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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第二章「彩色」
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6

 奏多は購買のパンを三つと牛乳を机に並べて、僕はおにぎりとお茶。隣では中原さんが、鶏の胸肉とブロッコリーだけの弁当を黙々と口に運んでいる。特別教室棟の空き教室は、昼のあいだだけ、僕たち三人のものになっていた。


 午後までもつのか心配になる量で、中原さんは購買のパンには手を伸ばそうともしない。修行僧、という言葉が浮かんだところで、考えるのをやめた。


「俺、購買のおばちゃんに名前覚えられたわ」


 奏多が牛乳を置いて、腕を組んだ。


「なんで」


 僕と中原さんの声が重なった。言い出すタイミングからトーンまで同じで、なんだか恥ずかしくなる。


「なんでって、毎日行ってりゃ覚えるだろ」

「そうじゃなくて。なんでそんな得意げなの」

「得意だろ。杉本くん今日カレーパンないよって、わざわざ教えてくれんだぞ」

「それ、在庫の話じゃん」

「言い方が違うんだって。あれはもう、俺の人生を心配してる声だった」

「パンで人生は心配されないと思う」


 中原さんが小さく吹き出した。奏多は言い返す言葉を用意しないまま、焼きそばパンの残りを口に押しこむ。


「……いいなあ」


 中原さんが箸を止めた。


「私、そういうの一個もない」

「行きつけ、作んねえの」

「作らないっていうか。同じ店に二回行くと、覚えられちゃうから」

「覚えられんのが嬉しいって話してたんだけど」

「私のは、ちょっと種類が違うんだよね」


 軽く言って、中原さんはブロッコリーをひとつ口に入れた。


「あ、でもコンビニの人には覚えられてる。三人いるんだけど、夜の人がいちばん袋詰め早いんだよ」

「そんなとこ見てんの」

「確かに……なんでだろ」


 僕はおにぎりを齧りながら、二人のやりとりを聞いていた。


「杉本くんって、科学部なんだよね。何するの、科学部って」

「なんもしねえ」

「なんもしない部活あるんだ」

「文化祭前だけ働く。あとは寝てる」

「じゃあ美術部と一緒だ」

「一緒にしないでほしいな」


 僕が口を挟むと、二人が同時にこっちを向いた。どうやら、二対一になったらしい。


「朔さあ、部活で真面目にやってんのお前だけって、自分で言ってたじゃん」

「言ってない」

「証人。雫ちゃん」

「……言ってた気がする」

「買収されてんだろ」


 中原さんの笑い声が、高く跳ねた。こういう時間に、僕はまだ慣れない。誰かと三人で昼を食べること自体、去年までの僕にはなかった。奏多と二人なら気を張らずに済むし、中原さんと二人でも、この一ヶ月でどうにか呼吸が合ってきている。


 三人になると話が三方向に飛び交って、どこで相づちを打てばいいのか分からなくなるのに、それが嫌ではなかった。中原さんが奏多と話すときの声は、僕に向けるものより高い。相手によって、声の高さが違うのだ。器用なのだと思っていたけれど、たぶんそれは癖に近い。


 それをどこで身につけたのかは、僕には分からなかった。


♢♢♢


 午後の退屈な授業が二つ終わるころには、教室の空気が眠っていた。机の上には皺の寄ったプリントと半分だけ閉じた筆箱が転がり、黒板の文字はもう誰も見ていない。チャイムが鳴ってようやくみんなが動きだし、鞄を肩にかけて廊下に出ると、笑い声と足音が飛び交っていた。


 ぼんやりした頭のまま、美術室へ向かう。日がすっかり長くなって、踊り場に落ちる影も短い。扉を開けると、いつもどおり誰もいなかった。開けっぱなしの窓から初夏の風が入って、カーテンを揺らしている。机の上には、先生が置いたのだろう、クチナシの鉢植えがあった。


 濃い緑の葉の先に、白い花が咲いている。甘くて重たい香りが、部屋にこもっていた。自分の席で頬杖をつくと、隣の空いた椅子が目に入る。中原さんは最近、撮影が立て込んでいて忙しそうだった。連ドラの脇役と、その合間にオーディションがいくつか入っているらしい。


 昼に会っても眠たそうだったし、午前中で早退したり、そもそも来ない日もあった。


 今日は、来ないのかな。


 机の細かい傷を、指でなぞる。待っているより、やることがある。デッサン帳を開いて、クチナシを描くことにした。


 ねじれて重なった白い花びらは、影も形も取りにくい。そのぶん練習になる。花の中心を軽く決めてから、外側の花びらを追っていく。手前の一枚は縁が内側に巻いていて、隣の花びらに潜りこんでいる。そこまでは拾えるのに、その先で形が途切れた。白い花びらは、光で縁が溶けているのだ。縁は追わずに、重なったところの影で取る。


 付け根に落ちる影をなぞって、線を一本置くたびにそこが花びらの縁になっていくのを確かめているうちに、時間の感覚がなくなっていく。窓の外の音も廊下の足音も、聞こえてはいるのに頭に入ってこなくて、人と話しているあいだずっと続けている、声と名前を照らし合わせる作業が、少しずつ遠のいていった。


