遺して生きる
ある日。
帰りに公園へ寄った。
そこで、たまに見かけるお婆さんが、お稲荷様へ手を合わせていた。
私は思わず話しかけた。
「ここのお稲荷様って、ご利益あるとですか?」
お婆さんは笑った。
「どうやろうねぇ」
「じゃあ、なんで拝みよっとですか?」
「お願いは、あんまりせんとよ」
「え?」
「今日も一日ありがとうございましたって。明日も、大事なもんば間違えんごと頑張りますって」
「……」
「明日がどうなるかなんて、誰にも分からんけんねぇ」
その言葉が、すっと胸へ落ちた。
「でも今日、誰とおるか。なんば大切にするか。それぐらいは、自分で決められるやろ?」
「……」
私は頭を下げた。
そして入れ替わるように手を合わせた。
(今日も、かなたと一緒に過ごせました。ありがとうございました)
願わない。
(明日も、大切にします)
*
北海道への修学旅行。
「行かなくてよかったの?」
病室で、かなたが聞く。
「君とデートしとった方がよか」
「これデートなの?」
「当たり前やん」
かなたが笑う。
体重は大きく落ちていた。
車椅子で過ごす日も増えた。
でも。
笑っている。
かなたが写真立てを見る。
弥生と小永吉先輩と四人で撮った写真。
「写真、あれしかないね」
「そうだね」
「撮ろうか」
「今?」
「今」
私はスマホを取り出した。
ベッドへ腰掛けて、頭を寄せる。
触れた肩が細い。
怖い。
でも。
画面を見る。
「いくばい」
「うん」
「はいチーズ!」
カシャ。
笑った。
ちゃんと。
二人とも。
*
十一月。
珍しく暖かい日だった。
体調の良いかなたと、病院の庭へ出た。
「君は、私のどこが好きなん?」
「え!?」
「ずっと気になっとった」
「全部」
「なんそれ」
かなたが笑う。
「最初に会った時さ。栞ちゃん、自分も松葉杖なのに僕のこと心配してくれてたでしょ」
「……」
「あの時、優しい人なんだろうなって思った」
「そげなことなかよ」
「そうだね、僕のボール松葉杖で打とうとしてたもんね」
「それは言わんとって! てか、ごめん……」
「はは。でも、ずっと真っ直ぐだった」
「八つ当たりばっかりやったやん」
「それでも、僕の話を聞いてくれてた」
「これからも聞くけんね」
彼は膝の上の手を見る。
細く、骨ばっていた。
「僕、テニスが上手いことで、自分には価値があるって思ってたところがあったんだ」
「……」
「だからテニスがなくなって、本当に何もなくなった気がした」
「……」
「でも栞ちゃんは、テニスできない僕とも一緒にいてくれた」
「あたりまえやん」
彼が私を見る。
「ありがとう」
「……」
「もし、栞ちゃんが嫌じゃなかったら」
息を吸う。
「ずっと一緒にいてほしい」
「それ、プロポーズ?」
「そうなっちゃうのかな……」
「よかよ」
「え!?」
「なんね。嫌なん?」
「違う! 嬉しい!」
表情が少しだけ明るくなった気がした。
「元気になったら、またみんなでテニスしよう」
「うん!」
「将来の旦那さまなんやけん、気張ってね」
泣きそうな顔で、かなたは笑った。
*
そして、その日が。
生きているかなたに会えた、最後の日になった。
*
翌未明。
電話。
病院。
間に合わなかった。
「……うそ、やろ……?」
穏やかな顔。
眠っているみたいだった。
「かなた」
返事がない。
「起きんね」
返事がない。
「かなた……」
私は、崩れ落ちた。
*
通夜。
葬儀。
人。
花。
全部、現実味がなかった。
別れ花を左頬の横へ置く。
『なんしよっと?』
『早よ起きんと』
『みんなでテニスできんばい』
馬鹿みたいなことばかり考える。
外へ出ると、隆哉さんに呼び止められた。
「これ、かなたから預かってた」
茶封筒。
震えた字。
〔栞ちゃんへ〕
「何かあったら渡してほしいって」
私は両手で受け取った。
*
公園。
長椅子。
便箋を開く。
〈栞ちゃんへ
この手紙を読んでいるということは、僕は死んじゃったんだと思います。
本当は、読まれないまま捨てられる手紙になってほしかった。
ずっと一緒にいたかったから。
栞ちゃんと出会ってから、僕はテニス以外にも大切なものがあることを初めて知りました。
それまでの僕は、勝つことばかり考えていた。
強くなればなるほど、もっと上へ行かなくちゃと思っていた。
病気になって、それが全部なくなって、本当に怖かった。
でも栞ちゃんは、そんな僕にも真っ直ぐぶつかってきてくれた。
すごく嬉しかった。
だから僕も、本当のことを書きます。
栞ちゃんには、これからも生きてほしい。
笑ってほしい。
いつか誰かを好きになってもいい。
結婚して、幸せになってほしい。
本当は全部、僕が一緒にしたかった。
他の誰にも渡したくない。
