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中原さんの指の先、棚のいちばん上で、石膏像が埃をかぶっていた。
「……見えない」
「石膏なのに? あれ、人じゃないよ」
「人じゃなくても、人の顔の形をしてるとだめなんだ」
扉が開いて、安田さんが顔だけ入れてきた。
「漫画忘れた」
「私もです」
後ろから室井先輩も入ってくる。机に積んだまま出ていったらしい。安田さんが背表紙を揃えながら、あ、と声を上げた。
「そうだ神崎。先生が、都のコンクールに部から一人出せって」
「聞いてないけど」
「まあ、今言ったからね」
室井先輩が、これです、と言って紙を一枚僕の机に置いた。搬入の日付が、枠の中に太く印刷されている。
「神崎しかいないじゃないですか」
「先輩が出ればいいじゃないですか」
「私は受験生なので」
「先輩が受験勉強してるとこ、見たことないですけど」
「心の中でしています」
「じゃあ、安田さんは」
「私、締切あると描けなくなるタイプだから」
「……それ、美術部員が言っちゃだめなやつだよ」
押しつけ合っているふりをしているだけで、答えは最初から決まっていた。要項を裏返して、また表に戻す。
「まあでも、あそこの審査は好みが出ますよ」
室井先輩が漫画を抱え直した。
「去年、同じ中学だった子が出したんです。人物画で、顔だけ描かなかったやつ」
「顔だけ描かないって、ありなんですか」
「本人はそうしたかったみたいです。抽象っぽく」
「どうなったんですか」
「未完成って言われて落ちました。講評に、人物画として成立していない、と」
安田さんがポテトチップスの袋を丸めた。
「でも、ちょっと分かります。顔がないと、誰描いたのか分かんないですもんね」
「そうそう。人物画は顔ですよ、顔」
隣で、中原さんの椅子が小さく鳴った。僕は要項の日付を見ていた。人物画の話は、僕には関係がない。出すとしたら、たぶん風景だ。
「じゃ、期待してますよ。次期部長」
二人が漫画を抱えて出ていくと、部屋がまた広くなった。
「……で、さっきの話だけど」
上履きの音が、棚の前まで行って止まった。
「近くで見てみようよ。下ろしてあげる」
「いいよ、重いから」
中原さんが椅子に片足をかけたので、慌てて止めた。結局、僕が下ろすことになった。両腕に、ずしりと重さがかかる。冷たくて硬いのに、角をぶつけたら簡単に欠けそうな白い塊。慎重に運んで、机の上の、開いたままのデッサン帳の前に置いた。埃を払うと、指先が白くなる。
首から下がないので、ほかの人には、切り落とされた頭が机に載っているように見えるのだろう。僕の目には、黒く塗り潰された顔の下に、白い首が続いているだけだ。見えないものは、不気味にもならないし、なれない。
「私さ、目つぶってお芝居する練習、したことあるんだ」
「そんな練習あるんだ」
「相手の顔を見ないで、声と気配だけで返すの。目閉じてても、けっこう分かるんだよ。相手がどこにいて、どっち向いてるか」
「それが、どうしたの」
「触ったら分かるんじゃないかなって。顔も」
聞き間違いかと思った。
「触って描くってこと?」
「うん。全部触って、それで描くの」
馬鹿げている。触ったところで見えるようになるわけじゃないし、そのくらいは分かっている。
断るつもりで口を開いて、言葉が出てこなかった。ゆうべ、僕は中原さんの手を描いている。あのときも、手本は目の前になかった。覚えていたものを、紙に置いただけだ。だとしたら、指で拾ったものを置くのと、何が違うのだろう。
左手を伸ばして、黒く塗り潰された顔に触れた。ざらついた石の手触りと、冷たさが指に来る。眉間の盛り上がりと、深くくぼんだ眼窩。なぞるたびに、形が頭に入ってくる。ここが高くて、ここで落ちる。鼻梁は途中で一度、ごく浅く反っていた。上唇は薄くて、下唇は厚い。人の顔がどんな起伏をしているのか、知っているつもりで、何も知らなかった。
