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君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第一章「素描」
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2

 翌朝、教室の扉を開けたとたん、話し声がひとつ小さくなった。僕が席まで歩くあいだだけ低くなって、座ると元の大きさに戻る。途中でしゃべっていた二人が黙り、後ろの席で小さな笑いが上がって、すぐに引っこんだ。


 笑ったのが誰なのかも、何を笑ったのかも、僕には分からない。分かるのは笑いが引っこんだことだけで、放っておかれるより、引っこめられるほうがずっと居心地が悪い。顔が見えないぶん、僕はこういうことにばかり耳がいって、聞こえた音から勝手にあれこれ想像してしまう。


 心当たりならあった。昨日の昼休み、人の溜まった掲示板の前で、中原さんが僕を、神崎くん、と呼んだのだ。あの人だかりが誰のためのものだったのかくらいは、僕にも分かる。


 昼休みになると、女子が二人、僕の机まで来た。一人は腕を組んでいて、もう一人は細長い水筒を握っている。腕を組んでいるほうは声が低くて語尾を短く切り、水筒のほうは早口で、語尾が上がる。早口のほうは、昨日の廊下で中原さんを呼んだ声に似ていた。


「神崎くんだよね。昨日、掲示板のとこで雫としゃべってた。あ、うちら雫の友達ね。私が優子で、こっちが美奈」

「で、なんで雫と仲良くなってんの」

「あの子、自分から男子に話しかけたりしないんだよ。週一の授業でペアだっただけなのに、最後、じゃあね神崎くん、だよ?」

「その真似、似てないから」


 低い声が短く切った。水筒が机に置かれる硬い音がして、早口のほうが身を乗り出してくる。


「授業で隣だったんでしょ。近くで見て、可愛かった? 近いと、もっとやばいでしょ」


 近くで見ても遠くで見ても、僕に見えるものは同じだ。そう言ったところでこの場は何も変わらないし、もっと面倒になる。


「ねえ、聞いてる?」


 聞いている。聞こえすぎるくらい、聞こえている。頭の中では言葉がいくらでも出てくるのに、口からは何も出ていかない。息が浅くなって、耳の後ろが熱を持つ。


「おい、朔(さく)。何ボーッとしてんだよ、早く飯行こうぜ」


 後ろから、場違いに軽い声が割りこんできた。聞き間違えようがない。幼馴染の杉本奏多(すぎもとかなた)だ。背の高い奏多が前に出ると、二人の上履きが半歩ずつ下がった。


「腹減ってんだよ。早く行かねえと焼きそばパン売り切れる」

「えー、まだ答え聞いてないんだけど」

「わりぃな。俺らの飯のほうが大事なんで」


 行くぞ、と有無を言わせず肩を組んでくる。


「あ、逃げた」

「神崎くん、今度ちゃんと聞かせて」


 背中で上がった笑い声を置いて、僕たちは教室を出た。階段の踊り場まで来たところで、奏多がその場にしゃがみこむ。


「あーーー! クッソ緊張したわ! 三組の女子マジで怖えって!」

「さっきまでの余裕は」

「あんなもん演技に決まってんだろ。心臓、耳から出るかと思った」


 大げさに胸を叩いている奏多を見て、ようやく自分が息を止めていたことに気づいた。吸いこんだ空気が冷たくて、喉が痛い。


「ありがと。奏多がいなかったら、質問攻めで死んでた」

「気にすんな。お前、絵描いてるとき以外はポンコツなんだから」

「……それ、慰めてる?」

「おうよ。親友特製の、最高級のやつだ。ほら、行くぞ」


 購買は、いつもどおり階段の途中まで列が伸びていた。二階にひとつしかない売店に全校の生徒が押し寄せるのだから、少しでも出遅れるとこうなる。釣り銭を数えるおばちゃんの声と生徒の話し声が混ざって、吹き抜けに響いている。僕はおにぎりを一個と、お茶を取った。


 具が何なのかは見ていない。お腹に入ればもう何でもよかった。隣では、焼きそばパンが売り切れていたと騒いでいた奏多が、カレーパンにカツサンド、ジャムパンにいちごミルク、おまけにコーラまで、迷いなく抱えこんでいる。炭水化物と砂糖ばかりで、見ているだけでこっちの胃が重くなる。


 奏多は小学生のころから、茶碗に山盛りのご飯を三杯平らげていた。おかげで、気づいたときには僕より頭ひとつ背が高くなっていた。あれだけ食べたぶんがどこへ行ったのかは、いまだに謎だ。


「お前、それで足りんの」


 僕の手元を見て言う。ありえねえ、と言いたげな声だった。どう考えても、おかしいのはそっちのほうだと思う。


「まあ」

「だから朔はもやしなんだよ」

「もやしにも栄養はあるらしいけど」

「知らね。俺は肉の側だから」


 わざとらしい言い方に、いつもの調子が戻ってくる。会計を済ませて列から外れると、廊下はパンの袋を抱えた生徒でごった返していた。まだ春なのに、人の体温で廊下がぬるい。奏多はそっちをちらっと見ただけで、反対側へ曲がった。


「学食、行かないの」

「今から行っても席ねえだろ。うるせえし」


 人の少ない特別教室棟まで来ると、さっきまでの騒がしさが遠くなった。誰もいない廊下に、昼の光が長く伸びている。奏多がつま先で押し開けた空き教室も、中は空っぽだった。たぶん、わざとここを選んだのだ。こいつがモテるの分かるな、とこっそり思う。