 光の当たり方と影の落ち方なら、僕にも描ける。どちらも物のほうにある事実だからだ。この花は明日には少ししおれて、来週にはたぶん枯れている。今日この角度で光が当たっていたことは、それでも紙の上に残る。残せるものと残せないものの区別は、ずいぶん早いうちにつけてしまった。


 線を重ねているあいだも、隣の椅子が何度か目に入る。右腕が疲れてきたころ、廊下の向こうで足音が止まって、扉が開いた。足音が近づいてきて、すぐ後ろで止まる。振り返ろうとすると、肩を軽く押さえられた。


「そのまま」

「……何するの」

「目、つぶって」


 言われるままに目を閉じた。何も起きない。それから、耳のすぐ後ろで声がした。


「……誰か分かる?」


 声だけを聞かせているのだ。


「中原さん」

「なんで分かったの」


 答えようとして、言いよどんだ。声が少し高いとか、語尾が跳ねるとか、言おうと思えば言えるけれど、実際には、そんなことを考えるより先に名前が出ていた。


「……分かるよ、それくらいは」


 背中のほうで、パウチの封が指のあいだで鳴った。それから椅子が引かれて、中原さんはそのまま隣に座った。


「よかった」


 小さすぎて、独り言なのか僕に向けた言葉なのか、分からなかった。目を開けると、中原さんの手に細いパウチのゼリーが握られている。コラーゲンとビタミンなんとかが入ったやつだ。前に勧められて飲んでみたら、信じられないくらい苦かった。


 人の声は、僕にとっては情報だ。高さや速さ、語尾の癖を束ねて、名前に結びつける。中原さんの声も、同じように束ねているはずだった。束ねたあとに、何かが余る。余ったものの置き場所が分からなくて、僕はいつもそれを忘れることにしていた。


「今週はもう来ないのかと思ってた」

「撮影終わったの、この間の日曜。しばらく休み」


 中原さんはそのまま机にべたっと突っ伏して、顔だけこっちへ向けた。


「だから、やっと普通の高校生に戻れます」

「数日だけでしょ」

「そういうこと言わないの」


 ばしばし机を叩かれて、こらえていた笑いがもれた。中原さんは起き上がって、伸びをする。


「あ、でも来週おっきいオーディションある。何のかは、受かってから言う」

「落ちたら、どうするの」

「墓まで持ってく」


 冗談めかしているけれど、指先が机の縁を細かく叩いていた。本人は気づいていない。


「今日休みなら、家で寝てたほうがいいんじゃないの。最近寝れてないでしょ」

「やだ。せっかく自由なんだから」

「美術室に来るのが自由なの」

「そう。ここに来るのが、いちばん自由」


 中原さんは小さくあくびをして、描きかけのデッサンのほうを向いた。


「仕事してるとさ、思ってるように青春できないんだよ」

「青春って、たとえば」

「友達とカラオケ行くとか、クラスのみんなで文化祭の準備するとか」

「普通だな」

「その普通が、私には難しいの」


 外を歩いていると結構バレるのだと、中原さんは言った。写真を撮られたり、声をかけられたりするし、気をつけていないと変な記事が出て、知らない人から色々言われる。起きてから寝るまで、ずっと誰かに見られているような生活を考えるだけで、背中がむずむずした。


「だから、こうやって美術室でだらだらしゃべってるだけでも青春なんだ」

「それは、さすがに基準低くないかな」

「うるさいなー。楽しいからいいの」


 中原さんは立ち上がって、棚に飾ってあった仮面を手に取った。先生がアフリカで買ってきたと聞いているけれど、どこの民族のものかは誰も知らない。獣みたいな顔に尖った嘴がついていて、目のところがくり抜かれている。神様をかたどったものらしいのに、どう見てもゲームに出てくる敵だ。人の顔からは遠い形をしているせいか、この仮面は、僕の目にもちゃんと見える。


「はい、これでバレませーん」


 中原さんがふざけてそれを顔に当てて、こっちを向いた。くり抜かれた穴の奥に、色があった。光に透かした琥珀(こはく)。細い金の筋が散っていて、瞬きのたびに縁が揺れる。睫毛(まつげ)の一本一本まで見えた。


「……ちょっと待って」

「どうかした?」


 僕が声を漏らしたとたん、その色は黒に飲みこまれた。仮面が下ろされて、また何もない場所に戻る。今のは気のせいだ。そういうことにしたほうが楽だった。


「もしかして、呪いの仮面とかだったりする……?」


 中原さんが怯えた声で言う。仮面を持つ手が小さく震えていた。体の内側にあった冷たさが、すっと引いていく。突拍子もない勘違いに、からかいたくなった。


「それ、下手に触ると祟られるって先生が言ってた」

「……ほんと?」

「全然嘘」

「ちょっと! 本気で信じたんだけど」

「ごめん。でも騙されやすすぎだって」

「神崎くんが真顔で言うからでしょ」


 中原さんは仮面を棚に戻した。位置を直して、もう一度触れてから手を離す。声のトーンが落ちた。


「……責任取って。びっくりしたダメージの回復。甘いもの補給したい」

「購買行けば」

「違う」


 そこで、中原さんは一瞬黙った。肩から垂れた黒髪を、指先でくるくる巻きつけている。ゆっくり息を吸って、もう一度口を開いた。


「喫茶店、付き合って」

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