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「おつかれぃー」
終業式のあと、ホームルームまでの休み時間に、奏多が教室へ来た。ビニール袋を片手で揺らしながら、僕の前の席に腰を下ろす。
「雫ちゃん、今日も仕事で休みだってよ。芸能人って、ほんといそがしーのな」
奏多にとっては、いつもどおり他人事だ。
「……そうなんだ」
あの日から、メッセージは一度も送っていない。打ちかけて消したものが、何個もある。
机の木目に目を落とすと、誰かが彫刻刀でつけたような細い傷が、白く残っていた。奏多は袋から焼きそばパンを出して、包装を破る。
「先週、なんかあった?」
「……なんで、そう思うの」
「別に。なんとなく」
机の傷に、爪の先を当てた。奏多はパンをひと口かじって、机に置いた。
「雫ちゃんさ、月曜、学校来てたぞ」
「……来てたの」
「四時間目の途中に。廊下歩いてんの見た」
その日の昼休み、僕は空き教室へは行かずに、美術室で一人でおにぎりを食べていた。
「……そう」
「それだけかよ」
その先が、続かなかった。奏多も黙っている。机に置いたパンに、手を伸ばさない。しばらくして、あきらめたようにパンを取り上げた。
「ま、いいや」
残りを二口で片づけて、空いた袋を小さく畳み、ポケットに入れる。
「あのさ。俺、たぶん役に立たねえと思うけど」
窓の外で、誰かがボールを蹴る音がした。
「言いたくなったら言えよ。それだけ。……言わなくてもいいけど」
奏多は立ち上がって、僕の机に軽く手をついた。
「あと、夏休み、たまには外出ろよ。腐るぞ」
「腐らないよ」
「腐るって。俺、去年腐ったから分かる」
「いつの話」
「言わねえ。腐った話は腐るから」
聞き返す前に、奏多は自分の教室へ戻っていった。
ホームルームのあいだ、担任が黒板に連絡事項を書き並べていても、誰の気持ちももう教室にはなかった。
「旅行どこ行くの」
「花火したいなあ」
「補習だりい」
あちこちで、言葉の切れ端が飛び交っている。最後の挨拶が終わったとたん、椅子が床をこする音がいっせいに重なった。いつもなら、このまま階段を上がって、美術室の扉を開ける。
「……誰も、いないしな」
自分に向けた声が、そのまま耳に戻ってくる。美術室へ向かいかけた足を止めて、昇降口へ下りた。そうやって、僕の夏休みが始まった。
♢♢♢
昼と夜の境目が、あいまいになっていく。宿題は、義務の分だけ片づけた。眠れないまま朝になって、昼過ぎに起きる日が続く。部屋の隅で扇風機が首を振って、かたかたと小さな音を立てていて、風が来るたびに、開いたままのデッサン帳のページが鳴る。
梓さんが何度か、部屋を覗きに来た。そのたびに、寝たふりをする。何度目かのとき、梓さんはドアを開けずに、廊下から声をかけてきた。
「朔くん。冷やし中華、作ったから」
「……あとで食べる」
「うん。冷蔵庫に入れておくわね」
足音が遠ざかっていく。その冷やし中華を、寝起きに一人で食べた。麺はすっかりのびている。ラップの上に付箋が貼ってあって、たれは冷蔵庫のドアのところ、と梓さんの字で書いてあった。流しで皿を洗いながら、何か言わなければと思う。
何を言えばいいのかを口の中で探して、そのまま飲みこんだ。梓さんは何も聞かない。聞かない人に何かを言うのは、聞いてくる人に答えるより、ずっと難しい。皿を伏せて、部屋に戻った。
鉛筆を握って窓の外に目をやると、何本も交差する黒い電線と、日に焼けて白っぽくなった隣の家の屋根があって、そのずっと向こうで入道雲が盛り上がっていた。電線のまっすぐな線と、瓦の重なり。目に見えるものなら、描ける。
この夏は、そういうものばかり描いてきた。橋に、商店街のシャッターに、路地。どれも誰も歩いていない場所で、それを正確に写していった。
路地の絵を描き進めているうちに、陽炎の揺れる道の上へ、人を一人描き足そうとしていた。細い肩の線と、少し長い髪が風に流れていく形。鉛筆の先が首筋のあたりまで来たところで、指が止まる。顔のところだけが、紙の白いまま残っていた。
