16
ドアの前で、中原さんが足を止めた。取っ手に手をかけずに、曇ったガラスの向こうを見ている。少しの間そうしてから、マスクを外さないまま中へ入った。
鈴が鳴る。カウンターの奥からマスターが顔を出して、拭いていたグラスを置いた。
「いらっしゃい。……おや、雫ちゃん。今日もアイスコーヒーかい」
からかう声だった。前に背伸びして注文して、むせていたことを言っているのだろう。
「……今日は、そういう気分じゃないので」
中原さんの声が低い。窓ぎわの席で、女の人の二人連れが同時に黙った。片方が身を乗り出して、もう片方の耳元で何か言う。持ち上がりかけたスマホが、テーブルに戻された。中原さんはそっちに背を向けて、前と同じ隅のテーブルの、壁のほうを向く椅子に座った。
「ラムネフロート二つと、クロックムッシュも二つで」
メニューも開かずに注文する。マスターがキッチンへ引っこむと、柱時計の音しか聞こえなくなった。
「クロックムッシュって、何」
黙っているのに耐えられなくて、聞いた。
「ここの名物。食べたら分かる。ほんとにおいしいから」
運ばれてきたラムネフロートは、グラスの底に空を切り取ったようなシロップが沈んでいて、その上を透明な炭酸が満たしていた。いちばん上に、崩れかけたアイスが入道雲みたいに浮いている。少し遅れて、クロックムッシュが来た。
厚く切った食パンの上で、焼き固まったホワイトソースとチーズが、端のほうから焦げている。粗く挽いた黒胡椒が散っていた。ナイフを入れると、ざくっと音がして湯気が上がり、口に入れると、チーズの塩気と胡椒の辛さが一緒に来る。
気がつくと、二人とも黙って口を動かしていた。どちらかが何か言いだすのを、二人とも待っている。待たれているのが自分だということは分かるのに、先が出てこない。皿が空くころには、額の汗はすっかり引いていた。夏でも袖を下ろしたままの腕が、冷房でようやく冷えていく。
口の中の熱をさまそうとして、ラムネフロートに手を伸ばした。青いシロップと炭酸が混ざりきらずに、下のほうが濃い。
「……ちょっと、疲れた」
中原さんの声から、さっきの硬さが抜けていた。
「ここに来ると、外のこと忘れられるの」
青い液体が、ストローを上っていく。
「あのさ、神崎くん。さっき、言いかけたやつなんだけど」
中原さんがグラスを置いた。肩が一度上がって、下りる。
「……その前に、聞いてもいい? 神崎くんって、進路どうするの」
「……まだ、迷ってる。中原さんは?」
「私は事務所の方針もあるし、たぶん進学はしない」
言い方が軽かった。軽くして、次へつなげようとしている。
「でもさ、神崎くんなら、美大行けると思う」
「無理だよ」
遮るつもりはなかった。聞いたとたんに、口が動いていた。
「なんで。才能あるのに」
「……試験に、人物デッサンがあるから」
空いた自分の皿に目を落としたまま、答えた。
「顔が見えたら、たぶん選んでた」
「でも、慣れたら描けるようにならないの? この前だって」
あの日の美術室が浮かんだ。中原さんに左手を預けて、石膏の額に触れた。見えないものが、少しずつ形になっていった。
あのとき一度だけ、顔らしいものが紙に出た。あれは、僕の絵だったのだろうか。
「……あれは、中原さんが描かせたんだよ」
「なにそれ」
「僕の手を動かしてたのは中原さんでしょ。僕が描いたんじゃない」
言ったそばから、しまったと思った。思ったのに、口が止まらなかった。
「中原さんも言ってたじゃん。次は自分でって」
「……それは」
「やったよ。あのあと、一人で。何回も」
グラスの中で、氷がひとつ崩れた。
「全部だめだった。輪郭閉じたら中が真っ黒になるし、目のとこには何も置けないし。うつむかせて前髪で隠そうとしたときは、途中で自分が何やってるのか分かんなくなった」
中原さんのほうから、物音が消えた。
「あの絵、中原さん大事にしてくれてるでしょ。……大事にされてるって思うたびに、何もできてないのを確かめてるんだよ、僕は」
言い切ったとたん、向かいの気配が硬くなった。柱時計の音が、急に大きくなる。
「……そんなつもりで、もらったんじゃないよ」
「分かってる」
「分かってないでしょ」
初めて、中原さんの声が尖った。
「私、あの絵の話、一回もしてないよね」
言葉が速くなっていく。
「神崎くんが気にするだろうなって思ったから、ずっと言わないようにしてたの。触んないようにしてたの。それをそっちから持ち出して、それで責められるの、意味分かんない」
あの日から、中原さんはあの絵の話をしていない。していないことに、言われるまで気づかなかった。中原さんが気を回してくれていたことだけは、数えていなかったのだ。
「ごめん」
「謝んなくていい」
「……ごめん」
「だから」
続きが来ない。少しして、声の高さが元に戻る。
「……分かろうとはしてるよ、私」
声は小さいのに、なかなか耳から出ていかない。
「全部は無理でも、一緒に考えたいって思ってる」
一緒に考えたい、と中原さんは言う。この先ずっと、僕の目には人の顔が映らない。考えて解けるようなことではない。中原さんの言葉は、優しいぶんだけ、何の役にも立たなかった。
まぶしいものを差し出されて、僕は目をそらす代わりに、それを汚した。
「中原さんは、選べる側の人だから」
「……今、なんて」
「オーディション落ちても、次があるでしょ。落ちるってことは、受けられてるってことだし」
口から出たとたん、自分の耳にも聞こえた。聞こえたのに、戻せなかった。
「……僕は、受けることもできないから」
中原さんの指は、グラスの縁に置かれたまま動かない。
「……そう思う?」
答えなかった。
「私が、選べる側だって」
同じことを、さっきより低い声でもう一度聞かれた。それにも、皿のふちを見たまま黙っていた。
「そっか」
中原さんは言い返さなかった。怒ってくれたほうが、まだよかった。違うよと言われたら謝れたし、今のは間違ってると言われたら、間違えましたと返せた。中原さんは溶けかけたアイスを崩しもしないで、じっとしている。
アイスがすっかり崩れて、青に混ざりきってしまうまで、僕たちはそうしていた。入道雲だったものが、グラスの中で形をなくしていく。やがて、中原さんが鞄を膝の上に引き寄せた。
「あのさ」
顔を上げると、中原さんは鞄の持ち手を両手で握っていた。
「……なんでもない」
持ち手から、手が離れた。中原さんは立ち上がって、伝票を取る。
「今日は私が出す」
「いや、いいよ」
「いいから」
押し問答にはならなかった。中原さんがレジへ歩いていく。マスターはレジを打つあいだ、こっちを見なかった。あの様子だと、全部聞こえていたのだろう。
店を出ると、まだ西日が残っていた。淀んだ熱が体にまとわりついて、冷房で引いていた汗が一気に戻ってくる。
ドアのすぐ脇で、中原さんが立ち止まった。こっちには向き直らずに、つま先をそろえて立っている。
「ごめん、事務所寄らなきゃだから」
中原さんはいつもと反対の方向へ歩きだした。路地を出るまで、僕は一度も振り返らなかった。振り返ったところで、顔なんて見えない。




