↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第一章「素描」
PR
4/11

3

 黒板を書き写して、当てられれば答えているうちに、チャイムが鳴って次の授業が始まる。外から見える一日はいつもどおりに進んでいって、それがかえって落ち着かない。その日の午後は、やけに長かった。放課後になると、すぐに席を立って美術室へ向かった。


 廊下ですれ違うたびに話し声が途切れて、僕はつい俯いてしまう。


「あの人だよ」


 そんな声が聞こえた気がした。空耳だろう。誰も僕のことなんか見ていないと分かっているのに、朝からまとわりついている居心地の悪さは、いっこうに離れてくれない。後ろで笑い声がしても、振り返って確かめる勇気はなくて、階段を足早に上った。踊り場の床に西日が細長く差していて、部活へ向かう生徒たちの影が、その上を次々に横切っていく。どの足音も、行き先が決まっているように聞こえた。


 美術室には、まだ誰もいなかった。一日閉めきっていた部屋に、紙と絵の具の匂いがこもっている。窓を開けると、遠くで野球部がランニングをしていた。


 自分の席に着いて、デッサン帳を開いた。鉛筆を握ると、指の側面が紙に触れる。この感触があるあいだだけは、ほかのことを考えずに済んだ。窓枠を引き、校庭の縁に張られた金網を引いて、バックネットの支柱と、土の上に伸びたその影も足していく。金網の向こうを、白いユニフォームの列が横切っていった。


 腕の振り方も膝の上がり方も一人ずつ違っていて、疲れてくると誰から背中が傾くのかまで、ちゃんと見えている。鉛筆はそこへ向かわなかった。紙の中の校庭には、金網と支柱と、その影しかない。線が届くところと届かないところの境目は、いつも同じ場所にある。


 首の下までなら引ける。その上をどう引けばいいのかが、分からない。いつからか、僕は人のいない構図ばかりを選ぶようになっていた。最初から枠の外に置いてしまえば、描けなかったのか描かなかったのか、誰にも見分けがつかないし、自分でも、分からないふりができる。


 手なら動く。楕円を描いて、目の位置に点を打ち、鼻筋を通して口の線を引けばいいだけで、描き方は教科書にも載っている。それをやったところで、僕はそこに誰も見ていない。


 小学生のころ、描こうとしたことがある。図工の時間に、隣の席の子の似顔絵を描く課題が出た。僕はその子の髪型と、シャツの襟の形と、右手に握った鉛筆までを描いて、顔のところだけを白いまま出した。先生は困ったような声で、続きを描きましょうね、と言う。描けない、とは言えなかった。


 描けないと言うためには、見えていないと言わなければならない。そのころの僕は、まだそれだけの言葉を持っていなかった。腹が立ったのか、悲しかったのか、今でもよく分からない。次の時間に、僕は顔のところを丸ごと黒く塗り潰した。鉛筆を寝かせて、紙が破れる寸前まで何度も往復させ、手のひらの横が真っ黒になるまでやめなかった。


 職員室に呼ばれてから先のことは、覚えていない。洗っても洗っても指の皺から黒が落ちなかったことと、その日の給食を残したことだけは、今も覚えている。それから、僕は人を描かない子どもになった。


 金網を描き終えてページを閉じると、急に体が重くなった。朝から大したことはしていないのに、鉛筆一本ぶん集中しただけで、もう何も残っていない。鞄を枕がわりにして、机に伏せる。眠りかけたところで扉の開く音がして、足音が近づいてきて、すぐそばで止まった。


「……神崎くん」


 顔を上げると、女子が一人立っていた。ブレザーの上から、体には少し大きい黒いパーカーを羽織っている。上履きの緑は、僕と同じ二年生の色だ。安田さんならもっと声が低いし、高橋さんよりは髪が長いから、美術部の誰でもない。聞き覚えのある声なのに、どこで聞いたのかが出てこなかった。


「えっと。……どちら様、でしたっけ」

「え……中原。中原雫」


 名前を聞いたとたん、校舎裏の桜が戻ってきた。


 課題のあいだは、隣の丸椅子に座る人が、校舎裏では段の隣にいる人が、中原さんだった。放課後の美術室には、そのどちらもない。黒いパーカーも、授業では一度も見ていなかった。