右手に鉛筆を持って、紙に向かう。左手が拾ったものを、そのまま置けばいい。最初の線を引いたところで、紙の上が黒く濁りはじめた。触っているのは石だ。指の下にあるのはただの凹凸で、人間ですらないのに、顔として描こうとしたとたん、黒が湧き立つ。なぞればなぞるほど、紙の上の線が意味をなくして、穴になっていく。
息が速くなった。吸っているのに、足りない。心臓が内側から肋骨を叩いている。こめかみを汗が伝って、鉛筆の先が紙の上で細かく震えた。引いた線が、引っかき傷にしか見えない。手を離せばいいのに、左手は石膏に貼りついたまま動かなかった。
「私がいるから、大丈夫だよ」
背中のすぐ後ろに、中原さんが立った。石膏の上の僕の左手に、中原さんの手が重なる。細くて、乾いている。手のひらは石に冷やされたままなのに、甲の側だけが温かい。髪が肩に触れて、柑橘の匂いがした。耳のすぐ近くで、中原さんが息をしている。
「力、抜いて。息は止めないで」
言われたとおりに、息を吐いた。
「右手は勝手に動かしていいから。見ないで」
見ないで、と言われて、目を閉じた。閉じたとたん、部屋の音が近くなる。グラウンドのほうから、野球部の掛け声が聞こえた。近くには、中原さんの呼吸がある。
中原さんの手が、僕の左手を動かしはじめた。まず額。生え際のあたりから、真ん中へ。それからゆっくり下りて、眉の稜線を横へなぞる。骨の形が分かる。皮膚がないというのは、こういうことか。眼窩の縁で、指が一度止まった。
「ここ、深いでしょ。顔って、ここがいちばん影になるんだって。前に照明さんが言ってた」
くぼみの底へ、指を落とされる。思っていたより、ずっと深い。人の目は、こんな穴の底に収まっているのか。右手が動いた。自分で動かしている感じがしない。左手で拾ったものが、腕を通って紙へ出ていく。線が長くなったり短くなったりするのが、鉛筆の音で分かった。
鼻梁へ。指の腹が稜線を滑り降りて、小鼻のふくらみで一度浮く。その下の小さなくぼみを越えて、上唇の山に触れたところで、中原さんの手に力が入った。
「……ここ、ちょっと待って」
「どうかした?」
「ううん。なんでもない」
なんでもないと言ったのに、指はそこから動かなかった。唇の合わせ目に、僕の指先が置かれたままになっている。中原さんの体重が、少し前に来た。肩と肩が触れて、触れたまま離れない。身を引くべきなのか、じっとしているべきなのかを決められずにいるうちに、野球部の掛け声が止んでいた。
背中の近くで、中原さんが呼吸している。それが自分の呼吸と揃っていくのが分かって、僕はそのことばかり考えていた。
手が離れたとき、美術室は西日で一面の茜色になっていた。中原さんが一歩下がって、椅子を引く音がした。
「……ちょっと、疲れちゃった」
おそるおそる、紙を見た。
左右の目の高さが違う。鼻筋は途中で切れていて、唇の線はあらぬ方向へ逃げている。石膏の起伏を追ったはずなのに、人の顔とは似ても似つかない。顔になりそこねたから、黒くならずに済んだのだと思う。
中原さんは紙の上に身を乗り出して、しばらく黙っていたかと思うと、いきなり吹き出した。
「……ぷっ、あはは! ごめん、神崎くん。これ最高!」
お腹を抱えて笑っている。
「見て、この口。ひょっとこみたいになってる」
「……笑いすぎ。けっこう頑張ったんだけど」
「だって、あんなに真剣だったのに」
「そこを言われると、立ち直れない」
うなだれてみせたけれど、笑い声につられて、こっちの肩まで揺れていた。笑いがおさまると、中原さんは紙の端に人差し指を置いて、歪んだ唇の線をなぞった。
「でも線はきれいだよ」
「そこだけ褒めるのやめて」
「ほんとだって。線、震えてないもん。緊張してる人の手、現場でいっぱい見てるから分かるの」
中原さんは、そこで少し黙った。
「私さ、初めて現場に行ったときの動画、まだ持ってるんだ。小四のとき。事務所のオーディション受かって、CMのエキストラみたいなやつ。棒立ちで、目線ぐらぐらで、ひどいの」