描きかけの肩と髪を、練りゴムで消した。鉛筆を机に放ると、からからと転がって、数学の参考書にぶつかる。デッサン帳のいちばん後ろには、あの手の絵が挟んであるけれど、そこは開かなかった。開いたら、あの日の続きが始まってしまう。
七月の終わりに、奏多から連絡が来た。
『科学部で花火大会行くけど、朔も来る?』
『ごめん。最近ちょっと忙しくて』
そんな嘘が奏多に通じないことくらい、分かっている。少しあいだがあって、『りょーかい』とだけ返ってきた。スマホを机に戻したところで、別の通知が来る。ニュースアプリの見出しの頭に、成瀬雫、とあった。続きは画面の端で切れている。
押す寸前で、指を引っこめた。知ったところで、何になる。何も変わらないまま、八月になった。
♢♢♢
日付が変わるころ、麦茶を取りにリビングへ下りた。梓さんがまだ起きていて、つけっぱなしのテレビの前で洗濯物をたたんでいる。聞き覚えのある声が、スピーカーから聞こえた。
「あら、この子、可愛いわね」
麦茶のグラスを持ったまま、その場で動けなくなった。顔は見えない。声だけで分かる。春から、隣でずっと聞いてきた声だ。画面の隅に、番組の名前と、第一話、の文字が出ている。オープニングでいちばん最初に、成瀬雫の名前が出た。
グラスの中で、氷が鳴る。ソファの端に腰を下ろして、終わるまで、ひと言も話さずに画面を見ていた。役は、母親を亡くしたばかりの高校生だ。知らない人の声がする。低く落として、ときどき掠れさせて、笑うときだけ、本人の声が混ざる。
途中に、台詞のない場面があった。台所で、誰かの茶碗を洗っている。水の音と、食器の触れ合う音しかしない。手が止まって、それから何もなかったように、また動きだす。その短い場面に、中原さんは母親がいなくなったことを、まるごと入れていた。
膝の上で、拳を握っていた。中原さんは、あの店でこれを言うつもりだったのだ。
主題歌が流れて、番組が次のものに切り替わっても、立ち上がれなかった。手の中のグラスは、氷が溶けきって、麦茶が薄くなっている。ひと口も飲んでいない。台所で冷蔵庫の開く音がして、梓さんが戻ってくる。僕の手からグラスを取って、新しいのを置いた。
「氷、入れ直したから」
「……ありがとう」
梓さんは、僕が立ち上がるまで、チャンネルを変えなかった。
部屋に戻って、スマホを開いた。トークの一覧に、『しずく』がある。最後の日付は、七月のままだった。
おめでとう、と打って、指を止めて、消した。
今さらだと思う。おめでとうを言えるようなことを、僕はまだ何もしていない。スマホを裏返して、机に置いた。
♢♢♢
数日後、白の絵の具を切らして、駅前まで出た。逃げこむように駅ビルの本屋に入ると、冷えた空気が体を包む。美術書の棚へ向かう途中で、平台に積まれた女性誌が目の端に入った。
『今季ブレイク女優 成瀬雫』
見出しを最後まで読む前に、平台のほうへ体が向いていた。一冊手に取って、レジへ持っていく勇気はなくて、元に戻す。別の本を見るふりをして時間をやり過ごし、まわりに人がいないのを確かめてから、もう一度手に取った。
平台には、同じ表紙が高く積まれていた。レジの横にも並んでいるし、コンビニでも、駅の売店でも見かける。真ん中あたりに、特集のページがある。行儀よく並んだ言葉は、僕の知らない成瀬雫のものだった。
『最近お気に入りの場所は?』
『昔ながらの喫茶店。静かなところが好きです』
その一行を読んだとたん、クロックムッシュにナイフを入れたときの音と、伝票を取って歩いていった背中が、いっぺんに戻ってきた。全国で売っている雑誌の受け答えを、自分の記憶に勝手に結びつけている。それに気づいて、ページを閉じかけた。
別の店かもしれない。別の誰かと行っているのかもしれない。閉じかけたページの端に、ひとつの質問が見えた。
『最近、ハマっていることは?』
『和歌です。古典の授業で習って、素敵だなって思ってハマりました。恋愛漫画より好きです』
『いちばん好きな和歌は?』
『小野小町の、思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを、です!』
雑誌を戻した。絵の具のことは、もう頭にない。画材屋とは反対側の出口から、外へ出る。