「……ごめん。中原さん」

「うん……顔ぐらいは覚えててほしかったかな。ペアだったんだし」


 軽く刺すように付け足して、中原さんは隣の椅子を引いて座った。柑橘に似た、すっきりとした匂いがする。香水だろうか。外じゃ気づかなかった。


 昼に奏多から聞いた女優という言葉が、隣に座っている人と、まだうまく重ならない。自分が汗臭くないかが急に気になって、襟を寄せて嗅いでみた。


 臭くは、ないはずだ。傍から見ればだいぶ変なことをしている僕を気にも留めずに、中原さんは、優子と美奈のことなんだけど、と話しはじめた。


「お昼、教室まで行ったんでしょ。ごめんね。悪気はないんだけど、二人とも面白がりで」


 謝りに来たらしい。友達のしたことを、わざわざ。


「いや……別に、怒られたわけじゃないから」


 言わなければ、このまま終われる。ペアを組んだ相手の顔も覚えていない、感じの悪い男子。それで終わりだ。課題はもう済んだのだし、そのうち他人に戻る。


 さっきの、顔ぐらいは、という声が耳から離れなかった。忘れたわけじゃないと言えば済む話なのに、それを信じてもらうには、見えていないと打ち明けるしかない。打ち明けたらどうなるのかも、だいたい分かっている。気味悪がられるか、冗談だと思われるかで、今こうして隣に座っている距離が、一瞬で遠くなる。忘れられたと思われたまま終わるほうが、もっと嫌だった。膝の上で、拳を握る。


「さっきの、どちら様、っていうの。あれ、理由があるんだ」


 人の覚え方からして、僕は最初からみんなと同じにはできない。ずっと飲みこんできた言葉が、喉元までせり上がってくる。


「……あんまり、人に言ってないんだけど」


 絞り出した声は、自分でも聞き取りにくかった。


「僕、人の顔が分からないんだ」

「分からないって、どういうこと」


 戸惑いが、そのまま声に出ていた。うまく説明できる気がしなくて、鞄から英語の教科書を出す。適当なページを開くと、テニスをしているトムのイラストが載っていた。ラケットの構え方と、跳ねるように引かれた線から、たぶん笑っている絵なのだろうと見当がつくだけで、顔のあたりは、僕にはもともと黒い。


 転がっていたボールペンを、そこへ押し当てた。手が震えていて、それを見られたくなくて、必要以上に強く塗る。顔の線の内側を、端から端まで、誰が見ても何も分からなくなるまで。下のページにまで、インクの黒が滲んでいった。


「……こんな感じ」


 黒くなったトムの顔を、中原さんのほうへ向けた。


「昔から、人の顔が分からなくて。黒く塗り潰したみたいに見える。だから、中原さんのことも、忘れてたわけじゃないんだ」


 中原さんは、ページの端をつまんだまま、めくらなかった。指先が、インクで黒く汚れる。窓の外で、金属バットの音がひとつ鳴った。


「今、私の顔も見えないの」

「見えない」

「家族とか、自分の顔も?」

「うん。だから人のことは、声とか髪型で覚えてる。それしかできなくて」


 言い終えてから、身構えた。次に来るものは、だいたい決まっている。可哀想。大変だね。私にできることある? どれもありがたい言葉のはずなのに、受け取ったあとで、必ず距離ができる。優しさを差し出された僕は、そのぶんだけ、後ろに下がらなければいけなくなる。


