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窓を開けると、草の匂いが入ってきた。桜はとっくに散って、校舎のまわりの木はどれも明るい緑の葉に変わっている。そのうち蝉も鳴きはじめるのだろう。夏が近づいてくるこの時期の、落ち着かない感じが、僕は嫌いじゃない。
中原さんは言っていたとおり、二日後に美術室へ来て、その次の日も来て、そのまた次の日は仕事で来なかった。来ない日があるせいで、かえって来る日のほうが当たり前になっていく。昼休みは奏多も入れて三人で食べて、仕事が休みの日は、放課後の美術室でしゃべる。約束をしたわけでもないのに、いつのまにかそうなっていた。
安田さんと室井先輩は、新作の公開初日だから、という謎の使命感を燃やして、さっさと帰っていった。二人よりはまだ真面目だったはずの高橋さんは、最近できたらしい彼氏と過ごすのに忙しいらしく、幽霊部員の階段を登っている。結局残ったのは僕だけで、サボった三人のぶんまで、デッサンの仕分けをさせられていた。バイト代を払ってほしい。
画用紙の端をそろえて、月ごとにクリップで留めていく。その手元に、光る画面が差し出された。
「見て。フォロワー十万人いった」
中原さんが弾んだ声で、スマホの画面をこっちへ向けてくる。『成瀬雫』という名前の横に、青いチェックマークと、十万一千という数字が並んでいた。
一瞬、誰のことなのか分からなかった。目の前の彼女とと結びつくまでに少しかかって、芸名か、と遅れて気づく。モノクロのアイコンの中では、黒くて長い髪の女の人が壁にもたれていて、その下の投稿には、白いドレスを着た写真があった。
ドレスのひだや細い指の線なら分かるし、きれいなのだろう、ということも分かる。真ん中が抜けているせいで、中原さんだと言われなければ、誰の写真なのかが僕には分からない。
「それって……すごいの?」
「すごいよ。去年の今ごろ二万だったんだから。五倍だよ? 五倍」
手のひらを広げて、不満そうに返される。SNSにめっぽう弱い僕には、数字の大きさがぴんとこなかった。十万人。画面の向こうには彼女を見たいと思っている人が、それだけいる。僕が知っているのは、隣でしゃべる彼女だけだ。話しているとすぐ脱線するし、急に拗ねるし、たまにびっくりするほど子どもっぽい。
「へえ」
「反応うっす」
「じゃあ、どう言えば」
「そこは、えー、すごーい、でしょ」
「えー、すごーい」
「棒読みすぎ」
ぱらり、と画用紙がめくられる。中原さんはまだ言い足りないのか、スマホをいじりながら、椅子の脚を小さく鳴らしている。そのうち手持ち無沙汰になったらしく、スマホを机に置いて立ち上がり、ふらりと部屋の隅へ歩いていった。
向かった先は、古い傘立てだった。歴代の生徒が忘れていった置き傘が押しこまれていて、骨のひしゃげたビニール傘や、色の褪せた布の傘が絡み合い、くすんだひとつの塊になっている。
「……」
中原さんはその前で立ち止まって、傘の山を見ていた。絡み合った塊のいちばん手前に、黒い傘が一本だけ立っている。持ち手のところに、細い傷があった。こっちに向けた背中の、立ち方が変だった。そこにあることを確かめるみたいに、しばらく動かない。
大きく息を吐く音がして、それから中原さんはゆっくり戻ってきた。座り直した椅子が、さっきより少し近い。
「あの傘、いつからあるの」
「知らない。僕が入る前からあると思う」
「捨てないんだ」
「捨てていいのか分からないんじゃないかな。誰のか分からないし」
「……そっか」
返事に、妙な間があった。答えてから、僕の喉の奥にも、小さく引っかかるものが残った。知らないと自分で言っておいて、あの傘のことを前から知っているような気がしたのだ。放っておけば消えるだろうと思って、そのままにした。
