第一章 30『燃える夜に吼えろ』
夜風が、血の匂いを運んでいた。
廃ビルの壁をぶち破って外へ転がり出た怪物は、瓦礫の山を背にしてゆっくりと立ち上がる。砕けたコンクリート片がその肩から滑り落ち、黒い血が地面に染み込み、じゅうじゅうと嫌な音を立てた。
月明かりの下に晒されたその姿は、屋内で見た時よりもなお異様だった。
胸に開いた口。
背中から生えた三本の腕。
焼け焦げた肉。
裂けた首筋。
そして、それらすべてをものともせずにこちらを睨む、濁った眼。
生き物としての形を保っているのが不思議なほどの傷を受けながら、それでも怪物は倒れない。
「……しぶてぇにも限度があんだろ」
爆はスルトを肩に担ぎ直し、脇腹から流れる血を手の甲で拭った。
痛みはある。
むしろ、呼吸するたびに腹の奥が焼けるように痛む。
だが、今さら痛い痛いと泣き言を並べていられる相手ではない。
目の前の化け物は、こちらが一歩でも怯めば、その一歩分の隙間から首を噛み千切ってくる。
「爆、無茶はするな」
滝壺が隣に並び、刀を低く構える。
「無茶しなきゃ勝てねぇ相手だろ」
「無茶と無謀は違う」
「へいへい。説教は勝ってから聞くわ」
軽口を返しながらも、爆の目は笑っていなかった。
斬刹もまた、少し離れた位置で刀を構えている。
その頬には浅い切り傷。
胸元の服も裂け、そこから血が滲んでいた。
だが、斬刹の視線は揺らがない。
ただ怪物の動き、呼吸、重心、そのすべてを削ぎ落とすように見据えている。
「次、来るぞ」
斬刹の声と同時、怪物が咆哮した。
胸の口ではない。
本来の口でもない。
全身に浮き出た裂け目のような傷口が一斉に開き、そこから空気を震わせる濁った声が漏れ出す。
地面が震える。
瓦礫が跳ねる。
その咆哮は、耳ではなく骨に響いた。
「――ッ!」
爆の膝が一瞬、勝手に沈む。
恐怖ではない。
本能だ。
人間の奥底に刻まれた、生存のための警告が、目の前の存在を敵ではなく災害だと判断している。
逃げろ。
背を向けろ。
生き残れ。
体の奥からそんな声が湧き上がる。
だから、爆は笑った。
「うるせぇ」
自分の本能に吐き捨てる。
「逃げて勝てるなら、最初から苦労してねぇんだよ!」
地面を蹴る。
爆が先に出た。
スルトの刀身に炎が走り、夜の闇を赤く裂く。怪物はそれに反応し、残った三本の背腕を一斉に振るった。
上から一本。
横から一本。
地面すれすれを這うように一本。
逃げ場を塞ぐ三方向の攻撃。
爆は真正面から突っ込む。
「爆!」
滝壺の声が飛ぶ。
だが、爆は止まらない。
上からの爪をスルトで弾く。
横から迫る腕を身を沈めて避ける。
地面を這う腕は――跳んだ。
爪が靴底を掠める。
そのまま空中で体を捻り、爆は怪物の胸元へ斬りかかった。
「燃えろッ!」
炎の斬撃が胸の口へ叩き込まれる。
だが、怪物は口を閉じた。
歯と歯が刃を噛む。
スルトの刀身が、胸の口に挟まれた。
「なっ――」
怪物の本来の腕が伸びる。
爆の頭を掴もうとする巨大な手。
その手首を、横から滝壺の刃が斬った。
「一人で決めに行くな」
鮮血が弾ける。
怪物の腕が逸れる。
爆はその隙にスルトを引き抜き、胸の口を蹴って後ろへ跳んだ。
「助かった!」
「借り一つだ」
「高ぇな!」
着地した爆の横を、黒い線が走る。
斬刹だった。
低く、速く、無駄なく。
斬刹は怪物の足元へ滑り込み、膝裏へ刃を走らせる。
「万物斬」
黒い一閃。
怪物の右脚が深く裂けた。
巨体が揺らぐ。
だが、倒れない。
怪物は裂けた足で地面を踏み砕き、無理やり姿勢を保った。痛覚があるのかないのか、その動きには一切の躊躇がない。
「足を斬っても止まらんか」
「だったら首だろ!」
爆が叫び、再び前へ出る。
滝壺も同時に走る。
斬刹は逆側へ回る。
三方向からの同時攻撃。
怪物の三本の背腕が、それぞれに反応した。
爆には正面から爪。
滝壺には横薙ぎ。
斬刹には頭上から叩き潰す一撃。
まるで、それぞれに別の意志が宿っているかのような迎撃。
だが、それでいい。
「今だ、滝壺!」
「わかっている」