 中原さんは黙って教科書を閉じて、机の上に置いた。表紙の上で、指がひとつ、ふたつと動く。


「そう、なんだ」

「ごめん」

「なんで神崎くんが謝るの」


 語尾が、笑いで少し崩れた。


「どちら様、って言われたのは、ちょっと怒ってるけど」

「やっぱり怒ってるんだ」

「怒るよ。授業で隣だった人に、初めましての声で聞かれたんだから」


 冗談めかしているのに、語尾だけが、下がりきらずに残っている。


「……ごめん」

「だから、謝りすぎ。ちゃんと話してくれたから、もういいよ」


 廊下の奥で、モップの柄が壁に当たって、かたんと鳴った。


「私が明日、髪型変えたらどうなるの」

「……分からなくなると思う」

「じゃあ、変えない」


 あんまりあっさり言われたので、返事が遅れた。


「いや、そんな。僕のために、そこまで――」

「私のためだよ」


 中原さんは、机の縁を指でトンと叩いた。


「明日また、どちら様ですかって言われるの、私が嫌だから」


 自分が嫌だから、という理由にしてある。僕には返す言葉がなかった。可哀想とも、大変だねとも言わずに、中原さんは明日どうするかの話をしている。


「じゃあさ、杉本くんは?」

「杉本……ああ、奏多」

「うん。いつも一緒にいるじゃん。どうやって見分けてるの」

「声。あと、背が高いから」

「ほかには」

「歩き方。あいつ、左足だけ少し引きずるみたいに出すんだ。本人は気づいてないけど」


 こんなことを誰かに説明したのは初めてで、説明できるとも思っていなかった。


「へえ。なんか、すごいね」

「すごくないよ。そうしないと分からないだけだから」

「じゃあ、私は? 私のこと、今どこまで数えてるの」

「……声と、香水と。あと、パーカーの袖が長いこと」


 自分の手元を見たらしく、布の擦れる音がした。


「ほんとだ、半分隠れてる。じゃあ明日も着てくるね」


 中原さんが笑った。声より先に短く息が抜けて、僕はそれも数に入れた。


「杉本くんみたいに見分けられる人って、ほかにもいるの?」

「家の人と、奏多くらい。あとは、部室の中でなら部員も」

「少なっ」

「一人ぶん数えるのに、時間がかかるんだよ」


 中原さんは少しのあいだ黙っていた。パーカーの袖から半分出た指が、机の縁をなぞっている。


「じゃあ、私もそこに入れてよ。友達から」


 から、のあとは続かなかった。軽い声のまま、そこで言い切ってしまう。何が続くのかを聞き返せずに、僕は椅子の座面を握った。隣の椅子が小さく鳴って、中原さんがこちらへ向き直る。さっきより、距離が近い。


「私のこと、覚えてほしい。声でも、髪型でも。なんでもいいからさ」


 握っていた座面が、汗で滑った。


「……覚える」


 そのとき、扉が勢いよく開いた。入ってきたのは同じ美術部の安田さんで、赤いリュックを背負い、ポテトチップスの袋と漫画を何冊か抱えている。安田さんは入るなり、後ろを振り返った。


「室井先輩。神崎が女連れ込んでます」


 安田さんの後ろから、部長の室井先輩がにゅっと顔を出した。


「退部にします。うちの部、恋愛禁止なので」

「……そのルール、初耳ですけど」

「今できました」

「神崎いなくなったら、人数足りなくて廃部ですよ。今年、一年生入らなかったんで」

「それは困ります。じゃあそこの彼女、美術部に入りませんか」


 室井先輩がじりじりと寄ってくる。それに合わせて、中原さんの肩が強張った。初対面の三年生にいきなり勧誘されたのだから、無理もない。


「あ、私、その、仕事があって」

「仕事? アルバイトとかですか」

「あー! はい! バイト! バイトです! 週五くらいで入れてて!」


 声が少し上ずっていた。さっきまで僕に向けていた話し方より明るくて、言葉の継ぎ目がぎこちない。顔は分からなくても、声がこの話題から逃げているのは分かった。何の仕事なのかは、昼に奏多から聞いている。


「週五ですか。それはすごい。じゃあ諦めます」


 そう言いながら、室井先輩はまだ何か続けそうだった。


「先輩。バイトの時間、近いらしいので」


 口のほうが先に動いていた。このやり方でよかったのかどうか、確かめる暇はない。今は、中原さんをここから逃がしたかった。


「そうなんですね。頑張ってください。あ、暇なときはいつでも来てくださいね」

「ありがとうございます。……じゃあ、私はこれで。神崎くん、またね」

「うん。また」


 中原さんは小さく手を振って、扉へ向かった。その背中をなんとなく目で追っているうちに、気づけば立ち上がっていた。一歩踏み出したところで、中原さんが振り返る。


「どうしたの?」

「あ、いや……」


 本当に、どうしたんだろう。引き留めたいわけじゃないし、話したいことも、もう思いつかない。遠ざかっていく足音を聞いているうちに、このまま帰してしまうのが惜しくなっていた。


「神崎。彼女なら送ってきたら」


 ポテトチップスの袋に手を突っこむ乾いた音と一緒に、安田さんが言った。いつのまにか袋を開けて僕の横に立っていたので、驚いた。


「いや、別に彼女とかじゃ――」

「じゃあ送らなくていいの?」

「……送ります」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。