8
店を出たあとも、僕たちは十メートルの間隔をあけて歩いた。
駅前の広場を横切っているとき、中原さんの足が一度止まった。
柱の陰に、スマホをこっちへ向けて立っている人がいる。画面を持ち上げたまま、動かない。中原さんはマスクの上を指で押さえて、僕からさらに離れた。
人の流れが、僕たちのあいだを通り過ぎていく。十秒か、もう少しか。やがてその人は画面を伏せて、立ち去っていった。誰かを待っていただけかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。
心臓が遅れて速くなる。この距離は、中原さんが決めた。理由は本人から聞いているけれど、聞くのと見るのとでは、違った。
駅の改札の前で、中原さんが立ち止まる。こっちを向いて、小さく手を振った。僕も手を上げる。中原さんは改札を通る直前に、もう一度振り返った。今度は手を振らない。
マスクの上の、何もない場所が、僕のほうを向いている。何か言うべきなのか、もう一度手を振るべきなのか決められずにいるうちに、人の流れに押されるようにして、中原さんは改札の向こうに消えていく。
♢♢♢
家のドアを開けると、おかえり、という声とシチューの匂いがした。
「ただいま、梓さん」
「少し遅かったわね。どこか行ってたの?」
エプロン姿の梓さんが、台所から顔を出す。
「うん。友達と、駅のほうの喫茶店に」
梓さんの声が、ぱっと明るくなった。
「お友達と? ふふ、よかった。そういうの、あんまりしないものね」
「……普通のことでしょ」
「普通のことよ。だから、いいの」
弾んだ声のまま、鍋のほうへ戻っていく。僕はごまかすように、小さく頷いた。
その日のシチューは具が異様に多かった。人参もじゃがいもも、いつもの倍は入っている。梓さんは、嬉しいことがあると具が増える。
僕と怜奈には、両親がいない。母は、僕が小学二年生の秋に死んだ。スピリチュアルにのめりこんで、家のお金を全部そっちに流して、最後は自分で終わらせた。残ったのは、数字の並んだ紙の束だけだ。父は酒とギャンブルに溺れて、僕たちを殴った。その父も、僕が小学四年生になった春に、交通事故で死んだ。
あっけなかった、と梓さんは言うけれど、僕にはそのころの記憶がない。あの家で過ごした時間は、順番も日付もばらばらのまま、匂いと音だけが残っている。梓さんは、借金ごと僕たちを引き取った。子どもはいなくて、それまでずっと一人で暮らしていたという。
血が繋がっているとはいえ、小学生と高校生をいっぺんに二人抱えこむ余裕なんて、本当はどこにもなかったはずだ。梓さんはそのことを口にしない。代わりに、僕が中学で美術部に入ると言ったとき、その日のうちに画材屋へ連れていってくれた。値札を見ないで買い物をする梓さんは、あとにも先にも、あのときしか見ていない。
夕飯と風呂を済ませたあと、部屋には戻らずに、リビングのソファに座った。テレビをつけてサブスクを開き、検索窓に『ゴースト』と打ちこむ。出演者の欄に『成瀬雫』の名前を見つけて、再生ボタンを押した。
幽霊の見える女の人が探偵をする、ミステリーだった。僕にとって、ドラマはほとんど朗読劇だ。人物の顔は全部黒く塗り潰されていて、誰が誰なのかは声で聞き分けるしかないし、表情は台詞と間で補うしかない。そのぶん、演技がうまいか下手かは、むしろ分かりやすかった。作った声は、すぐに剥がれる。台詞の頭に力を入れすぎる人、いつも同じところで息を吸う人、ここで泣くのだと分かっている泣き方をする人。全部、音に出る。
白石小春の声には、それがなかった。黙っているあいだにも重さがあって、声を出していないときも、ちゃんとそこにいる。背中が、ソファの背もたれから浮いた。これがプロの役者なのか。
しばらくして、成瀬雫の出番が来た。スピーカーから聞こえてきた声は、いつも隣で聞いている中原さんの声よりずっと低くて、冷たかった。まだ幼い響きは残っているのに、白石小春の芝居に食らいついて、自分の役の場所を少しも譲っていない。
妹は、姉に化けて出る。生きているうちに言えなかったことを、鏡の向こうから言う。その台詞を、中原さんは声を張らずに言った。恨みも悲しみも、はっきりとは乗せない。美術室で笑う彼女と同じ喉から、その声は出ていた。巻き戻して、同じ場面をもう一度再生する。
何度か見返すうちに、中原さんの息継ぎが、台詞ごとに違う場所にあることに気づいた。その一言のために、そこで吸っているのが分かる。あの細い体のどこからこんな声が出るのだろうと考えているうちに、気がつくと、膝の上でデッサン帳を開いていた。
何を描こうとしていたのか、自分でも分からない。画面には黒い靄が並んでいるだけで、描けるものなんて何もない。ページは開いたままで、右手には鉛筆がある。しばらく白い紙を見ていて、それから、線を一本引いた。
グラスの縁。汗をかいたガラスの丸みと、差しこまれたストロー。そこまで引いて、線を外側へ延ばした。グラスを掴んでいた手を描く。爪は短く切ってあって、右の人差し指の第一関節に、小さな絆創膏が貼ってある。親指の付け根の骨が、握るたびに浮く。
