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黒板を書き写して、当てられれば答えているうちに、チャイムが鳴って次の授業が始まる。外から見える一日はいつもどおりに進んでいって、それがかえって落ち着かない。その日の午後は、やけに長かった。放課後になると、すぐに席を立って美術室へ向かった。
廊下ですれ違うたびに話し声が途切れて、僕はつい俯いてしまう。
「あの人だよ」
そんな声が聞こえた気がした。空耳だろう。誰も僕のことなんか見ていないと分かっているのに、朝からまとわりついている居心地の悪さは、いっこうに離れてくれない。後ろで笑い声がしても、振り返って確かめる勇気はなくて、階段を足早に上った。踊り場の床に西日が細長く差していて、部活へ向かう生徒たちの影が、その上を次々に横切っていく。どの足音も、行き先が決まっているように聞こえた。
美術室には、まだ誰もいなかった。一日閉めきっていた部屋に、紙と絵の具の匂いがこもっている。窓を開けると、遠くで野球部がランニングをしていた。
自分の席に着いて、デッサン帳を開いた。鉛筆を握ると、指の側面が紙に触れる。この感触があるあいだだけは、ほかのことを考えずに済んだ。窓枠を引き、校庭の縁に張られた金網を引いて、バックネットの支柱と、土の上に伸びたその影も足していく。金網の向こうを、白いユニフォームの列が横切っていった。
腕の振り方も膝の上がり方も一人ずつ違っていて、疲れてくると誰から背中が傾くのかまで、ちゃんと見えている。鉛筆はそこへ向かわなかった。紙の中の校庭には、金網と支柱と、その影しかない。線が届くところと届かないところの境目は、いつも同じ場所にある。
首の下までなら引ける。その上をどう引けばいいのかが、分からない。いつからか、僕は人のいない構図ばかりを選ぶようになっていた。最初から枠の外に置いてしまえば、描けなかったのか描かなかったのか、誰にも見分けがつかないし、自分でも、分からないふりができる。
手なら動く。楕円を描いて、目の位置に点を打ち、鼻筋を通して口の線を引けばいいだけで、描き方は教科書にも載っている。それをやったところで、僕はそこに誰も見ていない。
小学生のころ、描こうとしたことがある。図工の時間に、隣の席の子の似顔絵を描く課題が出た。僕はその子の髪型と、シャツの襟の形と、右手に握った鉛筆までを描いて、顔のところだけを白いまま出した。先生は困ったような声で、続きを描きましょうね、と言う。描けない、とは言えなかった。
描けないと言うためには、見えていないと言わなければならない。そのころの僕は、まだそれだけの言葉を持っていなかった。腹が立ったのか、悲しかったのか、今でもよく分からない。次の時間に、僕は顔のところを丸ごと黒く塗り潰した。鉛筆を寝かせて、紙が破れる寸前まで何度も往復させ、手のひらの横が真っ黒になるまでやめなかった。
職員室に呼ばれてから先のことは、覚えていない。洗っても洗っても指の皺から黒が落ちなかったことと、その日の給食を残したことだけは、今も覚えている。それから、僕は人を描かない子どもになった。
金網を描き終えてページを閉じると、急に体が重くなった。朝から大したことはしていないのに、鉛筆一本ぶん集中しただけで、もう何も残っていない。鞄を枕がわりにして、机に伏せる。眠りかけたところで扉の開く音がして、足音が近づいてきて、すぐそばで止まった。
「……神崎くん」
顔を上げると、女子が一人立っていた。ブレザーの上から、体には少し大きい黒いパーカーを羽織っている。上履きの緑は、僕と同じ二年生の色だ。安田さんならもっと声が低いし、高橋さんよりは髪が長いから、美術部の誰でもない。聞き覚えのある声なのに、どこで聞いたのかが出てこなかった。
「えっと。……どちら様、でしたっけ」
「え……中原。中原雫」
名前を聞いたとたん、校舎裏の桜が戻ってきた。
課題のあいだは、隣の丸椅子に座る人が、校舎裏では段の隣にいる人が、中原さんだった。放課後の美術室には、そのどちらもない。黒いパーカーも、授業では一度も見ていなかった。
