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家に着くと、まっすぐ二階の自分の部屋へ上がった。机のライトをつけて、デッサン帳を開く。最初に、ゆうべのページを探した。グラスを掴んでいる手が、描いたときのままそこにある。
新しいページを開いて、いちばん柔らかい鉛筆を握った。同じ手をもう一度描けるのか、確かめたかった。グラスの丸みから入って、指を回していく。爪は短く切ってあって、人差し指の第一関節に絆創膏がある。ゆうべより早く描けたし、線にも迷いがない。あれは、まぐれではなかったらしい。
手のまわりに、喫茶店を足していった。
テーブルの上のコーラフロート。分厚いグラスに細かい水滴がびっしりついていて、ペンダントライトの明かりが、その一粒ずつに映っていた。赤茶色の中で丸いアイスの縁が溶けて、泡と混ざっていく。てっぺんのミントの葉と、シロップ漬けのチェリーも覚えていた。
次は制服を描いた。椅子に座ったときに肩口に寄る布のたるみと、襟元にできる三角の影。テーブルに置かれた手首。肩に落ちた髪のひと房が、毛先だけ内側に巻いていたことも覚えている。西日が店の隅に溜めていた影も、紙の上に置いた。
中原さんのまわりにあったものは、何ひとつ忘れていない。いける、と思った。このまま行けば、届く。
鉛筆を、顔のあるはずの場所へ向けた。
そこで、全部が止まった。さっきまではっきりしていたものが、急にぼやけていく。声が弾んでいたことは分かっている。アイスコーヒーにむせて喉を押さえていたことも、困ると首が少し傾くことも、ちゃんと受け取ってきたはずだった。それを線にしようとしたとたん、どれも形をなくしていく。
歯を食いしばって、無理に鉛筆を動かした。顔の外側の線は、このあたりだったか。前髪のあいだの肌は、もっとなめらかだったはずだ。仮面の穴の奥に一瞬だけ見えた、琥珀色。あれをもう一度、と思ったところで、鉛筆の先が紙を汚しはじめた。練りゴムを押しつける。消せば消すほど、汚れのほうが厚くなっていった。
気がつくと、描きこんだコーラフロートと制服のまんなかに、黒い溜まりができていた。こすれた鉛筆の粉が、あの黒とそっくりの色をしている。
「……違う」
ページをめくって、描き直す。今度はまわりを描かずに、中原さんだけにした。外側の線だけ取って、中は空けておけばいい。結果は同じだった。線を閉じようとすると、閉じた内側が黒く沈む。うつむかせて、前髪で目のあたりを隠すことにする。隠してしまえば、顔は描かなくて済む。前髪を描いている途中で、それなら何のために描いているのかと思い、鉛筆を紙から離した。
絵のことでなら、顔が見えなくても、これまでどうにかやってこられた。見えなくなった日から、世界はそういうものだと思うことにしている。見えないものは、無理に見なくていいし、描かなくていい。背景と光を描いて、その場の湿り気まで紙に写せば、それで一枚は終わる。そうやって、欠けているところと折り合いをつけてきた。
今は、描きたかった。あのとき中原さんがどんな顔をしていたのかを、この手で確かめたい。寂しい、と言ったときの口元を。私がいるから大丈夫だよ、と言ったときの目を。鉛筆を持つ指に、力が入る。
鉛筆を握りしめて、力まかせに一本引いた。芯の折れる音がして、紙が裂ける。顔のあるはずの場所を、まっすぐ割る傷になった。ページを掴んで、綴じ目から引きちぎる。丸めて、床に投げた。
次のページも、その次も、同じことになった。黒く汚れたページを、一枚ずつ剥がしていく。足元に、丸めた紙が増えていった。描きたいと思うほど、描けないことがはっきりしていく。
折れた芯が指先に刺さって、小さな赤い点がにじんだ。床に散らばった紙の中で、指先や髪のひと房だけが、ばかみたいにきれいに描けている。
最後に、最初のページが残った。コーラフロートと制服を描いた、あのページだ。綴じ目から外して、上の端から裂いていく。裂け目は黒い溜まりのまんなかを通って、グラスを掴んでいる手の少し上まで来た。そこから先を、破れなかった。
床の紙を拾い集める。丸めたものも、細かくちぎれたものも、全部重ねる。捨てるつもりで立ち上がって、紙の束を抱えたまま、ごみ箱の前に立っていた。机に戻って、いちばん下の引き出しを開ける。中には何も入っていなかった。破りかけのページを底に伏せて、その上にほかの紙を重ねる。
閉める前に、もう一度だけ中を見た。ちぎれた紙の下に、手の絵が伏せてある。
人の顔を、描けるようになりたい。
見えなくなってから、そんなことを思ったことは一度もなかった。願っても届かないものは、願わないようにしてきたのに。引き出しの取っ手に指をかけたまま、しばらく動けずにいた。