傘の話はそこで終わって、もう一枚めくったところで、中原さんが身を乗り出してきた。椅子ががたっと鳴って、香水の匂いがふわりと寄ってくる。
「これ、神崎くんが描いたの?」
「それは安田さんのだよ。で、これが室井先輩の」
何枚かめくってから、中原さんが感心した声を出した。
「すご……生きてるみたい」
画用紙の中で、誰かが頬杖をついている。薄くなった髪と、首の後ろに寄った皮膚の皺まで、細かい陰影で描きこんであった。
「先輩、人物画がいちばん得意だから」
さらに一枚めくると、窓辺に座る女子生徒のデッサンが出てきた。太く濃い線で一気に描いてあって、窓から差す日差しの白さまで、紙の上に残っているように見える。
「これは安田さん」
「こっちも人だ」
「安田さんもこういうの好きなんだよ。ポテチ食べながら描くから、たまに指紋がついてる」
「ほんとだ。ここ、うっすら油」
「……作品の一部ってことで良いんじゃないかな」
中原さんの手が、そのページで止まった。
「あれ。神崎くんのには、人の絵がない」
言われてみれば、僕のページは風景と静物ばかりだった。窓から見える街並みと空、履き古したスニーカー、窓際の植木鉢。
「苦手だから」
「……顔が、あるから?」
頷いた。中原さんの指が、ページの端から離れる。
数枚うしろの、自分のデッサンを渡した。二人のと並べると、影の取り方の甘さも、線の小さなぶれも、全部目につく。
「二人のと比べると、全然だめでしょ」
「そんなことないよ。十分うまいじゃん」
「ありがとう。でも、まだ足りないんだ」
足りない、という言葉は便利だ。悔しいとか羨ましいとか、押し殺しているものまで、全部まとめて入れておける。
机に置いた室井先輩のデッサンが目に入った。二つに切り分けられたオレンジで、断面からあふれる果汁のみずみずしさも、皮の表面の細かいでこぼこも、そこにある。白と黒だけでできているのに、酸っぱい匂いさえしてくる気がした。
「二人とも、いつもふざけてるのにこれだけ描けるから。正直、ずるいって思う」
「なんか、分かる」
「中原さんは、そういう側じゃないの」
そう聞くと、中原さんは言いよどんだ。机の上のスマホを、指先で少しだけ動かす。さっきまでの得意げな調子が、声から消えていた。
「私も、夜中まで台本読んで覚えても、本番で飛ぶときあるよ」
画用紙を留めかけていたクリップが、指のあいだで止まった。何でも器用にこなす人だと思っていた。
「なのに、一回読んだだけで全部入る人とかいるの。しかも演技もうまいし。私の努力はなんだったんだ!って」
中原さんは、自分の話を笑い声で締めくくった。
「結局さ、自分よりできる人ばっかり見ちゃうんだよね。で、勝手に苦しくなる」
そう言って、僕のデッサン帳を指先でとんとんと叩く。
「似てるね。私たち」
うまい人の隣で黙っているのが自分だけではないと分かって、指から力が抜けた。会話はそこで途切れて、僕は鉛筆を握り直し、中原さんは鞄から台本を出して、文字を指でなぞりはじめる。
途中で、中原さんがこっちへ身を乗り出してきた。僕の手元を覗きこむためだ。髪が肩から滑って机の上に落ち、柑橘の匂いが近くなる。
「その紙、なんで端っこだけ折れてるの」
「……鞄に入れたまま忘れてたから」
中原さんは指先でその折れ目を伸ばして、元の姿勢に戻った。戻ってから、僕はまだ息を止めていたことに気づく。
しばらく、紙を擦る音に、ページをめくる音がときどき重なった。
中原さんが台本を閉じたころには、窓から入る光がだいぶ傾いていた。表紙の隅に、赤い付箋が一枚だけ貼ってある。七月、と書いてあった。何の七月なのかは、そのとき聞かなかった。




