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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第二章「彩色」
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幕間 二 

 電車の座席に浅く座って、マスクの下で、口の中に残っている甘さを転がしていた。クラフトコーラのスパイスはしつこくて、舌の奥のほうに生姜みたいな辛さがいつまでも居座り、唾を飲みこんでも消えてくれない。私が頼んだアイスコーヒーは、神崎くんが全部飲んで帰った。苦いとも、まずいとも言わずに、ふつうの顔で。


 あのアイスコーヒーは、黒川瑠依が現場でいつも頼んでいると聞いたから頼んだ。その程度のことで、私はすぐに人の真似をする。前髪の分け目も、写真を撮られるときの首の傾け方も、全部よそから持ってきて貼りつけたもので、貼りつけたものを指さして、これが私です、と言っている。馬鹿みたいだ。思いながら、明日の朝もたぶん、同じところで前髪を分ける。


 白石小春からは、顔を取った。取れるものが、全部そこに揃っていたからだ。毎朝、鏡の前で指に覚えさせた。人の顔の角度を、自分の指に覚えさせる。言葉にしてみると、ちょっと気持ち悪い。


 黒川瑠依からは、何も取れない。彼女の芝居には、手順が見えないのだ。どこで息を吸って、どこで目線を外しているのか、何度見返しても継ぎ目が見つからない。見えないものは真似のしようがないから、せめて飲み物を真似する。同じものを喉に通せば、少しは近づける気がした。


 近づけたことは、一度もない。


 舌がしびれるくらい苦かった。コーラフロートを勧めているときのほうが私らしかった、と神崎くんは言った。何も見えていないくせに。見えていないくせに、なんでそこだけ当ててくるの。


 初めて美術室を訪ねた日、彼は、初対面の人に向ける声で私の名前を聞いた。顔ぐらいは覚えててほしかったかな、と冗談みたいに返したけれど、そのあとは唾を飲みこむのにも苦労した。二週間も、隣で同じ桜を描いていたのに。


 そのすぐあとで、彼が人の顔を分からないのだと知った。黒く塗り潰された英語の教科書を差し出されたとき、最初に浮かんだのは、助かった、だった。ひどいと思う。手を震わせながら打ち明けてくれた人の前で、真っ先に自分の都合を数えていたのだから。


 神崎くんは、私の顔を見ていない。だから彼が私を見るとき、そこに成瀬雫はいない。顔で選ばれないということは、顔で捨てられないということでもある。私を打ちのめしたはずのことが、そのまま私の逃げ場になった。あのとき息がひとつ楽になったのを、彼は知らない。


 鞄の底で、台本が重い。表紙には仮のタイトルと、その下に、主演として私の名前が刷ってある。春に決まって、情報は七月まで出せないと言われている。それまでは、事務所と家族と現場の人のほかには誰にも言えなくて、優子も美奈も、杉本くんも、神崎くんも知らない。


 言えないものを抱えて学校へ行くのは、初めてではない。慣れている。慣れているから、順番だけは決めてある。出していい日が来たら、最初に神崎くんに言う。この学校でいちばん最後に私を知った人が、いちばん最初に聞く人になる。それくらいの自分勝手なら、許されてもいいと思う。


 電車がホームへ滑りこんでいく。ドアの前に立ったところで、美術室の隅の、古い傘立てを思い出した。忘れられた置き傘が押しこまれた塊のいちばん手前に、黒い傘が一本だけ立っていて、誰のものかも分からないまま、まだそこにある。


 マスクの位置を直して、ホームへ降りた。

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