「……ごめん。中原さん」
「うん……顔ぐらいは覚えててほしかったかな。ペアだったんだし」
軽く刺すように付け足して、中原さんは隣の椅子を引いて座った。柑橘に似た、すっきりとした匂いがする。香水だろうか。外じゃ気づかなかった。
昼に奏多から聞いた女優という言葉が、隣に座っている人と、まだうまく重ならない。自分が汗臭くないかが急に気になって、襟を寄せて嗅いでみた。
臭くは、ないはずだ。傍から見ればだいぶ変なことをしている僕を気にも留めずに、中原さんは、優子と美奈のことなんだけど、と話しはじめた。
「お昼、教室まで行ったんでしょ。ごめんね。悪気はないんだけど、二人とも面白がりで」
謝りに来たらしい。友達のしたことを、わざわざ。
「いや……別に、怒られたわけじゃないから」
言わなければ、このまま終われる。ペアを組んだ相手の顔も覚えていない、感じの悪い男子。それで終わりだ。課題はもう済んだのだし、そのうち他人に戻る。
さっきの、顔ぐらいは、という声が耳から離れなかった。忘れたわけじゃないと言えば済む話なのに、それを信じてもらうには、見えていないと打ち明けるしかない。打ち明けたらどうなるのかも、だいたい分かっている。気味悪がられるか、冗談だと思われるかで、今こうして隣に座っている距離が、一瞬で遠くなる。忘れられたと思われたまま終わるほうが、もっと嫌だった。膝の上で、拳を握る。
「さっきの、どちら様、っていうの。あれ、理由があるんだ」
人の覚え方からして、僕は最初からみんなと同じにはできない。ずっと飲みこんできた言葉が、喉元までせり上がってくる。
「……あんまり、人に言ってないんだけど」
絞り出した声は、自分でも聞き取りにくかった。
「僕、人の顔が分からないんだ」
「分からないって、どういうこと」
戸惑いが、そのまま声に出ていた。うまく説明できる気がしなくて、鞄から英語の教科書を出す。適当なページを開くと、テニスをしているトムのイラストが載っていた。ラケットの構え方と、跳ねるように引かれた線から、たぶん笑っている絵なのだろうと見当がつくだけで、顔のあたりは、僕にはもともと黒い。
転がっていたボールペンを、そこへ押し当てた。手が震えていて、それを見られたくなくて、必要以上に強く塗る。顔の線の内側を、端から端まで、誰が見ても何も分からなくなるまで。下のページにまで、インクの黒が滲んでいった。
「……こんな感じ」
黒くなったトムの顔を、中原さんのほうへ向けた。
「昔から、人の顔が分からなくて。黒く塗り潰したみたいに見える。だから、中原さんのことも、忘れてたわけじゃないんだ」
中原さんは、ページの端をつまんだまま、めくらなかった。指先が、インクで黒く汚れる。窓の外で、金属バットの音がひとつ鳴った。
「今、私の顔も見えないの」
「見えない」
「家族とか、自分の顔も?」
「うん。だから人のことは、声とか髪型で覚えてる。それしかできなくて」
言い終えてから、身構えた。次に来るものは、だいたい決まっている。可哀想。大変だね。私にできることある? どれもありがたい言葉のはずなのに、受け取ったあとで、必ず距離ができる。優しさを差し出された僕は、そのぶんだけ、後ろに下がらなければいけなくなる。
中原さんは黙って教科書を閉じて、机の上に置いた。表紙の上で、指がひとつ、ふたつと動く。
「そう、なんだ」
「ごめん」
「なんで神崎くんが謝るの」
語尾が、笑いで少し崩れた。
「どちら様、って言われたのは、ちょっと怒ってるけど」
「やっぱり怒ってるんだ」
「怒るよ。授業で隣だった人に、初めましての声で聞かれたんだから」
冗談めかしているのに、語尾だけが、下がりきらずに残っている。
「……ごめん」
「だから、謝りすぎ。ちゃんと話してくれたから、もういいよ」
廊下の奥で、モップの柄が壁に当たって、かたんと鳴った。
「私が明日、髪型変えたらどうなるの」
「……分からなくなると思う」
「じゃあ、変えない」
あんまりあっさり言われたので、返事が遅れた。
「いや、そんな。僕のために、そこまで――」
「私のためだよ」
中原さんは、机の縁を指でトンと叩いた。
