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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第二章「彩色」
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8/11

7

「外出たら、ちょっと距離あけよ」


 昇降口のタイルの上で靴を履き替えていた中原さんが言った。僕が聞き返すより先に、言葉が足される。


「……一緒に歩いてると、撮られることあるから」


 俯いたまま、小さな声で言う。中原さんは厚底のスニーカーのつま先で床を軽く叩くと、僕の返事を待たずに外へ出ていった。校門を出る手前で、鞄のポケットから黒いマスクを出す。


 慣れた手つきで耳にかけると、一度だけこっちを確かめるように足を止めて、それから前を向いて歩きだした。最初は、どのくらいの距離が正解なのか分からなかった。近づきすぎれば歩くのを遅くして、離されそうになれば慌てて速くする。そうしているうちに、十メートルくらいの間隔が、僕たちのあいだに決まった。


 見失わないように、中原さんの背中だけを目印にして歩く。途中で人に紛れられると、一気に分からなくなるのが困る。背丈や髪の長さが似た人なら、いくらでもいる。頼れるのは歩き方の癖だけで、それも人混みの中ではすぐに消えてしまう。


 中原さんの肩の高さから、目を離せなかった。今ここで見失ったら、僕には彼女を探し当てられない。名前を呼ぶわけにもいかないし、呼んだところで、振り返った人が彼女なのかどうかを確かめる方法がない。


 その背中が、スマホを片手にこっちを振り返った。何かあったのかと思ったとたん、ポケットの中でスマホが震える。画面に『しずく』からのメッセージが出ていた。いつかの昼休みに、連絡先を交換したのだった。


『そのくらいで大丈夫』


 顔を上げると、中原さんはもう歩きだしていた。大通りに出ると、帰りの生徒と駅へ向かう人が混ざって、歩道は一気に混み合う。アスファルトに昼の熱が残っていて、シャツが汗ばんだ。肩が触れそうな距離ですれ違うたびに、避けようとして歩幅が乱れる。


 その合間に、中原さんが顔を横へ向けているのが見えた。停まっている車や、建物の陰へ首を巡らせて、すぐに前を向く。同じ動きを、何度も繰り返している。ビル風が吹き抜けて、中原さんの髪が肩で広がった。そっちに目を取られて足が遅れ、前から来た人と肩がぶつかる。


「すみません」


 頭を下げて謝っているうちに、中原さんの背中が少し遠くなっていた。人の流れを縫って、歩幅を広げる。駅前を過ぎて人が減ったところで、また通知が来た。


『右曲がるね』


 なんだかカーナビみたいだな、と思いながら角を曲がると、音がふっと弱くなった。さっきまで耳に残っていたざわめきが、背中のほうへ遠ざかっていく。建物どうしの間隔が狭くなって、そのぶん空が高く見えた。色褪せた外壁に沿って、閉まったままのシャッターが続いている。


 聞こえる足音が僕と中原さんの二人ぶんだけになって、錆の浮いたシャッターや、剥がれかけた貼り紙ばかりが目につくようになる。このまま進んでいいのか分からなくなって、前を見ると、中原さんは迷いなく歩いていた。遅れないように、同じ速さでついていく。路地の突き当たりで、中原さんが立ち止まった。


 まわりを見回して、それからこっちへ手を振る。手を振った先には、コンクリートの壁に埋めこまれた白い木のドアがあった。上には丸い大きな電球がひとつ取りつけてあって、曇ったガラスの中にアルファベットが浮かんでいる。足元には小さな植木鉢が二つ並んで、壁ぎわに立てかけた手書きの看板が、地面に影を落としていた。


「分かりにくいな、ここ。よく見つけたね」

「……撮影の帰りに、迷子になって」


 中原さんは金色のドアノブに手をかけた。重たい音のするドアを押して、二人で中に入る。ドアが閉まると、後ろで鈴が小さく鳴った。白いペンキで荒く塗られた壁と、グレーのモルタルの床。天井にはむき出しの梁が通っていて、簡素なペンダントライトがいくつか吊るしてある。


