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ソファの上で、怜奈は寝息を立てていた。起こさないように途中でテレビを消して、続きは自分の部屋のタブレットで見ることにする。カーテンを閉めた部屋で、タブレットの明かりが剃刀のような光を放っている。
終盤で、妹の死んだ理由が明かされる。姉はまだそれを知らないまま、鏡の前で髪を梳かしていて、妹はその後ろに立っているだけで、ひと言もしゃべらない。音量を上げると、衣擦れと、櫛が髪を通る音が聞こえた。その下に、ごく浅い呼吸がひとつ混ざっている。たぶん、妹のものだ。
顔の見えない僕にとって、台詞のない場面はいちばん分が悪いはずだった。画面には黒い頭が二つ、鏡の前に並んでいるだけなのに、妹が何を言わずにいるのかが分かる。同じ場面を三回見て、四回目の途中でタブレットを伏せた。
カーテンの隙間が、いつのまにか灰色に明るくなっている。新聞配達のバイクが家の前で止まって、また走りだしていった。
膝の上では、デッサン帳が開いたままになっていた。夜のうちに引いた線が残っている。グラスを掴んでいる手と、人差し指の絆創膏。目を閉じる前に、もう一度そのページを見た。消えるはずがないと分かっていても、確かめておきたかった。
ほとんど眠らないまま、家を出る。午前中の授業は覚えていない。黒板を写したはずのノートは、途中から字にならない線になっていて、昼に何を食べたのかも出てこない。放課後、美術室の自分の椅子に座ったときには、それだけで一日分の仕事を終えた気がした。
部屋の隅では、安田さんと室井先輩が漫画を机に積み上げて読んでいる。開けたポテトチップスの袋に、ときどき手が入る。
「神崎、顔色やばくないですか」
漫画の向こうから、室井先輩の声がした。
「徹夜で、ドラマ見てたので」
「青春ですねぇ」
室井先輩の手元には、漫画に混ざって描きかけのデッサンが一枚あった。誰かの横顔らしい。首から上は、僕にはいつもどおり黒い。
「それ、受験の課題ですか」
「そうです。今月中に人物を一枚。先生、受験組にだけ厳しいんですよ」
「誰を描いてるんですか」
「弟です」
安田さんが袋から手を抜いて、隣を覗きこんだ。
「弟さん、モデルやってくれたんですか」
「やるわけないでしょう。中三の男子が、姉のためにじっと座ってると思いますか」
「じゃあ写真ですか」
「頭の中の弟です」
安田さんが黙った。
「先輩。それ、デッサンって言わないですよね」
「ばれなきゃいいんです」
「ばれますって。先生、そういうとこだけ目がいいんで」
「そのときは謝ります。全力で」
「去年も同じこと言って、正座させられてませんでした?」
「させられたんじゃありません。自分から座ったんです。全力の謝罪なので。なんなら土下座もしました」
先輩は漫画のページをめくった。鉛筆を持った手のほうは、そのあいだも止まらない。首から肩へ落ちていく線に、迷いがなかった。本当に器用な人だなと思う。
自分の机でデッサン帳を開いた。夜のページは飛ばして、後ろのほうから白いところを探す。削った鉛筆を何本か並べて、練りゴムをちぎって指で丸めた。
そこから先の記憶が、ぷつりと途切れている。
「うわっ!」
耳たぶに冷たいものが押しつけられて、椅子ごと跳ねた。柑橘の匂いがする。隣の椅子に中原さんが座っていて、その手に、水滴のついたサイダーの缶があった。
「びっくりした……心臓止まるかと思った」
「ふふ。気持ちよさそうに寝てたから、つい」
悪いとは、あまり思っていないらしい。ゆうべ画面の中で、鏡の向こうから話しかけていた声より、高くて軽い。机の上には鉛筆と練りゴムが並んだまま、何も描いていないページが開いている。鉛筆を並べたところで、眠ってしまったらしい。
部屋の隅を見ると、安田さんも室井先輩も、漫画の山ごといなくなっていた。さっきの二人も幻だったのかもしれない。あの二人に常識を求めるのは、間違っている。
「はい、差し入れ」
礼を言って受け取った缶は冷たくて、指についた水滴が手首まで流れてきた。
「お昼のときも、ずっと眠そうだったよね。一緒に食べたの、覚えてる?」
「……半分くらいなら」
「重症だ」
言われて、切れ切れに戻ってくる。奏多が僕の顔の前で手を振って、生きてるか、と聞いたので、生きてる、と答えた。中原さんが飲み物を買いに出ていたあいだに、奏多が声を落として言ったこともある。
『お前さ、最近ちょっと変わったよな』
何が、と聞き返すと、奏多は、いや、いいけど、と言って話をやめた。その先は、思い出せない。
プルタブを起こして、ひと口飲む。炭酸が喉に当たって、ぼやけていた頭が少しずつ戻ってきた。
「夜更かしでもしたの」
「昨日言ってたドラマ、見てた。最後まで」
「……うそ、ほんとに見たの」
声が裏返った。それから、しばらく何も言わない。
「……ど、どうだった」
何でもないふうに聞こうとして、早口になっている。
「面白かった。止めるところが分からなくなって、気づいたら朝だった」
「ほんとに? 気、使ってない?」
「気なんか使う余裕なかった。すごすぎて、ちょっと怖かったくらい」
「いちばん怖かったの、どこ?」
「病室の鏡のところ、かな」
中原さんの肩が震えて、それから、こらえていた笑い声がもれた。
「もっとあるでしょ。泣けるとことかさ」
「本当に怖かったんだって。鏡から出てくるとこ」
「あれ、ホラーじゃないんだけどなあ」
「僕の中では、今年いちばんのホラーだった」
「褒められてるのか分かんないんだけど」
笑う声が、だんだんいつもの高さに戻っていく。
本当は、別のことを言いたかった。台詞の終わりで、息が少し余ること。妹が姉に、ずっと言えなかったんだけど、と切り出す場面では、声をだんだん落としていく。落としていくから、その先に何かがあると分かる。あそこは、何度も戻して聞いた。
誰かの仕事についてちゃんと話すには、話す側にも練習が要るのだと思う。線なら引けるのに、同じことを言葉でやる方法を、僕は知らない。
言えないことは、もうひとつあった。画面の中の人は、声の高さも、息をつく場所も、いつも聞いている中原さんと重ならなかった。隣にいる人が、あそこまで行ける。
黙って缶を見ていると、中原さんの頭が窓のほうへ動いた。
「感想、言いにくいやつ見せちゃったね」
「そんなことないよ」
返事の代わりに、椅子の脚が床を擦る音がした。開けた窓から、湿った風が入ってくる。
「……でもやっぱり、顔を見てもらえないのは、ちょっと寂しいかも」
演じる仕事は、顔を見せる仕事だ。声だけでも届くことは、ゆうべ思い知った。中原さんがたぶん毎日、鏡の前でつくっている顔のほうを、僕は一度も受け取ったことがない。
「はい、その顔禁止。今、謝ろうとしたでしょ」
手のひらを向けて、止められる。
「謝ってほしいわけじゃないの。私が言いたかったのは、そういうことじゃなくて」
そこで話が途切れる。続きを探している時間が長い。
「……まあ、いいや。忘れて」
忘れられるわけがない。黙ってサイダーを飲んでいると、中原さんが立ち上がって、棚のいちばん上を指さした。
「ねえ、あれも見えないの?」