滝壺は迫る爪を刀で受けず、地面を蹴ってさらに低く潜った。
爪が頭上を通過する。
髪が数本、風圧で散る。
そのまま滝壺は怪物の懐へ入り、刀を逆手に持ち替えた。
「水刃――落月」
刃が下から跳ねる。
狙いは、胸の口ではない。
その少し上。
胸骨の中心。
刃が肉を裂き、骨に当たる。
硬い。
だが、滝壺はそこで止めない。
踏み込みをさらに深くし、全身の力を刀へ乗せた。
骨が鳴る。
怪物の胸がわずかに開く。
「爆!」
「おうよ!」
爆が跳んだ。
滝壺が開いたその一点へ、スルトの切っ先を合わせる。
炎を圧縮する。
刃に纏わせるのではなく、刃の先端一点へ押し込める。
爆の腕が震えた。
熱が手のひらを焼く。
柄を握る指の皮が焦げる。
それでも、離さない。
「ぶち抜け――スルトォッ!!」
刺突。
炎の一点突破が、怪物の胸へ突き刺さる。
次の瞬間、怪物の背中から炎が噴き出した。
内部を貫通した炎が、背中の肉を破って夜空へ抜ける。
怪物の巨体が大きく仰け反り、胸の口から黒い血と煙が溢れた。
「入った!」
爆が叫ぶ。
だが、喜ぶには早かった。
怪物の本来の腕が爆の腕を掴んだ。
「しまっ――」
握力が骨を軋ませる。
スルトを突き刺したまま、爆の体が固定される。
そして、胸の口が開いた。
至近距離。
赤黒い光が喉奥に集まる。
ブレス。
避けられない。
「爆!」
滝壺が動くより早く、斬刹が飛び込んだ。
斬刹は爆と怪物の間に割り込み、刀を胸の口へ突き立てる。
「万物斬――断」
黒い斬撃が、胸の口の中で炸裂した。
放たれかけていた熱線が内部で暴発する。
怪物の胸が内側から膨れ上がり、爆と斬刹が同時に吹き飛ばされた。
「ぐあッ!」
「……ッ!」
二人の体が地面を転がる。
爆は背中から瓦礫に叩きつけられ、肺の空気を吐き出した。
斬刹も片膝をつき、口元から血を垂らす。
怪物は胸から煙を噴きながら、数歩後退した。
効いている。
確実に効いている。
だが、倒れない。
倒れないどころか、背中の残った三本の腕が、さらに太く膨れ上がっていく。
「まだ変わるのかよ……!」
爆は立ち上がろうとして、膝をついた。
視界が揺れる。
腕の感覚が鈍い。
脇腹の傷も開いている。
それでも、スルトを杖にして立ち上がる。
隣では斬刹が血を吐き捨て、刀を構え直していた。
滝壺も静かに呼吸を整え、怪物の真正面に立つ。
三人とも、もう無傷ではない。
だが、誰一人として後ろへ下がらなかった。
「爆」
滝壺が言った。
「あいつの再生、無限ではない」
「ああ。見りゃわかる」
怪物の胸の傷は塞がっていない。
黒い血が止まらず、煙も濃い。
何度も変形し、再生し、攻撃を受け続けた結果、怪物の体にも限界が近づいている。
ならば、あと一押し。
あと一撃、決定打が必要だ。
「斬刹」
爆が視線を向ける。
「お前、あいつの動き止められるか?」
「一瞬なら」
「十分」
爆はスルトを握り直した。
炎が再び燃え上がる。
ただし、さっきまでのような荒い炎ではない。
小さく、鋭く、刃の輪郭に沿って静かに揺れる炎。
滝壺がそれを見て、わずかに目を細める。
「爆、それはまだ安定していないだろう」
「知ってる」
「失敗すれば、自分の腕が飛ぶぞ」
「腕一本で済むなら安い」
爆は笑った。
その笑みは、無謀ではない。
覚悟だった。
「ここでこいつを逃がしたら、もっと大勢死ぬ。だったら今、俺らが止めるしかねぇだろ」
怪物が咆哮する。
その声に応えるように、爆の炎が揺れた。
斬刹が前へ出る。
滝壺が横へ回る。
爆が一歩、踏み込む。
三人の動きが重なる。
怪物の背腕が一斉に振り上がった。
次の瞬間、斬刹が真正面から斬り込む。
「万物斬――縛」
斬撃は怪物を斬らなかった。
地面を斬った。
空気を斬った。
怪物の周囲にある、動きを支えるすべての流れを断つように、黒い線が幾重にも走る。
怪物の足が、一瞬止まった。
「今!」
滝壺が叫ぶ。
爆が走る。
怪物の胸へ。
先ほど開けた傷へ。
まだ煙を吐き続ける、その中心へ。
背腕の一本が爆を狙う。
滝壺がそれを斬り払う。
二本目が振り下ろされる。
斬刹が受け、膝を沈めながらも逸らす。