「明日また、どちら様ですかって言われるの、私が嫌だから」
自分が嫌だから、という理由にしてある。僕には返す言葉がなかった。可哀想とも、大変だねとも言わずに、中原さんは明日どうするかの話をしている。
「じゃあさ、杉本くんは?」
「杉本……ああ、奏多」
「うん。いつも一緒にいるじゃん。どうやって見分けてるの」
「声。あと、背が高いから」
「ほかには」
「歩き方。あいつ、左足だけ少し引きずるみたいに出すんだ。本人は気づいてないけど」
こんなことを誰かに説明したのは初めてで、説明できるとも思っていなかった。
「へえ。なんか、すごいね」
「すごくないよ。そうしないと分からないだけだから」
「じゃあ、私は? 私のこと、今どこまで数えてるの」
「……声と、香水と。あと、パーカーの袖が長いこと」
自分の手元を見たらしく、布の擦れる音がした。
「ほんとだ、半分隠れてる。じゃあ明日も着てくるね」
中原さんが笑った。声より先に短く息が抜けて、僕はそれも数に入れた。
「杉本くんみたいに見分けられる人って、ほかにもいるの?」
「家の人と、奏多くらい。あとは、部室の中でなら部員も」
「少なっ」
「一人ぶん数えるのに、時間がかかるんだよ」
中原さんは少しのあいだ黙っていた。パーカーの袖から半分出た指が、机の縁をなぞっている。
「じゃあ、私もそこに入れてよ。友達から」
から、のあとは続かなかった。軽い声のまま、そこで言い切ってしまう。何が続くのかを聞き返せずに、僕は椅子の座面を握った。隣の椅子が小さく鳴って、中原さんがこちらへ向き直る。さっきより、距離が近い。
「私のこと、覚えてほしい。声でも、髪型でも。なんでもいいからさ」
握っていた座面が、汗で滑った。
「……覚える」
そのとき、扉が勢いよく開いた。入ってきたのは同じ美術部の安田さんで、赤いリュックを背負い、ポテトチップスの袋と漫画を何冊か抱えている。安田さんは入るなり、後ろを振り返った。
「室井先輩。神崎が女連れ込んでます」
安田さんの後ろから、部長の室井先輩がにゅっと顔を出した。
「退部にします。うちの部、恋愛禁止なので」
「……そのルール、初耳ですけど」
「今できました」
「神崎いなくなったら、人数足りなくて廃部ですよ。今年、一年生入らなかったんで」
「それは困ります。じゃあそこの彼女、美術部に入りませんか」
室井先輩がじりじりと寄ってくる。それに合わせて、中原さんの肩が強張った。初対面の三年生にいきなり勧誘されたのだから、無理もない。
「あ、私、その、仕事があって」
「仕事? アルバイトとかですか」
「あー! はい! バイト! バイトです! 週五くらいで入れてて!」
声が少し上ずっていた。さっきまで僕に向けていた話し方より明るくて、言葉の継ぎ目がぎこちない。顔は分からなくても、声がこの話題から逃げているのは分かった。何の仕事なのかは、昼に奏多から聞いている。
「週五ですか。それはすごい。じゃあ諦めます」
そう言いながら、室井先輩はまだ何か続けそうだった。
「先輩。バイトの時間、近いらしいので」
口のほうが先に動いていた。このやり方でよかったのかどうか、確かめる暇はない。今は、中原さんをここから逃がしたかった。
「そうなんですね。頑張ってください。あ、暇なときはいつでも来てくださいね」
「ありがとうございます。……じゃあ、私はこれで。神崎くん、またね」
「うん。また」
中原さんは小さく手を振って、扉へ向かった。その背中をなんとなく目で追っているうちに、気づけば立ち上がっていた。一歩踏み出したところで、中原さんが振り返る。
「どうしたの?」
「あ、いや……」
本当に、どうしたんだろう。引き留めたいわけじゃないし、話したいことも、もう思いつかない。遠ざかっていく足音を聞いているうちに、このまま帰してしまうのが惜しくなっていた。
「神崎。彼女なら送ってきたら」
ポテトチップスの袋に手を突っこむ乾いた音と一緒に、安田さんが言った。いつのまにか袋を開けて僕の横に立っていたので、驚いた。
「いや、別に彼女とかじゃ――」
「じゃあ送らなくていいの?」
「……送ります」




