドが肘を引く。
その肘先から圧縮空気が破裂し、滝壺の刀を横から弾いた。
「くっ!」
「俺の周りの空気が教えてくれんだよ。お前らがどこにいて、どう動いて、次にどこを斬ろうとしてるかまでな」
アーノルドが首を鳴らす。
「目なんざいらねぇ。空気抵抗で十分だ」
その言葉に、照夜の表情が険しくなる。
見えていないのではない。
別の方法で見ている。
動けば空気が乱れる。
踏み込めば風が変わる。
武器を振れば抵抗が生まれる。
アーノルドはそれを肌で読み、敵の位置と動きを把握しているのだ。
「なら、動きを読まれる前に斬る」
斬刹が前へ出る。
一切の無駄を削ぎ落とした歩法。
気配を薄くし、殺意だけを刃に乗せる。
刀が振られる。
その一撃は、空気を裂く音すら遅れて聞こえるほど鋭かった。
だが、アーノルドは外套を翻した。
刃が外套に触れる。
また、弾かれる。
「ちっ、こいつの外套……!」
「硬ぇだろ? 特注だ。防御が苦手なもんでなァ」
笑いながら、アーノルドが右腕を回す。
その動きに合わせ、周囲の空気が渦を巻いた。
ただの風ではない。
圧縮され、回転し、先端を尖らせた衝撃波。
空気のドリル。
「抉れろ」
アーノルドが腕を振り抜く。
螺旋状の衝撃波が床を削りながら走った。
斬刹が横へ跳ぶ。
だが、避けきれない。
衝撃波の端が斬刹の肩を掠め、肉を抉った。
血が飛び、壁に赤い線が走る。
「斬刹!」
「浅い……問題ない」
言葉とは裏腹に、斬刹の表情は硬い。
斬られたのではない。
削られた。
刀傷とは違う、肉をねじり取られるような傷。
あれをまともに受ければ、腕一本程度なら簡単に持っていかれる。
「くそが……!」
爆が立ち上がる。
腹の奥が痛む。
息を吸うだけで肋骨が軋む。
それでも、炎は消えない。
「だったら、読めねぇくらい派手に燃やしてやるよ!」
爆の刀から炎が噴き上がる。
地下室の酸素を食らうように火勢が増し、赤い光が培養槽のガラスに映り込んだ。
熱で空気が揺れる。
それを見て、アーノルドがわずかに眉を動かす。
「へぇ」
爆は笑った。
「空気で読んでんなら、空気ごと乱してやる!」
炎の斬撃が放たれる。
熱で歪んだ空気がアーノルドの周囲を包み、抵抗の流れを乱す。
その隙に滝壺が左から、斬刹が右から詰める。
照夜の光糸が天井から落ち、影が床を這った。
四方向。
同時攻撃。
初めて、アーノルドの動きがわずかに遅れた。
「今だ!」
滝壺の刀が外套の隙間を狙う。
斬刹の刃が反対側から胴を裂きにいく。
照夜の光と影が足元を縛る。
そして爆が正面から炎を纏って突っ込む。
届く。
そう思った瞬間だった。
「調子に乗んな」
アーノルドが両腕を広げた。
次の瞬間、周囲の空気が一斉に発散した。
圧縮ではない。
爆発でもない。
アーノルドを中心に、空気そのものが外側へ弾け飛んだ。
「――ッ!」
爆たち四人がまとめて吹き飛ばされる。
炎が散り、光糸が千切れ、影が潰れる。
滝壺は床を滑り、斬刹は壁に背中を打ちつけ、照夜は培養槽の破片を浴びながら膝をついた。
爆だけが、床に刀を突き立てて止まった。
だが、止まっただけだ。
体は震え、口元から血が垂れている。
「……なんだよ、それ」
「あァ? 空気を溜めて飛ばす。回して抉る。溜めたもんを一気に散らす。単純だろうが」
アーノルドは笑う。
「けどな、単純な力ほど避けづれぇんだよ」
地下室に沈黙が落ちる。
強い。
ただ強いだけではない。
見えない攻撃。
見えない感知。
硬い外套。
そして、近づけば発散で吹き飛ばされる。
攻めても避けられる。
避けても撃たれる。
囲んでも散らされる。
今の自分たちでは、決定打に届かない。
その事実が、爆の胸に鈍く突き刺さった。
「終わりか?」
アーノルドが歩く。
足音が近づくたび、空気が重くなる。
「ノクスの幹部ってのはな、雑魚狩りで名乗れる肩書きじゃねぇ。お前らみたいな半端者が突っ込んできたところで、何も変わんねぇんだよ」
「……黙れ」
爆が刀を握り直す。
「まだ、終わってねぇ」
「終わってんだよ」
アーノルドの指先が爆の額へ向く。
空気が集まる。
圧縮され、固まり、見えない弾丸になる。
「今のお前じゃ、俺には届かねぇ」
発射。
その瞬間、照夜の影が爆の前に滑り込んだ。
同時に滝壺が爆の肩を掴み、横へ引き倒す。
弾丸は爆の頬を掠め、背後の壁を丸く穿った。
「爆、下がれ!」
「嫌だ!」
「今は勝てない!」
滝壺の声が鋭く響いた。
爆は息を呑む。
悔しい。
認めたくない。
だが、滝壺の言葉は正しい。
このまま続ければ、全員死ぬ。
アーノルドはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「判断だけは悪くねぇな。逃げるなら逃げろ。追う気はねぇ」
「……見逃すってのか」
「殺す価値がねぇだけだ」
その一言に、爆の拳が震える。
怒りで視界が赤く染まる。
だが、足は前に出ない。
出せない。
アーノルドは背を向け、地下室の奥へ歩き出した。
「上の奴らに伝えとけ。ノクスは動く。クトゥルフの連中とも、いずれぶつかるか、手を組むかするだろうよ。どっちにしろ、戦争は来る」
そして、振り返らずに言う。
「次に会う時までに、少しはマシになっとけ。じゃねぇと、今度は空気穴だらけにして殺す」
奥の扉が開く。
白い蒸気が漏れ、アーノルドの姿を飲み込む。
扉が閉じたとき、そこに残ったのは、壊れた培養槽と、血と、抉られた床だけだった。
爆は膝をついた。
刀を握る手が震えている。
恐怖ではない。
敗北の悔しさだった。
「……強くなる」
血の味がする口で、爆が呟く。
「次は、絶対にぶっ飛ばす」
誰も茶化さなかった。
滝壺も、照夜も、斬刹も。
全員が同じものを見ていた。
届かなかった背中。
見えない弾丸。
抉られた床。
そして、ノクスの幹部という壁。
この敗北は終わりではない。
始まりだ。
――彼らが己の未熟さを知り、本当の意味で強さを求める、その始まりだった。




