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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第一章「素描」
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 古い校舎の階段は、一段おりるたびに、上履きの音が上の階まで響く。踊り場の窓から差しこんだ西日が、床の上に橙色の四角をひとつ作っていた。


「ごめんね。部活、邪魔しちゃった」

「全然。真面目に絵描いてるの、僕だけだし」

「それ、美術部として大丈夫なの?」

「だいぶだめだと思う。でも、先生も怒らないんだよな。部員が減りすぎて、いてくれるだけでいい、みたいな扱いになってる」

「存在が功績なんだ」

「そういうこと」


 隣で、ふっと息がこぼれた。


「神崎くん、さっきの話」


 足音が一段ぶん遅くなって、僕もそれに合わせた。二人ぶんの足音が、同じ速さで重なる。


「顔のこと、よく言ってくれたね」

「別に……成り行きっていうか」

「あー、ごまかしてる」


 見抜かれるのが早すぎて、言い返す隙もなかった。


「人に言うの、苦手なんじゃないの」

「まあ、そうだね」


 言ったあとで相手がどんな反応をするのかを考えると面倒になって、ずっと言わずにきた。見えないということを、見える人にどう説明すればいいのかも分からないし、戸惑われても、可哀想にされても、どっちにしても困る。


 そのくせ僕は、さっきから中原さんのことを数えている。声は高くて、語尾が跳ねる。歩くときは右の踵のほうが強く鳴って、香水は柑橘に近い。パーカーの袖が長いせいで、指先が半分隠れている。それから、笑うときは、声より先に息が来る。


 数えられるものは、探せばいくらでもあった。明日にはそのうちのどれかが変わっているかもしれないし、パーカーを着てこない日も、香水を替える日もあるだろう。数えておかなければ、明日の僕は彼女を見分けられないのだから、やめるわけにはいかなかった。


「でも、嬉しかった。ちゃんと理由、知れたから。どちら様って聞かれたとき、けっこう凹んだし」

「ごめん」

「はい、謝るの禁止。さっきから多いんだって」


 咎める響きはなかった。語尾が上がっている。


「ねえ、神崎くんって、桜のほかには何描くの。美術部でしょ」

「……風景とか。あとは、物」


 答えるまでに、間があいた。中原さんは、そっか、とだけ言って、それ以上は聞かずに少し先の窓を指さした。


「じゃあ、あれは描ける? グラウンドと、あの木と、ぜんぶ」

「描けるよ」

「いいなあ」


 何がいいのか、僕には分からなかった。描けるものしか描いてこなかっただけだ。


「それより、バレなくてよかったね」

「ああ……知ってたんだ。女優やってること」


 キュッ、と上履きのゴムが床を擦る短い音がして、隣の足音が途切れた。僕も足を止める。中原さんの体が強張っている。


「あ、いや。昼に奏多から聞いただけで。でも、あんまり触れられたくないのかなと思って」


 言い訳みたいに早口で続けると、中原さんは階段の手すりに指を滑らせた。金属をなぞる細い音が、人のいない踊り場に響く。


「……中学のとき、からかわれたり、学校バラされたりして。結構、気にしてるんだ」

「そっか」


 それしか言えなかった。テレビに出ていることが、学校ではそういうふうに返ってくるのだ。知ったふうな慰めを言っても、たぶん薄っぺらく聞こえるだけだろう。それとは別に、僕は少し違うことを考えていた。この学校のほとんどの生徒は、中原さんの顔を知っている。


 学校一可愛いと言われるくらいなのだから、廊下ですれ違いざまに見たり、授業中に盗み見たりして、知らない人のほうが少ないはずだ。その中で、僕だけが知らない。同じ学校に通って、今こうして同じ階段をおりていても、僕は中原さんの顔を見たことがない。


 それが引け目なのか、得をしているのか、僕には分からない。


「だから、ありがと」


 少し黙ってから、小さな声で言われた。


「まあ……さっきの二人はそんなことしないと思うけど、言っとくよ。話題にしないでって」

「なにそれ。頼もしいじゃん」

「別に、そんなんじゃないよ」

「そういうこと言う人って、だいたいちょっと頼もしいんだよ」

「初めて言われた」

「じゃあ記念日だね。神崎くんが頼もしくなった記念日」

「毎年祝うの、それ」

「祝うよ。ケーキ買ってくる」


 謎の記念日が、薄暗い階段の途中で制定される。意味は分からないのに、やりとりの調子がよくて、つい声が出た。


「あ、そうだ」


 踊り場で、中原さんの足音がやんだ。


「話しかけるとき、先に名前言ったほうがいい? そしたら、すぐ分かるでしょ。中原です!って」

「……それは、助かるけど」


 そうしてもらえたらどれだけ楽かは、僕がいちばんよく知っている。知っているのに、誰かに合わせてもらうことに、僕は慣れていなかった。合わせてもらったぶんだけ、いつか返さなければいけない。返せるものが、僕には何もない。


「やっぱり、やめとく。名前で当てられても、嬉しくないし」


 中原さんは先に階段をおりはじめて、何段か先で振り返った。何も言わずに、短く息をもらして、またおりていく。


 一階に近づくにつれて、グラウンドの掛け声や、どこかの教室で机を引きずる音が大きくなってきた。


「ねえ、仕事ない日さ、美術部行ってもいい?」


 一階の廊下が見えてきたところで、急に聞かれた。


「いいよ。だめな理由ないし。さっきの二人も、何も言わないと思うよ。むしろ喜ぶんじゃないかな」

「やった」


 上履きの踵の音が、さっきより軽い。昇降口まで来ると、開いた扉から風が入ってきて、床の砂がこまかく光った。


「じゃあ、お昼ご飯とかは?」

「それもいいよ。奏多もいるけど」

「平気。むしろ安心した。神崎くんと二人きりだと、なんか緊張するし」

「……僕もする」


 言ってから、正直すぎたと思った。顔が熱くなる。中原さんの笑い声が、昇降口の高い天井によく響いた。


「じゃあ、おあいこだね」


 振り返った中原さんの顔は、相変わらず黒い。声の弾み方と足取りだけで、本当に笑っているのが分かった。


 こんなふうに声で笑う人には、会ったことがなかった。昇降口を出ていく背中を見送って、美術室へ戻る。部屋には誰もいなかった。安田さんも室井先輩も、いつのまにか帰ったらしい。窓が一枚開いたままで、春の夕方の、少しぬるい風が入ってくる。


 デッサン帳を開いて、さっき閉じたページの続きに鉛筆を置いた。置いたまま、動かせなかった。何を描こうとしているのかは、自分でも分かっている。一本も線を引けないまま、日が落ちるまでそこに座っていた。

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