↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の顔が描けたら  作者: 水瀬 結
第四章「剥落」
PR
19/22

16

 ドアの前で、中原さんが足を止めた。取っ手に手をかけずに、曇ったガラスの向こうを見ている。少しの間そうしてから、マスクを外さないまま中へ入った。


 鈴が鳴る。カウンターの奥からマスターが顔を出して、拭いていたグラスを置いた。


「いらっしゃい。……おや、雫ちゃん。今日もアイスコーヒーかい」


 からかう声だった。前に背伸びして注文して、むせていたことを言っているのだろう。


「……今日は、そういう気分じゃないので」


 中原さんの声が低い。窓ぎわの席で、女の人の二人連れが同時に黙った。片方が身を乗り出して、もう片方の耳元で何か言う。持ち上がりかけたスマホが、テーブルに戻された。中原さんはそっちに背を向けて、前と同じ隅のテーブルの、壁のほうを向く椅子に座った。


「ラムネフロート二つと、クロックムッシュも二つで」


 メニューも開かずに注文する。マスターがキッチンへ引っこむと、柱時計の音しか聞こえなくなった。


「クロックムッシュって、何」


 黙っているのに耐えられなくて、聞いた。


「ここの名物。食べたら分かる。ほんとにおいしいから」


 運ばれてきたラムネフロートは、グラスの底に空を切り取ったようなシロップが沈んでいて、その上を透明な炭酸が満たしていた。いちばん上に、崩れかけたアイスが入道雲みたいに浮いている。少し遅れて、クロックムッシュが来た。


 厚く切った食パンの上で、焼き固まったホワイトソースとチーズが、端のほうから焦げている。粗く挽いた黒胡椒が散っていた。ナイフを入れると、ざくっと音がして湯気が上がり、口に入れると、チーズの塩気と胡椒の辛さが一緒に来る。


 気がつくと、二人とも黙って口を動かしていた。どちらかが何か言いだすのを、二人とも待っている。待たれているのが自分だということは分かるのに、先が出てこない。皿が空くころには、額の汗はすっかり引いていた。夏でも袖を下ろしたままの腕が、冷房でようやく冷えていく。


 口の中の熱をさまそうとして、ラムネフロートに手を伸ばした。青いシロップと炭酸が混ざりきらずに、下のほうが濃い。


「……ちょっと、疲れた」


 中原さんの声から、さっきの硬さが抜けていた。


「ここに来ると、外のこと忘れられるの」


 青い液体が、ストローを上っていく。


「あのさ、神崎くん。さっき、言いかけたやつなんだけど」


 中原さんがグラスを置いた。肩が一度上がって、下りる。


「……その前に、聞いてもいい? 神崎くんって、進路どうするの」

「……まだ、迷ってる。中原さんは?」

「私は事務所の方針もあるし、たぶん進学はしない」


 言い方が軽かった。軽くして、次へつなげようとしている。


「でもさ、神崎くんなら、美大行けると思う」

「無理だよ」


 遮るつもりはなかった。聞いたとたんに、口が動いていた。


「なんで。才能あるのに」

「……試験に、人物デッサンがあるから」


 空いた自分の皿に目を落としたまま、答えた。


「顔が見えたら、たぶん選んでた」

「でも、慣れたら描けるようにならないの? この前だって」


 あの日の美術室が浮かんだ。中原さんに左手を預けて、石膏の額に触れた。見えないものが、少しずつ形になっていった。


 あのとき一度だけ、顔らしいものが紙に出た。あれは、僕の絵だったのだろうか。


「……あれは、中原さんが描かせたんだよ」

「なにそれ」

「僕の手を動かしてたのは中原さんでしょ。僕が描いたんじゃない」


 言ったそばから、しまったと思った。思ったのに、口が止まらなかった。


「中原さんも言ってたじゃん。次は自分でって」

「……それは」

「やったよ。あのあと、一人で。何回も」


 グラスの中で、氷がひとつ崩れた。


「全部だめだった。輪郭閉じたら中が真っ黒になるし、目のとこには何も置けないし。うつむかせて前髪で隠そうとしたときは、途中で自分が何やってるのか分かんなくなった」


 中原さんのほうから、物音が消えた。


「あの絵、中原さん大事にしてくれてるでしょ。……大事にされてるって思うたびに、何もできてないのを確かめてるんだよ、僕は」


 言い切ったとたん、向かいの気配が硬くなった。柱時計の音が、急に大きくなる。


「……そんなつもりで、もらったんじゃないよ」

「分かってる」

「分かってないでしょ」


 初めて、中原さんの声が尖った。


「私、あの絵の話、一回もしてないよね」


 言葉が速くなっていく。


「神崎くんが気にするだろうなって思ったから、ずっと言わないようにしてたの。触んないようにしてたの。それをそっちから持ち出して、それで責められるの、意味分かんない」


 あの日から、中原さんはあの絵の話をしていない。していないことに、言われるまで気づかなかった。中原さんが気を回してくれていたことだけは、数えていなかったのだ。


「ごめん」

「謝んなくていい」

「……ごめん」

「だから」


 続きが来ない。少しして、声の高さが元に戻る。


「……分かろうとはしてるよ、私」


 声は小さいのに、なかなか耳から出ていかない。


「全部は無理でも、一緒に考えたいって思ってる」


 一緒に考えたい、と中原さんは言う。この先ずっと、僕の目には人の顔が映らない。考えて解けるようなことではない。中原さんの言葉は、優しいぶんだけ、何の役にも立たなかった。


 まぶしいものを差し出されて、僕は目をそらす代わりに、それを汚した。


「中原さんは、選べる側の人だから」

「……今、なんて」

「オーディション落ちても、次があるでしょ。落ちるってことは、受けられてるってことだし」


 口から出たとたん、自分の耳にも聞こえた。聞こえたのに、戻せなかった。


「……僕は、受けることもできないから」


 中原さんの指は、グラスの縁に置かれたまま動かない。


「……そう思う?」


 答えなかった。


「私が、選べる側だって」


 同じことを、さっきより低い声でもう一度聞かれた。それにも、皿のふちを見たまま黙っていた。


「そっか」


 中原さんは言い返さなかった。怒ってくれたほうが、まだよかった。違うよと言われたら謝れたし、今のは間違ってると言われたら、間違えましたと返せた。中原さんは溶けかけたアイスを崩しもしないで、じっとしている。


 アイスがすっかり崩れて、青に混ざりきってしまうまで、僕たちはそうしていた。入道雲だったものが、グラスの中で形をなくしていく。やがて、中原さんが鞄を膝の上に引き寄せた。


「あのさ」


 顔を上げると、中原さんは鞄の持ち手を両手で握っていた。


「……なんでもない」


 持ち手から、手が離れた。中原さんは立ち上がって、伝票を取る。


「今日は私が出す」

「いや、いいよ」

「いいから」


 押し問答にはならなかった。中原さんがレジへ歩いていく。マスターはレジを打つあいだ、こっちを見なかった。あの様子だと、全部聞こえていたのだろう。


 店を出ると、まだ西日が残っていた。淀んだ熱が体にまとわりついて、冷房で引いていた汗が一気に戻ってくる。


 ドアのすぐ脇で、中原さんが立ち止まった。こっちには向き直らずに、つま先をそろえて立っている。


「ごめん、事務所寄らなきゃだから」


 中原さんはいつもと反対の方向へ歩きだした。路地を出るまで、僕は一度も振り返らなかった。振り返ったところで、顔なんて見えない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。