 香ばしいコーヒーの匂いが、ドアの内側にこもっていた。


「いらっしゃい。……おや」


 カウンターの奥から声がした。肩まで癖毛の髪を伸ばした男の人が、布巾でグラスを拭きながらこっちを見ている。マスターだろうか。


「珍しいね、雫ちゃんが男の子連れてくるの。彼氏?」


 からかうような口調に、隣を見られなくなった。何か言おうとしたけれど、中原さんのほうが早かった。


「違いまーす」


 中原さんはマスクを外しながら、店の奥へ歩いていく。僕はマスターに曖昧な会釈だけ返して、その背中を追った。同じ店に二回行くと覚えられちゃうから、と空き教室で言っていた人が、ここでは名前で呼ばれて、迷いのない足取りで奥へ進んでいく。


 店の中は、外から想像したよりずっと奥行きがあった。入り口のすぐ右のカウンターには、焼き菓子の並んだガラスケースが置かれていて、その横で銀色のノートパソコンが開いている。どこも古びているのに荒れた感じはなく、隅々まで手入れが行き届いていた。


 僕たちは、隅のテーブル席に座った。中原さんが三つ折りのメニューを開く。右の人差し指に、小さな絆創膏が貼ってあった。


 レモンスカッシュやクリームソーダといった見慣れた名前に混ざって、『ばらの花』や『銀座』という名前がある。名前の下には、詩みたいな紹介文がついていた。


「この『ばらの花』って、何」

「飲んだことない。名前だけずっと気になってるんだけど」


 名前の響きだけで、どんな味なのか、どんな見た目なのかが知りたくなる。


「ここのコーラフロート、すっごくおいしいんだよ」


 中原さんが顔を寄せて、小声で言った。声に熱が入っている。


「コーラも上のアイスも、マスターの手作りなの。クラフトコーラっていうのかな。スパイスが効いてて、甘さも控えめで……とにかく、市販のとは全然違うんだ」


 口を挟む隙がない。そこまで言うなら、と頷く。中原さんは満足したようにメニューを閉じて、背もたれに体を預けた。


「はい。お冷とおしぼりね」


 マスターがグラスと、丸めたおしぼりをテーブルに置く。グラスの表面に、細かい水滴が並んでいた。


「そういえば、雫ちゃん。この間、雫ちゃんがファンだって言ってた人が来たよ。黒川瑠依(くろかわるい)さんだっけ」

「えっ……!」


 椅子が鳴って、中原さんの体が前のめりになる。


「ほんとに!? く、黒川さんが、ここに?」

「ああ。あともう一人、女の子も一緒だったな。ボブくらいの髪で……名前は忘れちゃったけど」


 中原さんの体が、ぴたりと固まった。


「……ボブの子」


 声が低くなった。さっきまでの弾み方が、もうない。中原さんは鞄からスマホを出すと、すごい速さで画面を叩きはじめた。爪が画面に当たって、カチカチ鳴る。それから、スマホをマスターのほうへ突き出した。


「これ、白石小春さんですか」

「ああ、うん。この子だね」

「……嘘でしょ」

「ホント」


 中原さんはスマホを裏返してテーブルに置き、両手を膝にのせて、姿勢を正した。


「二人、何を飲んでました?」

「ええっと……黒川さんはアイスコーヒーで、もう一人の子はカフェラテだったかな」

「なるほど。黒川さんは、やっぱりイメージ通りですね。今日はアイスコーヒーでお願いします」

「あれ、コーラフロートじゃないの?」

「はい。今日はアイスコーヒーがいいんです」


 鉄の芯を無理矢理通したような、硬い声だった。


「……僕はコーラフロートでお願いします」


 僕がそう付け足すと、マスターは少しおかしそうに鼻を鳴らして、はいよ、と答えてカウンターの奥へ戻っていった。


 店の音が元に戻る。西日がモルタルの床をオレンジ色にして、中原さんの影が僕の足元まで伸びていた。


「……神崎くん、さっき笑ってたでしょ」

「笑ってない」

「絶対笑ってた。今も声が笑ってるもん」


 図星だった。僕が声で人を見ているのと同じで、中原さんも声を聞いているのだ。ごまかすように、冷たいグラスを手に取った。そのうちカウンターの向こうで氷のぶつかる音がして、マスターがグラスを二つ運んでくる。


 僕の前には、深い赤茶色のコーラに丸いアイスが浮かんだコーラフロートが置かれた。アイスの上には、ミントとシロップ漬けのチェリーがのっている。中原さんの前には、真っ黒なアイスコーヒー。