「で? なんでお前が雫ちゃんとしゃべってんだよ。朝からその話で持ちきりだぞ」


 椅子にどかっと座って、抱えてきたパンを机に並べていく。こいつは昔から、どれから食べるかを決める前に、手をこすり合わせる。


「美術の課題で、隣になった」

「いや、端折りすぎだろ」

「本当にこれだけなんだよ」

「ペアだったんだろ。なんか話すだろ、普通」


 奏多があきれた声で、カレーパンの袋を開けた。僕もおにぎりの包みを剥がす。


「鉛筆の持ち方を教えた」

「色気ねえな」

「あとは、桜がいつ散るかとか」

「老人ホームかよ」


 どうしてみんな、誰と誰が並んでいたかなんてことを、こんなに知りたがるのだろう。恋愛の話ですらないのに。姉の怜奈が一時期はまっていた恋愛リアリティショーのほうが、まだ分かる。あれは作り物だと、業界にいる怜奈本人が言っていた。作り物だと分かったうえで見るのなら、気も楽だ。


「でもさ、あの雫ちゃんだぞ。学校一可愛いって言われてて、女優もやってんだぞ」


 中原さんのことは何も知らない。学校一可愛いと言われている人と話していたのなら、それは噂にもなるのかもしれない。いや、待て。


「今、女優って言った?」

「言った。学校じゃ誰も騒がねえけど、知ってるやつは知ってるぞ。俺インスタフォローしてる」

「知らなかった」

「嘘だろ。お前、ほんとテレビ見ねえのな」


 遅れてきた日の、甘い粉と整髪料の匂いを思い出した。途中で抜けた日に、先生には言ってある、とだけ言ったことも。隣に座っていたのに、気づきもしなかった。人に興味がなさすぎると言われても、返す言葉がない。


「この前も深夜ドラマ出てたな。おっさん刺し殺してた」

「情報の出し方が最悪だろ」

「いや、マジで演技うまかったんだって。無表情で刺しまくんの。こう、グサグサって」


 奏多がカツサンドを片手に上下させはじめたので、僕はその手を押さえた。


「再現するな」

「芸術は爆発なんだろ」

「そういう意味じゃないから、それ」


 奏多は押さえられた手の下から、カツサンドをもう一口齧(かじ)った。


「で、タイトルは」

「知らん。母ちゃんが見てたのを横で見ただけだしな。でも雫ちゃんってのはすぐ分かったぞ。超可愛いし、学校でも目立ってるから」


 そこで奏多はカツサンドを机に置いた。声から、ふざけた調子が抜ける。


「さっき、なんで黙ってたんだよ。可愛かったって言っとけば、あいつら満足して帰ったのに」

「……分からないんだよ。可愛いとか、そういうの」


 そこから先が続かなかった。見えない、と口に出すのが嫌で、僕は椅子にもたれて、顔を手で覆った。


「……ああ、なるほどな」


 奏多の返事は短くて、それ以上は踏みこんでこなかった。


「小四のときに聞いたな。お前がそれ言ったの」

「覚えてたんだ」

「忘れるかよ。あんとき俺、嘘だと思ってお前泣かせたし」


 カツサンドの残りを口に押しこみながら言う。あれから奏多はその話を一度も持ち出さなかったし、僕に説明を求めたこともなかった。


「まあ、聞いたところで、俺何すりゃいいのか分かんなかったしな」

「別に、何もしなくていいんだよ」


 奏多は黙って、ストローの袋を几帳面に折り畳んだ。


「一個だけ聞いていいか。俺の顔、ほんとに見えてねえの」

「見えてない」

「……えぐいな」


 それだけ言って、カレーパンに戻る。可哀想とも、大変だなとも言わなかった。


 こいつは、僕の名前を先に呼ぶ。教室でも廊下でも、後ろからでも、声さえ聞こえれば僕は迷わずに済む。


「じゃあお前、雫ちゃんがどんな顔してんのか知らねえで、隣でしゃべってたのか」


 頷くと、奏多は天井を仰いだ。


「そりゃ、普通にしゃべれるわけだわ。俺ならぜってえ無理」


 しばらく、パンの袋とおにぎりの包みの音だけになった。奏多が、いちごミルクをこっちへ軽く押し出してくる。


「これ、やるよ。恵んでやる」

「恵むって、言い方」

「合ってるだろ。俺は寛大だから」


 とまどいながら受け取った。ジュースなんて、いつぶりだろう。紙パックにストローを差して吸ってみると、思っていたほど甘くなくて、牛乳の味の奥から、いちごの匂いが上がってきた。


「……おいしい」

「だろ。いつもはすぐ売り切れんだけど、運よく残ってた」


 奏多はコーラのキャップを回して、炭酸の抜ける音を立てた。売り切れるはずのものが今日だけ残っていた理由は、聞かなかった。聞けば、余ってたから、とでも言うのだろうけど。


 いちごミルクの紙パックを握ったまま、窓の外に目をやる。


 私のこと知ってた?


 僕は先生が口にした名前をそのまま返した。聞かれていたのは名前ではなかったのだと、今になって分かる。

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