三本目。
爆の真正面。
避ければ届かない。
受ければ止まる。
だから、爆は突っ込んだ。
爪が肩を裂く。
血が飛ぶ。
痛みで視界が赤く染まる。
それでも、止まらない。
「これで――」
爆はスルトを両手で握る。
炎が一点に収束する。
刀身が赤を通り越し、白く輝く。
「終わりだァァァッ!!」
突き込む。
スルトの刃が、怪物の胸の中心へ深々と突き刺さった。
直後、爆は叫んだ。
「紅炎――穿ち火!」
炎が爆ぜた。
外ではなく、内側へ。
怪物の体内を炎が駆け巡り、胸から腹へ、背中へ、喉へと赤い亀裂が走る。
怪物の咆哮が途切れた。
濁った眼が、爆を見下ろす。
そこに怒りがあったのか、恐怖があったのか、あるいは何もなかったのか。
爆にはわからなかった。
ただひとつ、わかったことがある。
怪物の体が、限界を迎えた。
「離れろ、爆!」
滝壺の声。
爆はスルトを引き抜こうとする。
だが、抜けない。
怪物の肉が、最後の抵抗のように刃を締めつけている。
「っざけんな……!」
怪物の体が膨れ上がる。
爆発する。
そう直感した瞬間、斬刹が爆の背中を蹴った。
「行け」
「斬刹――!」
爆の体が後方へ弾かれる。
スルトを手放す形になり、爆は地面を転がった。
次の瞬間、滝壺が爆の襟首を掴み、さらに後方へ引きずる。
そして――爆発。
怪物の体内に走った炎が、外皮を突き破って噴き出した。
赤い閃光。
黒い血。
飛び散る肉片。
瓦礫を巻き込んだ爆風。
夜の廃地が、一瞬だけ昼のように明るく染まる。
爆は腕で顔を庇いながら、爆風に吹き飛ばされた。
背中から地面に叩きつけられ、何度も転がり、ようやく止まる。
耳が聞こえない。
視界が霞む。
口の中に血の味が広がる。
「……っ、勝った、か?」
爆は震える腕で上体を起こした。
粉塵の向こう。
怪物がいた場所には、黒く焼け焦げた肉塊が崩れ落ちていた。
動かない。
咆哮もない。
再生もない。
ただ、胸に突き刺さったままのスルトだけが、赤い炎を弱々しく揺らしている。
「……終わった、のか」
滝壺が刀を下ろす。
斬刹は少し離れた場所で片膝をつき、肩で息をしていた。
爆はゆっくりと立ち上がる。
体中が痛い。
今すぐ寝転がって、そのまま朝まで意識を失いたいぐらいだ。
それでも、スルトの元へ歩いた。
焼け焦げた怪物の残骸に近づき、刀の柄を握る。
「……悪いな。置いてくとこだった」
そう呟いて、爆はスルトを引き抜いた。
刃から黒い血が垂れる。
炎が小さく揺れ、やがて静かに収まった。
夜風が吹く。
血と焦げた匂いはまだ残っている。
だが、先ほどまで肌にまとわりついていた異様な圧は消えていた。
爆は空を見上げる。
月が、何事もなかったように浮かんでいた。
「はぁ……しんど」
その場に座り込む。
滝壺が近づいてくる。
「生きているか」
「ギリな」
「なら問題ない」
「問題しかねぇよ。俺、今たぶん全身問題だらけだぞ」
爆がぼやくと、滝壺は小さく息を吐いた。
それが笑ったのか、呆れたのか、爆にはわからない。
斬刹も刀を収め、静かに怪物の残骸を見下ろした。
「……こいつは、自然発生したものではない」
「ああ?」
爆が顔を上げる。
斬刹は焼け焦げた肉片の一部を刀の先で示した。
そこには、黒い金属片のようなものが埋まっていた。
肉の中に、人工物。
滝壺の表情が険しくなる。
「誰かが作った、ということか」
「少なくとも、そう考えるべきだ」
爆は黙った。
勝った。
確かに勝った。
だが、胸の奥に残った嫌な感覚は消えない。
この怪物がただの一体目なら。
これを作った何者かが、まだどこかにいるのなら。
今日の勝利は、終わりではない。
始まりだ。
「……上等だ」
爆はスルトを肩に担ぎ、夜の向こうを睨んだ。
「何匹でも来いよ。全部ぶっ飛ばしてやる」
強がりの言葉。
だが、その声には確かに火が灯っていた。
倒した怪物の残骸を背に、三人はしばらく動かなかった。
夜風だけが、焼けた戦場を静かに撫でていく。
――そしてその闇の奥で、誰にも気づかれぬまま、小さな通信機の赤いランプが一度だけ点滅した。