線が止まらなかった。描き終えて、鉛筆を置く。紙の上に、グラスを持つ手がある。小学生のときにやめてから、人は描いてこなかった。
顔がないのだから人を描いたことにはならない、と自分に言い聞かせる。消しゴムに手を伸ばしかけた時、
玄関のほうで、ガチャガチャと騒がしい音がした。鍵穴に鍵を乱暴に差しこもうとする音に続いて、ガンッ、という鈍い音と、痛っ、という間の抜けた声が聞こえる。
「たっだいまぁ……」
疲れきったハスキーな声がして、頭を掻きながら姉の怜奈がリビングに入ってきた。相変わらず、ろくに連絡もしないでいきなり帰ってくる。目が痛くなるくらい明るい金髪だった髪が、今度は鮮やかなピンクになっていて、声を聞かなかったら僕には誰だか分からない。
「おかえり。相変わらず突然だね」
「んー……あー、だる……」
「今、玄関で何かした?」
「してない」
「結構音したけど」
「ドアが勝手に動いたの」
怜奈はボストンバッグを放り投げて、ソファの空いているところに倒れこんだ。
「一週間くらい居座るから、よろしく……」
「珍しいね。いつもすぐいなくなるのに」
「次の作品まで丸々オフなの。やっと休める……」
アルコールの匂いに混じって、嗅ぎ慣れない香水が香った。クラスの女子がつけている、お菓子や花みたいな甘さとは正反対の、大人の男の人がつけていそうな匂いがする。
「……また香水変えた?」
怜奈はだるそうにバッグを引き寄せた。中を探る手が、化粧ポーチや充電器らしきものにぶつかって、ごそごそと音を立てる。やがて取り出したのは、手のひらより少し大きい木箱だった。
「これ。撮影の合間に買ったんだけどさ」
蓋を開けると、中から角柱のボトルが現れた。銀色のキャップには細かな削り跡が残り、透明な瓶の正面には、金色のラベルが貼られている。
「キャップは亜鉛でできてて、職人さんが一つずつ手作業で仕上げてるんだって。ボトルも三人の職人さんが一緒に作るらしいよ」
怜奈はキャップを指先でつまみ、少し傾けた。光の当たり方で、金属の表面が鈍く光る。
「ディレクターさんが直々に接客してくれてさ。作ってるものの話を聞いてたら、なんか応援したくなっちゃってさ。ほら、私も作る側の人間だし」
怜奈は、ボトルをいとおしそうに撫でる。女の人がつけるには強すぎる香りなのに、彼女には似合ってしまう。
このどうしようもない酔っ払いが、映像制作の個人事務所『NEØN』を主宰する天才映画監督だと持ち上げられて、軽く億を超える額を稼いでいるのだから、世の中は分からない。
両親が残した借金も、怜奈が稼いだお金で一括で返した。今でも梓さんあてにかなりの額を仕送りしているけれど、倹約家の梓さんは、もったいなくて使えないわよ、と困った声で笑って、ほとんどを貯金に回している。
せめて顔くらいは悪くあってくれれば救いがあるのに、監督の仕事のかたわら、モデルまでやっている。小さいころ、怜奈の顔はきれいに整っていた気がするけれど、今となっては、その記憶もあやふやだ。
「さくがドラマ見るなんて、珍しいじゃん」
クッションを抱えたまま、怜奈がテレビを指さした。ろれつが少し回っていない。
「たまたま。同級生が出てるから」
「えー。何、好きな子?」
「……ただの同級生だって」
「今、めっちゃ間あったけど。私、それで飯食ってる人間なんだから」
適当にあしらいながら、喫茶店でのことを思い出す。本当は、姉が映画監督だということを話したほうがよかったのかもしれない。でも、中原さんが憧れている世界に僕の家族がいると知られたら、この一ヶ月でできてきたものが形を変えてしまう気がして、言えなかった。
そのとき、テレビから成瀬雫の声が聞こえてくる。
隣で、怜奈が体を起こした。さっきまでのだらしなさが消えて、まっすぐ画面を見ている。
「……いいね、この子。表情管理完璧だし、セリフない時間の使い方も分かってる」
そう言うなり、怜奈は手元のスマホを素早く操作しはじめた。
「事務所ミラなんだ。んー……ちょっともったいないかな」
画面から顔を上げる気配がして、いつもの飄々とした調子が戻ってきた。
「……この子、伸びるかもね。仲良くしとけば」
語尾がほとんど溶けていた。本気なのか、酔って口が滑っただけなのか、聞き返す暇もない。
怜奈はふいっと顔を背けて、深いため息をひとつついた。その拍子に、また香水の匂いが広がる。返事も待たずに、抱えていたクッションに顔を埋めた。
「怜奈?」
声をかけてみても、寝息しか返ってこない。さっきまでの鋭さは、もうどこにもなかった。仕事と酒に疲れきった人が一人、転がっているだけだ。毛布をかけて、テレビの音量を下げた。ついでに、ボストンバッグから半分こぼれ落ちていたコスメを押し戻す。
明日の朝、これを見た梓さんが、笑いながら全部片づけてしまうのだろう。画面の中では、成瀬雫がまだ誰かに話しかけている。顔は見えないのに、声が震えているのは分かった。膝の上のデッサン帳には、さっき引いた線が残っている。
明日、美術室で中原さんに会ったら、あの手をもう一度見ることになる。そう思ったとたん、心臓の打ち方が変わった。