大通りを抜けて、角を曲がる。音が遠のいて、閉まったままのシャッターが続く路地に入った。誰かの背中を追いかけずにここまで来たことは、これまでなかった。突き当たりの白いドアの上で、丸い電球が昼間から点いている。
ドアを押すと、鈴が鳴った。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から声がする。店は空いていた。梁の影が床に落ちて、モルタルのグレーを細く区切っている。入り口で立ち止まって、奥のほうを見てしまった。
誰も座っていない。分かっていたのに、確かめてしまった。
「好きなとこ座ってよ。今日は貸し切りみたいなもんだから」
前と同じ、隅のテーブルに座った。おしぼりと水が置かれる。マスターはメニューを置かないで、先に聞いてきた。
「コーラフロートでいいかい」
顔を上げた。この店に来たのは、二回だけだ。コーラフロートを頼んだのは一回目で、しかもそれは飲んでいない。中原さんと取り替えて、僕はアイスコーヒーを飲んだ。この人は、それでも僕が何を頼んだのかを覚えている。
「……ばらの花を」
注文する声は、自分の耳にも小さかった。布巾でグラスを拭く音がやんで、それから、はいよ、と返事が来る。
運ばれてきたグラスは上のほうが透明で、細かい泡が内側の壁を上っていく。底には赤いシロップが沈んでいて、その境目が濁っていた。いちばん上に浮いた何枚かの乾いた花びらは、指で押したら沈んでしまいそうなほど薄い。
ストローを挿して、上のほうだけを吸ってみる。炭酸の味しかしない。冷たい水が喉を通っていくだけだった。
混ぜれば、この花びらは沈む。
ストローを握ったまま、しばらく動かせなかった。底まで下ろして、ゆっくり回す。赤が糸を引いて立ちのぼり、透明だったところへ広がっていく。グラス全体が薄く色づいて、花びらは渦に巻かれ、底へ落ちていった。
もう一度飲む。今度は、香りのほうが先に来た。
鞄からデッサン帳を出して、描けるものを描いた。グラスの丸みと水滴の粒、木の椅子の背もたれ、窓から入った光が床に落としている細長い四角。その線を追いはじめると手が止まらなくなって、伝票立ても、壁の染みまで描いた。
描き終えて、鉛筆を置いた。紙の中で、向かいの椅子だけが空いている。
ページを戻していく。橋、商店街のシャッター、路地。誰も歩いていない場所ばかりが並んでいる。順番に見ていって、一枚のところでページを押さえた。
橋は、駅へ下りる坂の途中で渡る、あの橋だった。シャッターは、この路地の手前の店のものだ。路地は、この路地だ。この夏に描いたものは全部、この店へ来る道だった。人のいない場所を選んで描いていたつもりで、僕はずっと、同じところへ向かう道を写していた。
伝票を持って、立ち上がる。会計を済ませたところで、声が出ていた。
「あの、最近……」
その先が出てこない。聞いてどうするのかは、考えていなかった。マスターは、お釣りをトレイにのせて、こっちへ滑らせた。
「言わないなら、僕も聞かないよ」
鈴が鳴って、外の熱が戻ってきた。
♢♢♢
家に帰って、机の上に出しっぱなしだった古典の教科書をめくる。あった。線の一本も引いていないページの隅に、その歌が載っている。
思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを
脚注に、訳がついていた。あの人のことを思いながら眠ったから、夢に出てきたのだろうか。夢だと知っていたなら、目を覚まさなかったのに。
六月の古文で、この歌を習った。あのころ、放課後の中原さんは、僕の隣で台本を読んでいた。授業では別の教室で、同じページを開いていたはずだ。僕はこの歌に、線一本引かなかった。中原さんは、引いたのだろうか。どんな気持ちでこれを選んだのか、考えるのはよした。考えたところで、僕に都合のいい読み方にしかならない。
机の上で、スマホの画面が明るくなった。美術部のグループだった。
『神崎、何描くか決まりました?』
『搬入、十月ですよ。もう描き始めてます?』
『先輩、それグループで言われても』
通知が軽い音を立てて増えていく。返信の欄を開いて、閉じた。