「消したくならないの」
「ならない。これからも消さない」
中原さんは紙から指を離した。
「あれ見ると、私はちゃんと下手だったんだなって分かるから。昔下手だったってことは、今はちょっとはうまくなってるってことでしょ。……この絵、もらってもいい?」
「え。こんな失敗作を?」
「失敗作じゃないでしょ」
窓の外は暗くなりかけていて、蛍光灯の白い光が中原さんの手元を照らしている。
「神崎くんが見ようとしたのが、ここに残ってるんだから」
ミシン目に沿ってページを切り取って渡すと、中原さんはそれを四つに折った。折り目を指で押さえてから、鞄のいちばん奥へしまう。
「返してって言っても返さないからね」
「……言わないよ」
椅子に座ったまま、自分の左手を見ていた。甲の側に、まだ中原さんの手の感触がある。顔の見える人どうしなら、今日みたいな回り道はしなくていいのかもしれない。見て、笑い返せば、それで済む。
「左手、どうかした?」
帰り支度を終えた中原さんが、覗きこんでくる。
「いや、なんでもない」
鞄を肩にかけて、美術室の鍵を閉めた。並んで階段を下りていく。
「さっきさ」
踊り場で、中原さんの足が止まった。
「途中で一回、手が止まったでしょ。なんで止めたか、分かる?」
「……分からない」
「なんかね、急に、これでいいのかなって思ったの。人の顔の形を、私が神崎くんに教えてるのって」
「教えてもらってるつもりだったけど」
「あのさ。監督に、ここで振り返って、って言われて振り返るじゃん。あれって、私が振り返ったことになるのかなって、たまに思うんだよね」
手すりを指が滑っていく音がした。
「今の、それだった気がして。神崎くんが触ってたのは石膏だけど、動かしてたのは私の手だから」
あのとき紙に出ていったのは、僕が拾った形だったのか、中原さんに拾わされた形だったのか。
「……それって、失敗ってこと?」
「違うよ。次は、自分で触ってほしいなって思っただけ」
校門を出ると、街灯がつきはじめていた。中原さんが鞄から黒いマスクを出す。僕は足を止めて、昨日と同じ距離が開くのを待った。中原さんは数歩先で振り返った。
「今日はいいや。もう暗いし、誰もいないし」
マスクは耳にかけたままだ。手招きされて、歩幅を広げる。隣に並ぶまでに、少しかかった。どのくらいの間隔が正しいのかが分からない。近すぎる気がして半歩空けると、中原さんが半歩詰めてくる。二人ぶんの足音が、アスファルトの上で重なった。しばらくは、その足音を聞きながら歩いた。
住宅街の細い道で、電柱の影が交互に足元を過ぎていく。
「神崎くんって、家族何人?」
「三人。姉と、僕を育ててくれた叔母さんと」
言ってから、そこで止めておくべきだったと思った。
「……お父さんとお母さんは」
「いない」
平らな声が出た。
「あ……ごめん」
「いいよ。小さいころだから」
これまで何度も、同じ言い方でやり過ごしてきた。それが理由になっていないことは、僕がいちばんよく知っている。どうやって死んだのかも、どんな人たちだったのかも、言わなかったし、言うつもりもない。中原さんも、そこから先は聞かなかった。
「うちはお母さんが元気すぎるの。私より、私のスケジュール覚えてる」
「それは、すごいね」
中原さんは笑ったけれど、その先は続けなかった。交差点の信号が赤で、二人で並んで止まる。中原さんのスニーカーのつま先が、白線の少し手前でそろっている。
「ねえ。今日、私の手、あったかかった?」
信号が青に変わった。答えないまま歩きだして、数歩ぶん遅れてから答えた。
「……うん。手の甲のほう、まだ残ってる」
駅の明かりが見えてくると、中原さんは半歩ぶん離れた。マスクの位置を直して、あの十メートルへ戻っていく。改札の前で一度こっちを向いて、手を振った。
帰り道、左手だけをずっとポケットに入れて歩いた。