「お待たせ。コーラは下にシロップ溜まってるから、よく混ぜてね。……雫ちゃんは、本当にこれでいいんだね」

「もちろんです」


 中原さんは迷いなくストローをくわえて、一気に吸った。そのまま動かなくなる。ストローを上がっていく黒い色が途中で止まって、喉が小さく動いた。


「……中原さん?」

「ぐうっ……ああっ……」


 そんな声を出さないでほしい。マスターに聞こえるから。中原さんは両手で喉元を押さえながら、こっちを向いた。


「想像の三倍は苦い……こんなに容赦ないの?」

「無理するから。ガムシロップもらおうか」

「いい。大人の味だから」

「大人は無理して飲まないと思う」

「うるさい。今、私は大人になってる途中なの」


 中原さんは悲壮な覚悟でもしたみたいに、もう一度ストローに口をつけた。今度も、肩を小さく震わせる。テーブルの上の影が、僕のグラスのほうへ傾いている。


「……交換する?」


 僕が言うと、中原さんの体がぴくりと動いた。


「え、でも」

「コーヒー、嫌いじゃないし。それに」


 少し言いよどむ。


「コーラフロート勧めてるときのほうが、中原さんらしかったから」


 中原さんの指が、グラスの縁で止まった。グラスを見ているのか、僕を見ているのかは分からない。


「……そういうこと、言うのずるいよ」

「ごめん、聞こえなかった」

「なんでもない」


 中原さんが、グラスを手元へ引き寄せる。ストローの位置を直しているのか、指先が手間取っている。


「じゃあ。神崎くんがどうしてもって言うなら」

「どうしてもとは言ってないけど」

「言ったの。今、言った」


 グラスを入れ替える。中原さんのアイスコーヒーが、僕の前に来た。一口飲むと、たしかに苦いけれど、舌に焦げた豆の香ばしさが抜けていく。


「あー……やっぱこれ。生き返ります」


 中原さんの声が、一気にいつもの調子に戻った。


「黒川さん、これ飲んでたんだよね」


 僕が頷くと、中原さんは僕の前のアイスコーヒーを見ながら、やっぱり遠いなあ、と言った。


「いつか黒川さんと共演するのが夢なんだけど。まだ無理かな」

「僕も、中原さんのこと笑えないよ。安田さんたちのデッサン見て、いつも自信なくしてるし」

「そうだね。お互い、道のりは長そう」


 中原さんは、氷をストローで何度かつついた。


「あ、そうだ。さっきの白石さん、中学のときに『ゴースト』ってドラマで共演したことあるんだ。あの人が主演で、私はその妹役。美人なのはもちろんなんだけど、とにかく演技がすごくてさ。その場にいるだけで、全部持っていくっていうか」


 そこで中原さんは少し黙って、氷を鳴らした。


「……あの人みたいになりたくて、ずっと真似してたんだ。歩き方とか、間の取り方とか」


 声には、笑いも湿り気も混じっていなかった。


「今サブスクにあるはずだから、暇なときにでも見てみてよ。私の言ってること、すぐ分かると思う」

「分かった。探してみる」

「あ、私のシーンは飛ばしていいからね」


 照れているのだと思った。


「飛ばさないよ。中原さんが出てるなら」


 中原さんはストローの先をいじりながら、くすっと笑った。


「……神崎くんって、過保護だよね。妹にでもなったみたい」


 西日がさらに傾いて、店の白い壁を赤くしていく。モルタルの床の上で、僕たちの影がさっきより近くに並んでいた。中原さんが手洗いに立ったすきに、カウンターのほうへ目を向ける。マスターはグラスを拭く手を止めていて、体がこっちを向いていた。


 たぶん、さっきからずっとだ。


「絵、描くの」


 いきなり言われて、自分の指を見た。第二関節のあたりに、鉛筆の粉が残っている。


「……分かるんですか」

「手が汚れてたのと、雰囲気でね。あと、うちのメニューをあんなに真面目に読む子は珍しい」


 マスターは布巾をたたんで置いた。


「メニューに変なのがあるだろう。あれ、名前は借り物なんだ。僕が考えたわけじゃない」

「ばらの花、とかですか」

「そう。あれはね、注文されたことがほとんどない」

「どうしてですか」

「分からないものは、頼まないからね。みんな」


 それだけ言って、マスターはまた別のグラスを手に取った。僕はメニューをもう一度開いた。


 『ばらの花』の下には、短い文章が書いてある。味の説明はどこにもないし、何が入っているのかも書いていないのに、読み終えてからも、しばらく頭から離れない文章だった。


 いつか頼んでみようと思った。いつか。

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