18
二学期の始業式が終わった教室は、夏休みの話でうるさかった。窓から入ってくる風が、少しだけ冷たい。遠くの木で鳴いている蝉にも、七月ほどの勢いはなかった。
奏多の姿は、朝の昇降口にも、体育館の列にもなかった。
『わりい熱出た』
『今日休むわ』
朝のうちに届いていたメッセージに、お大事に、とだけ返して画面を伏せる。
昼休みのチャイムが鳴ると、教室が一気に動きだした。いつもなら、後ろの扉から奏多が入ってきて、僕の机を叩く時間だ。鞄から小銭入れを出して、席を立った。
二階の購買には、もう人が詰めかけていた。手前にあったサンドイッチとお茶を取って、お金を払うと、すぐに列を離れる。足は勝手に特別教室棟へ向かっていて、三人で昼を食べていた空き教室の前で止まった。
扉の窓から覗くと、中には誰もいない。いないのは分かっていたのに、扉を開ける気にはならなかった。通り過ぎて、美術室の前まで行く。取っ手に指をかけたところで、思った。中に、中原さんがいたら。
昼休みに中原さんが美術室にいることは、まずない。分かっていても、指に力が入らなかった。夏休み前のあの終わり方のまま二人きりになって、何を言えばいいのか分からない。取っ手から手を離して、廊下を引き返した。
特別教室棟の奥から渡り廊下を抜けると、旧校舎がある。古い書類や使わなくなった机が押しこまれているだけで、生徒も先生もめったに近づかない建物だ。ひびの入ったコンクリートの廊下を歩いて、突き当たりの重い鉄の扉を押すと、ぎい、と錆びた音がした。階段を上がって、踊り場の、光の届かない段に腰を下ろす。
コンクリートが冷たい。目の前の手すりには錆が浮いていて、鉄の匂いがする。袋を開けて、サンドイッチをかじった。いくら噛んでも、パンの味しかしない。お茶で流しこむ。
去年までは、奏多と二人で食べていた。奏多が休んだ日は、こうして人のいない場所を探して、一人で食べた。それで困ったことは、一度もない。
もうひと口かじろうとしたとき、下で鉄の扉が軋んだ。
見回りの先生なら、面倒なことになる。壁の陰に入ろうと腰を浮かせたときには、足音がもう階段を上がりはじめていた。一段ごとに、その音が近づいてくる。
最後の段を踏んで、踊り場に人が現れた。
その人は足をゆるめて、まっすぐこっちへ来た。手を伸ばせば届くくらいのところで、立ち止まる。白いブラウスの肩が上下していて、息が上がっている。
「……なんで、来たの」
しばらく、声が返ってこない。首が下を向いて、僕の手の中の、食べかけのサンドイッチのあたりで止まる。それからまた上がった。
「探した」
それだけ言うと、中原さんはスカートの裾を押さえて、僕の隣に腰を下ろした。埃っぽいコンクリートに、そのまま座る。体を動かせば、袖が触れそうな近さだった。柑橘の匂いが、鉄の匂いの上にかぶさってくる。
「どうやって、ここ」
「教室棟の一階から、順番に。全部の教室、覗いた。特別教室も」
全部、と中原さんは言った。教室棟を一階から上まで覗いて、ここまで来たのなら、昼休みはもうほとんど残っていない。
「……走ったの」
「うん、上履きで。誰にも会わなかったから、セーフ」
冗談の言い方なのに、息はまだ整っていなかった。ここには、裏の雑木林が風に揺れる音と、ずれた二人ぶんの呼吸しかない。口の中が乾いていく。中原さんは膝をそろえて、その上に両手を重ねたまま、前を向いている。
顔のあるはずのところを、横から見た。いつもと同じ黒がある。その黒の下で、走ってきた人の息が、まだ速いままだった。
「……怒ってないから」
声は平らだった。夏休み前の別れ方のことも、今日ここに隠れていたことも、その一言でまとめて片づけてしまう。
「……ごめん」
自分の声が、風の音に混ざって消えた。
「私の方こそ」
語尾が、ほとんど消えていた。手の中のサンドイッチを、袋に戻す。言うなら、今しかないと思った。
「あの日、僕が言ったこと。選べる側とか。あれ、間違ってた」
中原さんは、前を向いたままだった。
「……間違ってないよ。間違ってないから、私、何も言えなかったんだよ」
途中で、声が細くなった。
「あのとき、ほんとに、なんて言えばいいのか分かんなかったの。違うって言ったら嘘になるし、そうだねって言うのも違うし」
膝の上で重ねていた手に、力が入るのが分かった。
「だから黙った。黙ったら、神崎くんまで黙らせちゃった」
黙らせたのは僕のほうだ、と言いかけた。中原さんは、僕のぶんの悪いところをひとつ自分のほうへ引き取って、話を先へ進めてしまう。こういう言い方を、また中原さんにさせている。
「……美術室、また行ってもいい?」
膝を抱えるようにして、中原さんが聞いた。さっきより声がやわらかい。中原さんも、あの扉を開けられずにいたのかもしれない。
「うん。鍵、開けておく」
中原さんの話は、そこで終わった。並んで、向かいの壁の染みを見ている。
「……なんで、全部の教室まで」
聞くつもりはなかったのに、口から出ていた。
「神崎くん、こういうとき、自分からは来ないでしょ」
言い返せなかった。
「来ないままだったら、それきりになっちゃう気がしたの」
遠くの校舎から、予鈴が聞こえてきた。間延びした電子音が鳴り終わっても、二人とも立ち上がらなかった。