僕だけの栞ちゃんでいてほしい。
辛い。
怖い。
死にたくない。
助けてほしい。
もっとテニスしたかった。
世界で戦いたかった。
もっと身体も大きくなって、もっと強くなりたかった。
でも一番は、
栞ちゃんと、ずっと一緒にいたい。
死にたくない。
最後まで諦めたくない。
でも、もし言えないままになったら、それはもっと嫌だから書きます。
僕がいなくなっても、たまに思い出してくれたら嬉しいです。
「ああ、そんな奴もいたな」くらいでもいい。
栞ちゃんの心のどこかに、少しだけ僕をいさせてください。
本当にありがとう。
栞、大好きです。
甘露寺かなた〉
「……」
手が震える。
「ばか……」
涙が落ちる。
「最後まで欲張りやね」
でも、笑った。
笑おうとした。
だって。
〈笑ってほしい〉
そう書いてあるから。
「私のこれから、ちゃんと見とってね」
しっかりと手紙を胸へ抱く。
大切に、大切に。
それから、お稲荷様へ向かった。
鈴緒を握る。
鳴らす。
錆びた音。
目を閉じる。
「今日まで、かなたと一緒に過ごさせてくれて、ありがとうございました」
声が震えている。
「これからも、良い日にしていきます」
そう言った。
言ったのに。
顔を上げられなかった。
笑った顔。
笑窪。
揺れる髪。
テニス。
泣き顔。
唇。
声。
手。
全部。
「……ごめん」
指が震える。
「今だけ……今だけは無理やけん……」
賽銭箱へしがみついた。
「私……泣くっ!」
声が壊れた。
「どうして私の大切なもんばっかり奪うとよ!?」
雨が降り出す。
「どうして幸せでいさせてくれんとよ!?」
雨脚は強まる。
「返してよ……」
声にならない。
「私のかなた、返してよ……」
息が詰まる。
「返してよーーーーっ!!」
誰もいない公園。
雨音の向こうで。
壁へボールが当たる音が、聞こえた気がした。
*
時が過ぎていった。
何もかも前向きになったわけじゃない。
加害者を許せたわけでもない。
今でも事故を思い出す。
今でも腹が立つ。
以前の私は、あの人なんて〈死ねばいいのに〉と思っていた。
その気持ちが完全に消えたわけじゃない。
でも。
かなたが「死にたくない」と泣いた声を知ってから。
同じ言葉を、前と同じようには思えなくなった。
だからといって、許さなくちゃいけないとも思わなかった。
まだ分からない。
分からないまま、生きている。
*
短大へ進学した。
テニスサークルへ入った。
弥生とは、今でも仲良くしている。
ある日の練習。
右脚で地面を踏む。
前より弱い。
昔みたいには動けない。
傷痕の硬さも残っている。
それでも。
相手のラケットが動く。
打球が来る。
私は一歩入る。
テイクバック。
待つ。
打点。
――ポンッ。
「……」
自分でも驚くほど綺麗に打てた。
かなたと同じフォームじゃない。
私の身体。
私の脚。
私のスイング。
でも、一瞬だけ。
彼のリズムが身体の奥で重なった。
(かなた、今の見よった?)
私は小さく笑った。
*
真夏。
蝉の声。
墓石。
私は白いワンピースを着ていた。
右脚は隠さない。
「暑かねぇ」
墓石へ話しかける。
「君は、そっちで無理しよらんね?」
笑う。
「私、またテニスしようとよ。言うても短大のサークルばってん」
脚を見る。
「この傷、今でも好きやないんよ」
正直に言う。
「できればない方がよかった。事故に遭ってよかったなんて、今でもいっちょん思わん」
墓石へ目を戻す。
「でも、隠さんでも歩けるようにはなったよ」
蝉が鳴く。
「それから弥生、ばり上手くなったとよ。今、スクールに通いよって中級よ」
少し笑う。
「小永吉先輩と喧嘩ばっかりしよう」
風が吹く。
「お父さんとお祖父ちゃんも、前よりは話すようになった」
白い裾が揺れる。
「私もね」
少し間を置く。
「ちゃんと生きようとよ」
墓石へ手を伸ばす。
「事故のことも、君が死んだことも、よかったことにはできん」
そっと、指先で石に触れる。
「でも、そのあと私が選んだことは、大切にしようと」
空が青い。
「君を見て知ったことも」
右脚を一歩前へ。
「君と打って身体に残ったことも」
踏み締める。
「全部、私の中にあるけん」
傷ついた身体。
「しっかり見とって」
私の身体。
「良い人生にするけんね」
彼から受け取った大切なもの。
「また来るばい。かなた」
墓石を背にして、歩き出す。
――栞ちゃん!
蝉の声に混じって。
聞こえた気がした。
(……)
振り返らない。
空を見上げる。
飛行機が遠くへ飛んでいく。
「しっかり、気張るばい」
私は笑って。
この脚で。
一歩ずつ。
前へ進むんだ。
遥か彼方にいる君を、私の中に遺したまま。
〈君の彼女でよかったとよ。~了~〉




